第4話:綻びゆく糸
舞踏会から三日が過ぎた。エリザベートは自室の執務机に向かい、領地からの報告書に目を通していたが、文字が頭に入ってこない。あの夜の出来事が、まるで悪夢のように繰り返し蘇ってくる。
子爵夫人の当てつけ、周囲の冷たい視線、そしてリリアーナの善意の提案。すべてが絡み合って、胸の奥に重い石のような感情を残していた。
「お嬢様」侍女のマリアが心配そうに声をかけた。「お顔の色がすぐれません。少しお休みになった方が」
「大丈夫です」エリザベートは首を振ったが、実際には頭痛がひどく、時々めまいに襲われることもあった。最近の睡眠不足と精神的な疲労が蓄積しているのだろう。
マリアは躊躇いがちに続けた。「それと...宮廷でのお噂ですが」
「どのような?」
「聖女様とのご関係について、様々なことが囁かれているようで...」
エリザベートは手を止めた。予想していたことではあるが、実際に耳にすると胸が痛む。
「具体的には?」
「あの、その...」マリアは言いにくそうにした。「聖女様の純粋さに嫉妬なさっているとか、第一王子殿下を巡って対立しているとか」
「そうですか」エリザベートは静かに答えた。否定することもできたが、それが真実を変えるわけではない。
午後、王妃への定期報告のため宮廷に向かった。廊下を歩く間、すれ違う人々の視線が以前よりも鋭くなっているのを感じる。挨拶は丁寧だが、その後に続く会話はない。
「エリザベート」
振り返ると、第二王子レオナルドが立っていた。しかし、彼の表情にはいつものような軽やかさがない。
「殿下」エリザベートは一礼した。
「少し話がある。テラスまで来てくれないか」
二人は人目のないテラスに移った。薔薇の香りが風に乗って運ばれてくるが、今日はその美しさも心に響かない。
「率直に聞こう」レオナルドは珍しく真剣な表情で言った。「君は本当にリリアーナを憎んでいるのか?」
「憎んでいる、と申しますと?」
「兄上はそう思っている」レオナルドの紫の瞳に複雑な光が宿った。「君がリリアーナの純粋さを理解できずにいると。美しいものは美しいままでいるべきなのに、君は彼女の美しさを汚そうとしているとまで言っていた」
エリザベートは息を呑んだ。ルクラードがそこまで思っているとは。
「私は、ただ...」
「ただ?」
「自分なりに責務を果たそうとしているだけです」エリザベートの声は少し震えた。「リリアーナ様を貶めるつもりなど」
「それは分かっている」レオナルドは深いため息をついた。「しかし、兄上の心は既に決まっているようだ。美しいものへの執着という点では、私も兄上を理解できるが...」
「殿下」
「君にも君なりの美しさがある。しかし、それが理解されないのは残念なことだ」レオナルドの言葉は慰めのつもりなのだろうが、かえってエリザベートの心を重くした。
その夜、宮廷での夕食会が開かれた。エリザベートは末席近くに座り、静かに食事を取っていた。会話の輪からは自然と外れ、一人で過ごすことが多くなっている。
「エリザベート様」
隣に座った年配の伯爵夫人が小声で話しかけてきた。
「最近、お疲れのご様子ですが、大丈夫でございますか?」
「ご心配をおかけして申し訳ございません」
「いえいえ」伯爵夫人は同情的な表情を見せた。「お立場も大変でしょうしね。聖女様があまりにも完璧でいらして」
その言葉に、エリザベートは微かな違和感を覚えた。同情しているようで、どこか他人事のような響きがある。
「でも」伯爵夫人は続けた。「時には素直になることも大切かもしれませんわ。聖女様のお心の広さなら、きっと理解してくださいます」
またしても、自分が悪いという前提での助言だった。
食事会の途中、ルクラードが立ち上がった。
「皆様、少しお時間をいただきたい」
会場が静まり返る。エリザベートの心臓が激しく鼓動した。
「この度、聖女リリアーナ様の偉大なお働きを讃え、王国として正式に『慈愛の聖女』の称号をお贈りすることが決定いたしました」
拍手が響く中、リリアーナは驚いたような表情を見せながらも、深く頭を下げた。
「また」ルクラードは続けた。「聖女様のお働きをより多くの方に知っていただくため、来月、王室主催の慈善事業発表会を開催いたします」
エリザベートは複雑な気持ちでその発表を聞いていた。リリアーナの功績は確かに立派だ。しかし、なぜ自分はこんなにも心が重いのだろう。
食事会が終わり、人々がざわめく中、エリザベートは一人でテラスに出た。夜風が頬を撫でていくが、その涼しさも今は慰めにならない。
「エリザベート」
背後からルクラードの声がした。振り返ると、彼は複雑な表情でこちらを見ている。
「殿下」
「今夜の発表について、君はどう思う?」
「聖女様にふさわしい栄誉だと思います」エリザベートは正直に答えた。
「そうか」ルクラードは少し安堵したような表情を見せた。「実は、君が反対するのではないかと心配していた」
「なぜそのようなことを?」
「最近の君を見ていると...」ルクラードは言葉を選ぶように続けた。「何か思い詰めているようで。リリアーナのことで悩んでいるのではないかと」
エリザベートは何と答えればよいか分からなかった。確かに悩んではいるが、それはリリアーナ個人への感情ではない。もっと根深い、説明のつかない不安なのだ。
「私は...」
「君には君の良さがある」ルクラードは優しい口調で言った。「しかし、もう少し素直になってもいいのではないか。リリアーナは本当に良い人だ。君が心を開けば、きっと理解し合えると思う」
その言葉に、エリザベートは深い孤独感を覚えた。誰も自分の本当の気持ちを理解してくれない。いや、自分自身も、自分の気持ちがよく分からないのかもしれない。
「分かりました」エリザベートは表面的な同意を示した。
「そうしてくれ」ルクラードは満足そうに頷いた。「来月の発表会では、君もリリアーナを支えてほしい。それが王室のためでもある」
ルクラードが去った後、エリザベートは一人でテラスに立ち続けた。月明かりが庭園を照らし、美しい光景が広がっているが、その美しさが今は遠く感じられる。
「私は、間違っているのでしょうか」
風に向かって呟いた言葉は、答えを返してくれない。
自室に戻ったエリザベートは、鏡の前に座った。そこに映る自分の顔は、明らかに疲れている。目の下にうっすらとクマができ、頬もこけて見える。
「最近、本当に体調が優れません」マリアが心配そうに言った。「お医者様にご相談なさっては?」
「いえ、大丈夫です」エリザベートは首を振った。
しかし、実際には体調の変化は深刻だった。頭痛、めまい、そして何より考えがまとまらない状態が続いている。まるで頭の中に霧がかかったような感覚。
ベッドに横になっても、なかなか眠りは訪れない。舞踏会での出来事、今夜のルクラードの言葉、そして明日からの日々。すべてが重く心にのしかかる。
「このままでは、本当に破滅してしまう」
またしても、奇妙な言葉が口をついて出た。「破滅」──まるでゲームの世界の用語のような。なぜそんな言葉が浮かぶのだろう。
やがて浅い眠りに落ちたが、なかなか深く眠ることができない。頭痛とめまいが続き、時々息苦しさも感じる。体調の悪化は確実に進んでいるようだった。
翌朝、エリザベートは鏡を見て愕然とした。一夜でさらに疲労の色が濃くなっている。このままでは、本当に体を壊してしまうかもしれない。
「お嬢様」マリアが青ざめた顔で駆け込んできた。「大変なことが...」
「何事ですか?」
「宮廷で、新しい噂が...」マリアは言いにくそうに続けた。「エリザベート様が聖女様に嫉妬のあまり、密かに妨害工作を企んでいるという...」
エリザベートは立ち上がれないほどの衝撃を受けた。そんな事実は全くないが、噂というものは事実など関係なく広がっていく。
「どなたが、そのような...」
「分かりません。でも、もう宮廷中に広がっているようで」
エリザベートは深く息を吸った。いよいよ事態は深刻になってきた。このままでは、本当に取り返しのつかないことになるかもしれない。
しかし、今の自分には、どうすることもできない。体調は悪化する一方で、考えもまとまらない。まるで見えない鎖に縛られているような、身動きの取れない状況。
「マリア」エリザベートは静かに言った。「今日の予定はすべて取り消してください。少し、一人になりたいのです」
「でも、お嬢様...」
「お願いします」
マリアは心配そうな表情を見せたが、主人の意志を尊重して部屋を出て行った。
一人になったエリザベートは、窓辺に立った。外の世界は美しい春の陽光に満ちているが、自分だけがその光から取り残されているような気がする。
「私の運命は、どこに向かっているのでしょう」
しかし、その問いに答えてくれる者は誰もいない。ただ、窓の外では雲が太陽を覆い隠し始めている。嵐の前の静けさのような、不穏な空気が漂っていた。
エリザベートは深いため息をついた。明日もまた、同じような困難な一日が始まるのだろう。しかし、今はもう考える力も残っていない。
ベッドに横になり、重いまぶたを閉じる。体調の悪化は日に日に深刻になっている。頭の中の霧も晴れることがない。
すべてが謎に包まれている。自分の体調も、周囲の変化も、そして自分自身の気持ちも。
しかし、一つだけ確かなことがある。このままでは、本当に取り返しのつかないことになってしまうということだった。
4話で一章完結となります。
一旦こちらを区切りとして、少しづつ更新いたしますので、気になりましたらブックマークしてお待ちいただけると嬉しいです。




