第2章第4話:孤立の完成と絶望の淵
薬の効果で久しぶりに深く眠ったエリザベートは、夜明けとともに目を覚ました。頭痛は和らいでいるが、胸の奥に重い不安が沈んでいる。今日、重要な転機が訪れる。
「お嬢様、お目覚めですか」
マリアが心配そうに声をかけてくる。
「体調はいかがですか?」
「薬のおかげで、少し楽になりました」
エリザベートは起き上がった。確かに昨日よりも体調は良い。しかし、これは一時的なものに過ぎないことを、彼女は理解していた。
「今日の謁見の準備をお手伝いいたします」
マリアの声に不安が混じっている。彼女も、今日が重要な日になることを感じているのだろう。
支度を整えながら、エリザベートは昨夜考えたことを思い返していた。薬の効果で意識がはっきりしていた時に感じた、不思議な確信。自分の役割には、まだ続きがあるのかもしれない。
「マリア、何があっても、私を信じていてください」
「お嬢様...もちろんです」
「ありがとう。あなたは私の希望です」
マリアの目に涙が浮かんだが、彼女は毅然として頷いた。
宮廷への道中、街の人々の視線はさらに厳しくなっていた。昨日の調査結果が広まっているのだろう。しかし、エリザベートは薬の効果で冷静に状況を観察することができた。
「魔女がまた宮廷に向かっている」
「今度こそ裁きを受けるだろう」
「聖女様のためにも」
人々の声に、完全な敵意があった。しかし、その中に時折混じる困惑の表情も、エリザベートは見逃さなかった。すべての人が確信を持っているわけではないのだ。
宮廷に到着すると、普段とは明らかに違う雰囲気が漂っていた。衛兵たちの表情は緊張し、廷臣たちも険しい顔をしている。
謁見の間に向かう途中、エリザベートは昨日と同じ人々とすれ違った。宮廷魔法師セラス、騎士団長バルドール、近衛騎士長マクシミリアン、宮廷楽士エルヴィン、そして第二王子レオナルド。
今日の彼らの表情は、昨日よりもさらに厳しい。セラスの冷たい観察眼、バルドールの抑えきれない怒り、マクシミリアンの計算高い視線、エルヴィンの面倒くさそうな態度、レオナルドの複雑な嫌悪感。
そして、廊下の向こうからリリアーナが現れた。彼女の目には、もはや温かさのかけらもない。
「エリザベート様」
リリアーナが冷たく挨拶した。
「今日の謁見で、真実が明らかになることを願っています」
「リリアーナ様...」
「私は最後まで、あなたを信じようとしました。でも、昨日の調査結果を受けて...」
リリアーナは言葉を続けることができなかった。彼女の純粋な心が、この状況に深く傷ついているのがわかる。
「あなたには失望しました」
その言葉は、エリザベートの心を深く刺した。しかし、彼女はリリアーナの苦悩も理解していた。
謁見の間の扉が開かれた時、エリザベートは予想していたよりも多くの人々が集まっているのを見た。主要な廷臣たちがほぼ全員参列している。重要な発表があることを示していた。
王座には第一王子ルクラードが座っていた。彼の表情は威厳に満ちているが、その奥に複雑な感情が隠れているのを、エリザベートは感じ取った。薬の効果で洞察力が鋭くなっている今、彼の内面がより鮮明に見える。
「エリザベート・フォン・ヴァルハイム」
ルクラードの声が、静寂の中に響いた。
「前に進みなさい」
エリザベートは玉座の前まで歩いた。薬の効果で足元はしっかりしているが、周囲からの視線が重く圧し掛かってくる。
「昨日の調査結果について報告を受けた」
ルクラードの声に、これまでにない厳格さが込められている。
「あなたに魔法的な異常が検出されたとのことですが、これについて説明していただきたい」
エリザベートは、ルクラードの内面を観察した。そこには、王子としての威厳を保とうとする強い意志と、状況を完全にコントロールしたいという欲求も感じられた。
「殿下、私にも原因がわかりません」
「わからない?」
ルクラードの眉がひそめられた。
「王室の一員として、そのような曖昧な答えは適切ではありません」
「でも、事実なのです」
エリザベートは毅然として答えた。
「昨夜、宮廷医のグレゴリウス師に診察していただきました。師も、特殊な魔法的影響としか説明できないと仰っていました」
「グレゴリウス師の診断があるのですか?」
ルクラードは少し関心を示した。
「はい。師によれば、私は何らかの魔法的影響下にありますが、それが悪意に基づくものかどうかは判断できないとのことでした」
「しかし」
宮廷魔法師セラスが前に出た。
「魔法的異常の存在自体が問題です。なぜこれまで申告しなかったのですか?」
「申告すべき自覚がありませんでした」
エリザベートの答えに、セラスの目に懐疑的な光が宿った。
「そのようなことが可能でしょうか?これほど明確な異常を」
「可能です」
意外にも、グレゴリウス師が発言した。
「特殊な魔法的影響の中には、被術者が自覚しないケースも存在します」
「では、その原因は何でしょうか?」
騎士団長バルドールが厳しい声で尋ねた。
「それが判明すれば、問題の半分は解決します」
グレゴリウス師は困惑した表情を見せた。
「申し訳ございませんが、私の知識では説明がつきません」
「つまり、原因不明の危険な魔法的影響を受けている可能性があるということですね」
バルドールの声に、抑えきれない激情が込められている。
「危険かどうかは不明です」
グレゴリウス師が慌てて付け加えた。
「現在のところ、他者への害は確認されていません」
「しかし、可能性は否定できない」
近衛騎士長マクシミリアンが口を挟んだ。
「王室の安全を考えれば、適切な措置が必要でしょう」
エリザベートは、マクシミリアンの冷酷な計算を感じ取った。
「適切な措置とは?」
ルクラードが尋ねた。
「一時的な宮廷からの退去をお勧めします」
マクシミリアンの提案に、会場がざわめいた。
「原因が判明し、安全が確認されるまでの間」
「それは事実上の追放ではないか」
第二王子レオナルドが異議を唱えた。しかし、その声には以前ほどの確信がない。
「美しいものを遠ざけることに、私は賛成できません」
レオナルドの表情に迷いが見える。
「レオナルド」
ルクラードが弟を見た。
「あなたも昨日、彼女の一時退去を提案したではありませんか」
「それは...」
レオナルドは言葉に詰まった。彼の内面で複雑な感情が渦巻いているのがわかる。
「私としては、音楽の調和を乱す要素は取り除いた方が良いと思います」
宮廷楽士エルヴィンが、面倒くさそうに発言した。
「宮廷の雰囲気が悪くなると、良い演奏ができませんから」
エルヴィンの表情に、明らかな疲労感が浮かんでいる。
「皆様」
リリアーナが前に出た。
「私からも申し上げたいことがあります」
会場の注目が聖女に集まる。
「エリザベート様については、私も長い間悩んでまいりました」
リリアーナの声に苦悩が滲んでいる。
「個人的には信じたい気持ちがありました。しかし、聖女として民衆の安全を考えると...」
「リリアーナ様...」
エリザベートが呟いた。
「申し訳ございません」
リリアーナは深く頭を下げた。
「しかし、現在の状況では、一時的な退去もやむを得ないかと思います」
その発言に、エリザベートは深い悲しみを感じた。
「エリザベート」
ルクラードが再び彼女に向き直った。エリザベートは、ルクラードの内面で何かが変化しているのを感じ取った。王子としての権威と責任感が、個人的な感情を上回りつつある。
「多くの意見を聞いた結果、私は決断を下さなければならない」
ルクラードの声に、これまでにない威厳が込められている。しかし、その威厳の裏に、王子としての絶対性を確立したいという強い欲求も感じられた。
「私は第一王子として、王室と民衆の安全を最優先に考える義務がある」
「殿下」
エリザベートが静かに口を開いた。
「私は皆様を愛しています。セラス様の知識への情熱も、バルドール様の正義感も、マクシミリアン様の責任感も、エルヴィン様の音楽への才能も、レオナルド様の美への愛も、リリアーナ様の純粋な心も、そして殿下の王子としての責任感も」
会場が静まり返った。
「しかし、それらが時として、皆様を苦しめていることも感じています」
エリザベートの言葉に、人々の表情が微妙に変わった。
「私の存在が、皆様の心の何かを映し出している...そんな気がしてなりません」
「何を言っているのですか」
ルクラードが困惑した声で言った。
「意味のわからない話で、状況を混乱させようとしても無駄です」
「私は混乱させようとしているのではありません」
エリザベートは毅然として答えた。
「ただ、真実を感じたままに申し上げているのです」
「真実?」
ルクラードの声に、わずかな苛立ちが混じった。
「あなたの真実と、客観的な事実は別のものです」
エリザベートは、ルクラードの内面で強い自負心が膨らんでいるのを感じ取った。王子としての判断が絶対であり、それに異を唱えることは許されないという思考。
「殿下、お聞きください」
エリザベートは最後の努力を試みた。
「私は確かに魔法的な異常を持っています。しかし、それが何のためなのか、少しずつ理解できるようになってきました」
「理解?」
「はい。私は皆様のために存在しているような気がします」
その言葉に、会場がざわめいた。
「皆様のため?我々のためだと?」
ルクラードの声に怒りが込もった。
「あなたは自分を何様だと思っているのですか?」
ついに、ルクラードの内面が露呈された。王子としての自尊心が、エリザベートの言葉を侮辱と受け取ったのだ。
「私は王子です。生まれながらにして完成された存在です。あなたごときに何かをしてもらう必要はありません」
「殿下、そのような意味では...」
「黙りなさい」
ルクラードの声が会場に響いた。
「これ以上、この無意味な議論を続けるつもりはありません」
彼の内面で、王子としての地位と権威を絶対視する思考が完全に表面化した。
「エリザベート・フォン・ヴァルハイム」
ルクラードは威厳を込めて宣言した。
「私は第一王子として、あなたに宮廷からの一時退去を命じます」
会場に緊張が走った。
「原因不明の魔法的影響が解明され、安全が確認されるまでの間、宮廷への立ち入りを禁止します」
それは、婚約破棄には至らないものの、事実上の追放だった。
「また、王室関係者との接触も制限いたします」
エリザベートは、何かの区切りがついたような気がした。
「承知いたしました」
エリザベートは深く一礼した。
「長い間、ありがとうございました」
その時、薬の効果が切れ始めたのか、軽い頭痛が襲ってきた。しかし、まだ意識ははっきりしている。
「お嬢様」
マリアが心配そうに見守っている。
「では、これで退出させていただきます」
エリザベートは優雅に一礼し、謁見の間を後にした。廊下を歩きながら、彼女は不思議な充実感を覚えていた。
すべてが予定通りに進んでいる。そんな確信があった。
屋敷に戻る馬車の中で、エリザベートは街の人々の反応を観察していた。宮廷からの退去が既に知れ渡っているのか、人々の表情に安堵の色が見える。
「これで聖女様が安全になる」
「魔女が追放された」
「やっと平和が戻る」
しかし、その中に時折見える困惑の表情も、エリザベートは見逃さなかった。すべての人が、この結果を心から喜んでいるわけではないのだ。
屋敷に到着すると、マリアが泣きそうな顔で迎えてくれた。
「お嬢様...」
「マリア、泣かないで。これで良いのです」
「でも...」
「私は間違ったことはしていません。それだけで十分です」
エリザベートは部屋に戻り、窓の外を眺めた。夕日が美しく沈んでいる。
薬の効果が完全に切れるまで、まだ少し時間がある。その間に、これからのことを考えなければならない。
宮廷からは追放された。しかし、これは終わりではないような気がする。まだ何かが始まろうとしているような予感があった。
夜が深くなるにつれて、頭痛が戻り始めた。薬の効果の限界が近づいている。しかし、エリザベートには確信があった。
明日からの日々は、きっと新しい展開をもたらすだろう。そして、その時まで、自分は持ちこたえなければならない。
「皆様が、いつか本当の幸せを見つけられますように」
エリザベートは祈るように呟いた。それが、今の彼女にできる唯一のことだった。
窓の外では、星が美しく輝いている。その光に導かれるように、エリザベートは新しい運命に向けて歩み始めようとしていた。
この話で2章は終了となります。




