第3話:微かな亀裂
王宮の大広間は華やかな舞踏会の準備で賑わっていた。今夜は聖女リリアーナの誕生日を祝う舞踏会──表向きは王室主催だが、実質的には彼女への祝福の場だった。
エリザベートにとって、これは試練の夜になりそうだった。昨日の図書館での七人との気まずい出来事以来、胸の奥に重い不安が沈んでいる。今夜はさらに多くの人の前で、自分の立場の微妙さが露呈するかもしれない。
大理石の床は鏡のように磨き上げられ、シャンデリアの光が無数のクリスタルに反射して虹色の光を放っている。壁には王国の歴史を描いた巨大なタペストリーが飾られ、金糸で縫われた紋章が威厳を放っていた。音楽家たちが最後の調弦を行い、侍女たちが花の装飾を完成させている。
すべてが美しく整えられているが、エリザベートにはその華やかさが少し眩しすぎるように感じられた。まるで自分だけが場違いな存在であるかのような、奇妙な疎外感。
エリザベートは自室で身支度を整えていた。深紅のドレスは、王国最高の職人が手がけた逸品で、スカート部分には数百の小さなルビーが縫い込まれている。動くたびに炎のように輝く美しいドレスだった。
母の形見のルビーのティアラと、家門の誇りを示すエメラルドのネックレス。完璧な公爵令嬢の装いだったが、鏡に映る自分の顔には疲労の色が隠しきれずにあった。
「お嬢様、今夜は特別にお美しいですね」侍女のマリアが感嘆の声を上げた。
しかし、エリザベートは複雑な気持ちだった。最近、頭の中に霧がかかったような状態が続いており、考えがまとまらないことが多い。体調も優れず、時々めまいに襲われることもある。
「マリア」エリザベートは振り返った。「最近、私は何かおかしいのでしょうか?」
「と、おっしゃいますと?」
「考えがまとまらなくて...まるで自分が自分でないような感覚があるのです」
マリアは心配そうな表情を見せた。「お疲れなのでしょう。宮廷生活はお忙しいですから」
大広間に足を踏み入れると、既に多くの貴族たちが集まっていた。そしてその中央には、純白のドレスに身を包んだリリアーナが立っていた。彼女の周りには自然と人の輪ができ、皆が楽しそうに会話している。
まるで太陽のように、リリアーナは周囲を温かく照らしている。対する自分は、どうだろう。人々は礼儀正しく挨拶はしてくれるが、その後に続く会話はない。
エリザベートが広間に入ると、いつものように会話が一瞬止まった。しかし、今夜はその後のざわめきが、微妙に違って聞こえる。
「エリザベート様もいらしたのね」
「最近、少しお疲れのご様子ですが」
「聖女様との関係は、どうなのでしょう」
「何となく、ぎくしゃくしているような」
以前なら単なる好奇心だったものが、今では批判的な響きを含んでいる。
「エリザベート様」
リリアーナが自分に向かって歩いてくるのが見えた。周囲の視線が一斉にこちらに向けられる。この瞬間が、今夜の運命を決めるかもしれない。
「お誕生日おめでとうございます、リリアーナ様」
エリザベートは優雅に一礼した。完璧な宮廷礼法だったが、その心には複雑な感情が渦巻いている。
「ありがとうございます」リリアーナは心からの笑顔を見せた。「エリザベート様、今夜は特にお美しいですね。そのドレス、とても素敵です」
「お褒めいただき、光栄です」エリザベートは礼を示した。リリアーナの褒め言葉に嘘はないことが分かるが、それがかえって複雑な気持ちにさせる。
「エリザベート様は、いつもお忙しくしていらっしゃいますね」リリアーナは純粋な関心を示した。「領地の皆様のことを大切にしていらっしゃると、よく伺います」
「当然の責務ですから」エリザベートは謙遜した。
「それでも、とても立派なことだと思います」リリアーナの瞳には純粋な尊敬の念が宿っていた。
その時、少し離れた場所から、若い子爵夫人が甲高い声で話しかけてきた。その表情には明らかに悪意が込められている。
「あら、リリアーナ様」子爵夫人は作り笑いを浮かべた。「昨日も孤児院で素晴らしい活動をなさっていたそうですね。街中で評判になっておりますわ。病気の子どもたちのために夜遅くまで看病をしてくださったとか」
エリザベートは嫌な予感を覚えた。この女性の狙いが見え透いている。
「それに比べて」子爵夫人は意地の悪い笑みを深めた。「私たちのような身分の者は、なかなかそういった直接的な慈善活動には縁がございませんものね、エリザベート様?」
場の空気が一瞬で変わった。周囲の人々の視線が、エリザベートに集中する。明らかに何かしらの反応を期待している。
リリアーナは困惑した表情を見せた。「そんなこと...」
「ええ」リリアーナは嬉しそうに、しかし少し戸惑いながら答えた。「子どもたちの純真な笑顔を見ていると、とても心が温かくなります。でも、皆様それぞれに大切なお役目がおありですから...」
「そうですわね」子爵夫人は執拗に続けた。「でも、リリアーナ様のような直接民衆に触れ合う活動は、本当に素晴らしいと思いますの。誰にでもできることではございませんものね」
エリザベートへの当てつけは明白だった。リリアーナは優しく口を挟もうとした。
「もしエリザベート様のお時間が許すようでしたら」リリアーナは遠慮がちに、しかし純粋な善意で提案した。「今度、私の慈善活動を見学にいらしていただけませんでしょうか。一人でも多くの方に、困っている人々の現状を知っていただけたらと思うのです。きっと有意義な時間を過ごしていただけると思います」
その提案に、エリザベートは一瞬戸惑った。リリアーナの言葉には確かに純粋な善意しかない。しかし、なぜか素直に受け入れられない自分がいる。それは嫉妬なのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からない。
「お気遣いありがとうございます」エリザベートは慎重に答えた。「ただ、私には領地の管理業務がございまして...」
「もちろん、お忙しいことは重々承知しております」リリアーナは理解を示した。「無理をお願いするつもりはございません。ただ、もしお時間ができた時にでも、お声をかけていただければ」
「そうですね」エリザベートは表面的な笑顔で答えた。「検討させていただきます」
周囲の人々は、この丁寧で礼儀正しい会話を見守っていたが、どこか物足りなさを感じているようだった。もっと劇的な展開──対立や感情的なやり取りを期待していたのかもしれない。しかし、リリアーナの純粋な善意の前では、エリザベートも表立って反対することはできない。
「ありがとうございます」リリアーナは心からの笑顔を見せた。「お時間のある時にでも」
二人の会話は、表面的には礼儀正しく友好的だったが、エリザベートの心には説明のつかない重い感情が残った。リリアーナを批判する理由は何もない。彼女は本当に良い人で、純粋に人助けをしたいと思っている。それなのに、なぜこんなにも心が晴れないのだろう。
舞踏会が本格的に始まると、エリザベートは一人で広間の片隅に立っていることが多くなった。いつものことではあるが、今夜は特に孤独感が強い。
音楽に合わせて踊る人々の輪の中に、リリアーナの姿が見える。彼女は誰とでも楽しそうに踊り、その周りには常に笑顔があふれている。
「エリザベート様」
若い男爵夫人が声をかけてきた。しかし、その表情には以前ほどの親しみやすさがない。
「今夜は少し元気がないように見えますが」
「そんなことございません」エリザベートは微笑んだ。しかし、その笑顔は以前ほど自然ではない。
「でも、聖女様との関係は...大丈夫なのでしょうか?」男爵夫人の質問は探るような響きがある。明らかに何かしらの変化を期待している。
「特に問題はございません」
「そうですか」男爵夫人は少し興味を失ったような表情を見せた。「では、失礼いたします」
このような会話が夜を通じて続いた。表面的には普通の社交だったが、どこか以前とは違う距離感を感じる。人々は何かドラマチックな展開を期待しているようで、平穏な回答には興味を示さない。
テラスに出ると、昨日と同じように男性たちが数人集まっていた。夜風が心地よく、ここでなら少し息がつけるかと思ったが、甘い考えだった。
「エリザベート」ルクラードが振り返った。その表情には、以前のような温かみがない。「今夜はお疲れのようだね」
「そんなことございません」エリザベートは答えたが、確かに疲労感は隠せない。最近の睡眠不足と、考えがまとまらない状態が表に出てしまっているのだろう。
「最近、体調が優れないのではないか?」セラスが鋭い視線で指摘した。「知的な活動には、健全な精神が必要だ。君の最近の様子を見ていると、明らかに集中力が欠けている」
「そうですね」バルドールも厳しい表情で続けた。「正しい行いをするためには、まず自分自身を整える必要がある。このような状態では、真の正義を理解することなどできない」
彼らの言葉は表面的には心配してくれているようだったが、どこか批判的な響きがある。まるで「だから君はダメなのだ」と言われているような。
「最近の君は、何か違って見える」レオナルドが憂鬱そうに言った。「以前のような美しさに陰りがあるような。本当の美しさというものは、内面から輝くものなのに」
「情報収集が不十分なのでは?」ロイドが皮肉っぽく付け加えた。「世の中の動きを正確に把握できていないのかもしれません。それでは適切な判断など下せるはずがない」
「地位にふさわしい振る舞いができているか、見直してみてはどうでしょう」マクシミリアンが軍人らしい口調で提案した。「責任ある立場にいる者として、もっと自覚を持つべきです」
「心に響く何かが足りないような気がします」エルヴィンが竪琴を爪弾きながら言った。「音楽も、人の魂に届かなければ意味がない。君の言葉や行動にも、それが必要なのではないでしょうか」
七人からの言葉は、昨日ほど厳しくはないが、確実に距離を感じさせるものだった。彼らも、エリザベートの変化を感じ取っているようだ。
続きます。




