第2章第2話:疑惑の深化と孤立の加速
夜明け前、エリザベートは悪夢に襲われて目を覚ました。夢の内容は曖昧だが、誰かに追い詰められているような、息苦しい感覚だけが残っている。
額に汗が浮かんでいる。頭痛も一層ひどくなっており、立ち上がる際にめまいで足がふらついた。
「お嬢様」
マリアが心配そうに駆け寄ってくる。
「また悪夢ですか?最近、夜中にうなされることが多いようで...」
「大丈夫です。ただの夢です」
しかし、大丈夫ではなかった。体調の悪化は確実に進行している。まるで何かが体の内側から崩れていくような、不気味な感覚があった。
「今日の宮廷でのご予定は...」
マリアが躊躇いがちに言った。
「もしお体が辛いようでしたら、お休みになっては?」
「いえ、行きます」
エリザベートは毅然として答えた。今、宮廷から遠ざかることは、噂をさらに悪化させるだけだろう。
支度を整えながら、マリアが昨夜の出来事を報告した。
「実は、昨夜遅くに不審な人影を見かけたとの報告が...」
「不審な人影?」
「はい。屋敷の周りを調べているような様子だったとか」
組織的な監視が始まっているのかもしれない。エリザベートは、状況がさらに深刻になっていることを実感した。
「それと...」
マリアの声がさらに小さくなった。
「街での噂も、より具体的な内容に変わっているようです」
「どのような?」
「お嬢様が...黒魔法に関わっているのではないかという話まで」
黒魔法。王国で最も忌み嫌われる禁忌の魔法。そんな濡れ衣を着せられては、もはや弁解の余地もない。
「誰が、そのような話を?」
「分かりません。でも、複数の場所で同じような内容が話されているようです」
明らかに意図的な情報操作だった。エリザベートは、背後に何者かの意志があることを確信した。
宮廷に向かう馬車の中で、エリザベートは街の人々の変化をより鮮明に感じ取っていた。明らかに恐怖心を含んだ視線で見られている。
「あれがヴァルハイム公爵令嬢...」
「黒魔法の噂は本当なのかしら」
「聖女様に嫉妬して、魔法に手を出したという...」
「恐ろしいことです」
断片的に聞こえてくる会話は、昨日よりもはるかに悪質になっていた。黒魔法という言葉が加わることで、噂の破壊力は格段に増している。
宮廷に到着すると、その変化はさらに顕著だった。廊下ですれ違う人々が、明らかに距離を置こうとしている。
「エリザベート様」
第二王子レオナルドが声をかけてきたが、その表情にはいつもの優雅さがない。美への執着で知られる彼の目に、困惑と嫌悪が混じった複雑な感情が宿っている。
「殿下」
「少し、お話しできますか?」
レオナルドはエリザベートを人目のない画廊に誘った。そこには彼が描いた美しい絵画が並んでいるが、今日の彼はそれらを見ようともしない。
「率直に申し上げます」
レオナルドの声に、これまでにない厳しさが込められている。
「最近の君の様子を見ていると...本来の美しさが失われているように感じます」
エリザベートは、彼の内面で激しい葛藤が起こっているのを感じ取った。美への純粋な愛情と、醜い現実への嫌悪感が衝突している。しかし、今日はその感覚がより鮮明だった。まるで彼の心の中を直接覗いているような、不思議な感覚。
「どのような意味でしょうか?」
「美しいものは、常に美しくあるべきです」
レオナルドは絵画に手を触れながら続けた。
「しかし、君の周りには今、醜い噂が渦巻いている。それが君の美しさを汚している」
彼の美への執着が、現実の複雑さを受け入れることを拒んでいるのがわかる。レオナルドにとって、美しいものが醜いものと関連付けられることは耐えがたいのだろう。
「噂は事実ではありません」
「それでも、美は純粋でなければならない」
レオナルドの目に、奇妙な光が宿った。
「君がこれ以上醜い噂に巻き込まれるのを見ていることはできません。美しいものは、美しい環境にあってこそ輝くのです」
「殿下は、私にどうしろと?」
「しばらく、宮廷から離れてはいかがでしょう」
それは事実上の追放勧告だった。レオナルドの美への執着が、エリザベートを遠ざけようとする方向に働いている。
「検討いたします」
エリザベートはその場を離れたが、レオナルドの視線が背中に刺さるのを感じていた。美しいものへの執着が、時として排他的になることを、彼女は痛感していた。
午前中の後半、エリザベートは音楽室で宮廷楽士エルヴィンと遭遇した。彼はリュートを手にしていたが、その調べは明らかに集中力を欠いている。
「ああ、エリザベート様」
エルヴィンが面倒くさそうに顔を上げた。音楽の才能に恵まれた彼だが、最近は怠惰な傾向が目立っている。
「エルヴィン様」
「実は、君について色々と聞かれることが多くて困っているんです」
エルヴィンは楽器を置いて、疲れたような表情を見せた。
「誰から?」
「さあ、複数の方から。僕としては音楽に集中していたいのですが」
エリザベートは、エルヴィンの内面で責任から逃れたいという気持ちと、それでも無視できない状況への苛立ちが混じっているのを、以前よりもはるかに鮮明に感じ取った。彼の怠惰な性格が、この困難な状況を避けたがっているのが手に取るようにわかる。
「どのような内容を聞かれるのですか?」
「君の日常の様子とか、最近の変化とか...正直、面倒です」
「それに」
彼は楽器を手に取りながら続けた。
「音楽家として、不穏な空気の中では良い演奏ができません。君の周りの騒動が、宮廷全体の雰囲気を悪くしている」
「申し訳ございません」
「謝られても困ります」
エルヴィンは投げやりに言った。
「ただ、早く事態が収束してくれることを願っています。僕はただ、平穏に音楽を奏でていたいだけですから」
責任を負いたくない、面倒事に巻き込まれたくないという彼の本音が透けて見える。エルヴィンの怠惰さが、この状況で明確に露呈されているのを、エリザベートは感じていた。
正午近くになって、エリザベートは近衛騎士長マクシミリアンと遭遇した。権力への欲求で知られる彼の表情には、明らかな計算が宿っている。
「エリザベート様」
マクシミリアンの声は表面的には丁寧だが、その奥に冷たさが感じられる。
「マクシミリアン様」
「最近の状況について、近衛騎士長として憂慮しております」
エリザベートは、マクシミリアンの内面を観察しながら、自分の能力の変化に気づいていた。以前なら漠然とした違和感として感じていたものが、今では相手の欲望や計算が手に取るように理解できる。まるで人の心を透視しているような、不思議な感覚だった。
この能力は何なのだろう。そして、なぜ今になって覚醒しているのだろう。体調悪化と並行して進行するこの変化に、エリザベートは運命的なものを感じずにはいられなかった。
彼の内面で、自分の地位への影響を計算する思考が働いているのが鮮明にわかる。マクシミリアンにとって、スキャンダルに巻き込まれることは避けるべき事態なのだろう。
「どのような点でしょうか?」
「王室の名誉に関わる問題を、放置するわけにはいきません」
マクシミリアンの目に、権力者特有の冷酷さが宿っている。
「近衛騎士長として、適切な措置を検討する必要があります」
「適切な措置とは?」
「まだ具体的なことは申し上げられませんが...」
マクシミリアンは意味深に言葉を濁した。
「王室との関係を見直す時期かもしれません」
それは婚約破棄を示唆する発言だった。マクシミリアンの権力への欲求が、エリザベートを切り捨てる方向に働いているのがわかる。
「私は何も悪いことはしておりません」
「それを証明する必要があるでしょうね」
マクシミリアンの返答は冷淡だった。彼にとって真実よりも、自分の立場の方が重要なのだろう。
午後の茶会は、前日よりもさらに厳しいものとなった。エリザベートが会場に入ると、明らかに彼女について話していた夫人たちの会話が止まった。
「まあ、エリザベート様」
子爵夫人の声には、もはや隠そうともしない敵意が込められている。
「今日もお元気そうで。最近の騒動にも関わらず、お強いですこと」
周囲の夫人たちの視線が、一斉にエリザベートに注がれる。その目には好奇心だけでなく、明確な非難の色が浮かんでいた。
「騒動、と申しますと?」
「ご存知ないのですか?」
別の夫人が驚いたような表情を見せた。
「街では、もう皆さんご存知のようですが」
「黒魔法の件」
三番目の夫人が、ついに核心に触れた。
「まさか、そのような噂が本当だとは思いませんが...」
表面的には疑問形だが、実際には確信を持って非難している。
「そのような事実は一切ございません」
エリザベートは毅然として答えたが、夫人たちは納得していない様子だった。
「でも、これほど多くの人が同じことを言うということは...」
「煙のないところに火は立たないと申しますし」
「それに、最近のお顔の色も、何か不自然で...」
夫人たちの攻撃は執拗だった。エリザベートは、彼女たちが意図的に自分を追い詰めようとしていることを感じた。
そのとき、会場がざわめき始めた。リリアーナが到着したのだ。
「皆様、こんにちは」
しかし、今日のリリアーナは昨日とは明らかに違っていた。笑顔はあるが、その奥に困惑と不安が隠れている。
「聖女様」
夫人たちが挨拶する中、リリアーナはエリザベートの前に立った。
「エリザベート様、少しお話しできますでしょうか?」
その申し出に、会場の空気が緊張した。夫人たちは固唾を飲んで、二人の会話を見守っている。
「もちろんです」
リリアーナはエリザベートを、前日と同じテラスに誘った。しかし、今日の彼女の表情には明らかな変化があった。
「エリザベート様」
リリアーナの声に、これまでにない重さが込められている。
「昨夜、長い時間祈りました。そして、決心したのです」
「どのような決心でしょうか?」
「真実を知りたい」
リリアーナの目に、揺るぎない意志が宿っている。
「最近の噂について、直接お聞きします。本当に、私の活動を妨害しようと思ったことはありませんか?」
その質問は、昨日よりもはるかに直接的だった。リリアーナの心に、確実に疑いが根を張り始めているのがわかる。
「一度もありません」
エリザベートは真摯に答えた。
「私はあなたを心から尊敬しています」
「では...」
リリアーナは躊躇いがちに続けた。
「黒魔法に関わっているという噂については、いかがですか?」
その質問に、エリザベートは衝撃を受けた。ついにリリアーナの口からも、その言葉が出たのだ。
「そのような事実は一切ございません」
「でも、あなたの体調不良の症状が...通常の病気とは異なるという話も」
リリアーナの声に苦悩が滲んでいる。
「魔法的な要因による可能性を、完全に否定できるでしょうか?」
「体調不良の原因は、私にもわかりません」
エリザベートは正直に答えた。
「最近、原因不明の症状が続いていますが、それが魔法と関係があるとは思えません」
リリアーナは長い間、エリザベートの目を見つめていた。その視線に、まだわずかに残る信頼と、しかし確実に芽生えている疑いが混在している。
「エリザベート様」
リリアーナは決意を込めて言った。
「もし何か隠していることがあるなら、今のうちに話してください。私は、最後まであなたを信じたいのです」
その言葉に込められた悲しみを、エリザベートは痛いほど感じ取った。リリアーナもまた、この状況の被害者なのだ。
「隠していることなど、何もありません」
「そうですか...」
リリアーナは納得していない様子だった。彼女の純粋な心が、真実を見極めようと必死に働いているのがわかる。
「でも、あまりにも多くの人が...」
「リリアーナ様」
エリザベートは一歩近づいた。
「私たちは、何者かの策略に巻き込まれています。この噂は自然発生的なものではありません」
「策略?」
「組織的に情報が操作されています。私たちを対立させることが、誰かの目的なのです」
リリアーナの表情に、理解の光が宿った。しかし、同時に新たな不安も生まれている。
「でも、誰が?なぜ?」
「それは...まだわかりません」
「私には、あなたを疑いたくない気持ちと、多くの人の証言を無視できない気持ちがあります」
リリアーナの正直な告白だった。
「どちらが正しいのか、わからなくなってしまいました」
その苦悩を、エリザベートは深く理解していた。リリアーナは純粋であるがゆえに、この複雑な状況に苦しんでいるのだ。
テラスでの会話を終えて茶会に戻ると、夫人たちの視線がより一層厳しくなっていた。二人の密談を目撃したことで、新たな憶測が生まれているのだろう。
「聖女様とエリザベート様、何やら深刻なお話のようでしたが」
「プライベートなお話です」
リリアーナが答えたが、その表情に以前のような確信はない。
夕刻になって、エリザベートは宮廷を後にした。今日一日で、状況は確実に悪化している。レオナルドの美への執着が排他的に、エルヴィンの怠惰さが責任回避に、マクシミリアンの権力欲が冷酷さに変わっている。
そして、リリアーナの心にも、確実に疑いが根を張り始めている。
屋敷に戻ったエリザベートを、マリアが深刻な表情で迎えた。
「お嬢様、大変なことが...」
「何事ですか?」
「街で、デモのような動きがあったようです」
「デモ?」
「聖女様を支持する民衆が、お嬢様を非難する集会を開いたとか...」
事態は想像以上に深刻化している。噂が民衆の行動にまで影響を与え始めているのだ。
「それと...」
マリアの声がさらに小さくなった。
「宮廷から、正式な調査の予告が届きました」
「調査?」
「魔法に関する疑いについて、近日中に検証が行われるとのことです」
ついに公式な動きが始まった。エリザベートは、これがすべての発端ではなく、むしろ何かの結末に向かう過程であることを感じていた。
部屋に戻って、エリザベートは今日の出来事を振り返った。三人の男性の内面で、それぞれの欲望や弱さが明確に現れていた。
不思議なことに、エリザベートには彼らの心の動きが手に取るように感じられる。まるで自分の存在が、彼らの内面の闇を炙り出す触媒のような役割を果たしているかのように。
「なぜ私は、皆の欲望を見抜くことができるのでしょう」
その疑問に答えてくれる者はいない。しかし、エリザベートには確信があった。これらすべてには、何か深い意味があるということを。
体調の悪化も限界に近づいている。頭痛は波のように襲いかかり、めまいで視界が歪む。そして何より不気味なのは、自分の体が自分のものではないような違和感だった。まるで巨大な何かの一部分として機能していた部品が、その限界を超えて軋みを上げているような感覚。思考も断片的になり、時折、自分が何者なのかさえ曖昧になる瞬間がある。
「このままでは、本当に...」
またしても、「破滅フラグ」という奇妙な言葉が頭をよぎった。
鏡の前に座って、エリザベートは自分の顔を見つめた。疲労の色がさらに濃くなっている。しかし、それ以上に、自分の目に宿る光が以前よりも強くなっているのに気づいた。
まるで、何かが覚醒しようとしているような...
そんな不可解な感覚を抱きながら、エリザベートはベッドに横になった。
明日はさらに困難な一日になるだろう。しかし、同時に何かが明らかになる日でもあるような気がしていた。
すべての謎が解ける時は、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。そして、その時に自分がどうなるのか、エリザベートにもわからなかった。
ただ一つ確かなのは、この物語がまだ終わっていないということ。そして、最も重要な局面が、これから始まるということだった。




