第2話:七つの影
宮廷図書館の薄暗い一角で、エリザベートは一人書物に向かっていた。古代魔法学の専門書──『魔導理論と精神構造の関連性について』という、誰も手に取りたがらない堅い内容だったが、現実逃避には最適だった。
昨日のルクラードとの茶会は散々だった。冷たい視線、リリアーナへの露骨な賞賛、そして自分への失望。婚約破棄の二文字が脳裏をちらつく。
「このままでは本当に破滅エンドに...」
ふと口をついて出た言葉に、エリザベート自身が驚いた。まるで自分の人生が、誰かの書いた物語の一部であるかのような奇妙な感覚。最近、こうした漠然とした違和感に悩まされることが多い。運命という名の見えない鎖に縛られているような、そんな息苦しさ。
図書館の静寂だけが、今の彼女にとって唯一の安らぎだった。高い天井まで並ぶ書架、差し込む柔らかな陽光、そして古い羊皮紙の匂い。ここでなら、少しの間だけでも悪役令嬢エリザベートという重い役割から逃れられる。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
「やはりここにいたか」
突然の声に顔を上げると、宮廷魔法師セラス・オルテンシアが立っていた。なぜかこの瞬間、エリザベートは不思議な既視感を覚えた。まるで、この出会いが運命づけられていたかのような。
「セラス様、何かご用でしょうか」
「君が読んでいる本だ」セラスは所有欲に満ちた視線を本に向けた。深い青の瞳には、知識への飽くなき渇望が宿っている。「私の研究に必要な重要な文献でもある。しかし、君のような者がこのような高度な内容を理解できるとは思えない」
エリザベートは静かに本を差し出した。「申し訳ございません。お先にどうぞ」
その時、彼女の心に奇妙な洞察が浮かんだ。この人は本当に学問を愛しているのだろうか。それとも、知識を独占することで自分の優位性を保ちたいだけなのだろうか。セラスの言葉の奥に、何か満たされない渇きのようなものを感じ取ってしまう。
なぜそんなことを考えるのか、エリザベート自身にも分からなかった。
「読み終わってからでいい」セラスは本を受け取らなかった。「どうせ表面的にしか理解できないのだから、時間はかからないだろう」
その瞬間、図書館の扉が勢いよく開かれた。騎士団長バルドール・フォン・シュタウフェンが険しい表情で入ってきた。黒い髪と鋭い緑の瞳、正義感に燃える騎士の典型のような男性だが、今日はその怒りが常軌を逸しているように見えた。
「セラス、お前また独善的な研究許可申請を出しただろう」バルドールの声には制御しきれない怒りが込められていた。
「独善的とは心外だな」セラスは冷静に答えたが、その目には明らかな軽蔑が浮かんでいる。「私の研究は王国の発展のためだ。君のような単純な武人には理解できないかもしれないが」
「単純だと?」バルドールの怒りが爆発した。「お前のような我欲に塗れた輩のせいで、真の正義が歪められるんだ!この世から不正を一掃するまで、私は戦い続ける!」
二人の間に緊張が走る。エリザベートは静かに立ち上がろうとしたが、なぜか足が動かない。まるで見えない糸に縛られているかのような感覚があった。
そして不思議なことに、彼女にはバルドールの怒りの根源が見えるような気がした。あまりにも純粋な正義感ゆえに、世の中の複雑さを受け入れられずにいる苦しみ。白か黒かでしか物事を判断できない不器用さ。
「おや、随分と賑やかですね」
軽やかな声と共に、第二王子レオナルド・フォン・アルデンハイムが現れた。兄のルクラードとは対照的に、華やかで享楽的な雰囲気を纏った美青年だった。金色の巻き毛と紫の瞳が印象的だが、その美しさには何か空虚なものを感じさせる。
「兄上とエリザベート令嬢の茶会、随分と冷え込んだものだったそうですね」レオナルドは楽しそうに笑った。「まあ、予想通りでしたが。美しいものには美しいままでいてほしいものです」
「殿下」エリザベートは静かに抗議したが、レオナルドは手を振って制した。
「気にすることはありません。美しいものは美しい、それだけで十分な価値があります」彼は意味深に微笑んだ。「政治的な駆け引きなど、美の前では無意味ですから。人は結局、美しいものに惹かれるのです」
エリザベートは複雑な気持ちでその言葉を聞いていた。慰めているつもりなのだろうが、彼の価値観では人間は美しければそれで良いということになる。そして奇妙なことに、レオナルドの美への執着の奥に、何か深い空虚感を感じ取ってしまう。まるで、美しさだけでは埋められない何かを抱えているかのような。
「政治と美の論議も結構ですが」
新たな声が響いた。情報商人として宮廷に出入りしているロイド・ヴェスパーが、いつの間にか影のように現れていた。常に目立たない存在で、褐色の髪と灰色の瞳は印象に残りにくいが、その分だけ多くの秘密を知っている男だった。
「聖女リリアーナ様の人気は、ますます高まっているようですね」ロイドの目がエリザベートに向けられた。その瞳には何か屈折した感情が宿っている。「一方で、エリザベート様への風当たりは厳しくなる一方だとか」
場の空気が微妙に変わった。ロイドの言葉には、エリザベートの立場の悪化を楽しんでいるような響きがある。しかし、エリザベートには彼の言葉の奥にある妬みのような感情も感じ取れてしまう。まるで、他人の成功を素直に喜べない苦しみを抱えているかのような。
「それは...どのような意味でしょうか」エリザベートが尋ねた。
「民衆の間では、既に『高慢な令嬢』と『慈愛の聖女』という対比が定着しています」ロイドの声には皮肉が込められていた。「残念ながら、エリザベート様に同情的な声は...あまり聞こえてきませんね」
「皆さん、お疲れ様です」
堂々とした歩調で、近衛騎士長マクシミリアン・フォン・エベルハルトが現れた。筋骨隆々とした体格と、野心的な光を宿した目が印象的な男性だった。その軍服は完璧に手入れされ、数々の勲章が胸元で輝いている。
「第一王子殿下がお探しでした、バルドール」マクシミリアンの声には満足そうな響きがあった。「聖女リリアーナ様の護衛体制について、重要な相談があるとのことです」
自分が重要な任務に関わっていることを、さりげなくアピールしている。しかし、エリザベートには彼の野心の奥にある飢えのような感情も見えてしまう。どれだけ地位を得ても満足できない、貪欲な欲求。
その時、遠くから美しい竪琴の音色が聞こえてきた。しかし、演奏には微妙な乱れがあった。技術的には優れているが、どこか集中力を欠いているような。
「楽士の演奏が雑になりましたね」セラスが眉をひそめた。
「才能に胡坐をかいているのでしょう」バルドールが不快そうに言った。「最近の若い連中は努力を知らない」
程なくして、その楽士──エルヴィン・シュトラウスも図書館に現れた。金髪に緑の瞳を持つ美青年で、竪琴を手にしているが、その表情には疲労と集中力の欠如が見て取れた。
「皆さん、こんなところで何を」エルヴィンは軽やかに笑ったが、その笑いには力がない。「僕も本を探しに来たのですが、なかなか読書に集中できなくて」
やがて、まるで示し合わせたかのように六人の男性が図書館に集まった。偶然にしては出来すぎている。まるで見えない糸に操られているかのような不自然さがあった。エリザベートは運命的な必然を感じていた。
六人。それぞれが魅力的で、それぞれが重要な地位にいる。しかし、なぜか彼女に向ける視線には温かみがない。そして奇妙なことに、エリザベートには彼ら一人一人が何か重いものを抱えているのが分かってしまう。
「率直にお聞きしますが」ロイドの灰色の瞳がエリザベートを見据えた。「現在の状況をどうお考えですか?」
「状況、と申しますと?」
「聖女様の圧倒的な人気と、それに対するご自身の立場です」ロイドの質問は鋭かった。「このままでは、婚約破棄という事態も現実味を帯びてきます」
エリザベートの心臓が激しく鼓動した。それは彼女が最も恐れていることだった。破滅フラグが現実のものとなりつつある。
「そのような...」
「現実を見るべきでしょう」セラスが冷たく割り込んだ。「君の問題は明白だ。努力が足りない。知識も浅薄で、深い思考ができていない」
「正義への理解も不足している」バルドールが怒りを込めて続けた。「正しいことと間違ったことの区別すらついていない」
「戦略性もない」マクシミリアンが追い打ちをかけた。「ただ漫然と与えられた地位に甘んじているだけ」
「美的感性にも欠けている」レオナルドが嘆息した。「本当の美しさが何なのか理解していない」
「情報収集能力も低い」ロイドが指摘した。「世の中の動きを読めていない」
「心に響く何かがない」エルヴィンが締めくくった。「人の魂に触れるものを持っていない」
六人の男性たちから向けられる言葉は、まるで刃のように彼女の心を切り裂いた。反論の余地もない。すべてが的確な指摘だった。
「皆様のご指摘、ごもっともです」エリザベートは深く頭を下げた。「私の至らなさを痛感いたします」
しかし、心の奥底で小さな疑問が芽生えていた。なぜ彼らの言葉は正論なのに、こんなにも心が痛むのだろう。そして、なぜか彼らの言葉の奥に、彼ら自身の苦しみを感じ取ってしまうのはなぜだろう。
まるで、皆様も何かに苦しんでいらっしゃるような...
いや、そんなはずはない。自分の僻みに過ぎないのだろう。
「失礼いたします」
エリザベートは図書館を後にした。廊下を歩きながら、彼女は深い絶望感に包まれていた。
六人の指摘は的確だった。自分には確かに、あらゆるものが足りない。努力も、知識も、戦略も、美的感性も、情報収集能力も、人の心に響く何かも。
それなのに、なぜかもどかしさが残る。彼らの言葉の奥に、何か別のものを感じ取ってしまうのはなぜだろう。
「まるで、皆様も何かに苦しんでいらっしゃるような...でも、そんなはずは」
そんな馬鹿な考えが頭をよぎったが、すぐに否定した。自分の負け惜しみに過ぎない。
最近、こうした奇妙な感覚に悩まされることが多い。まるで自分が誰かの物語の登場人物であるかのような感覚。すべてが決められた筋書きに従って進んでいるような違和感。考えがまとまらず、頭の中に霧がかかったような状態も続いている。
「私は一体、何のために存在しているのでしょう」
廊下に響く自分の足音だけが、やけに大きく聞こえた。宮廷の広い空間に、自分だけが取り残されているような孤独感。
自室に戻ったエリザベートは、鏡の前に立った。そこに映る自分の顔は疲れ切っていたが、その瞳の奥には何か新しいものが宿り始めていた。
「もしかして、私には何か特別な役割があるのでしょうか」
突飛な考えに思えたが、なぜかその言葉には真実味があった。六人の男性たちの抱える問題が、なぜか手に取るように分かってしまう自分。それは単なる直感なのか、それとも...
「私の役割は、皆様の心の闇を照らすことなのでしょうか」
エリザベートは鏡に向かって呟いた。しかし、どうすればそんなことができるのか、まったく見当もつかない。今の自分には、そんな力があるとは思えない。
窓の外では夕陽が沈みかけている。明日は何が起こるのだろうか。このまま破滅への道を辿るのか、それとも何かが変わるのか。
夜が深くなり、エリザベートは重い心でベッドに横になった。
眠りに落ちる直前、彼女は不思議な確信を抱いていた。
自分は、きっと皆を救うために存在している。
しかし、それがどのような意味なのかは、まだ分からなかった。朝が来れば、きっと答えが見つかるだろう。
そんな漠然とした希望を胸に、エリザベートは深い眠りについた。明日もまた、悪役令嬢としての困難な一日が始まるのだろうが、今夜だけは静かな安らぎの中にいられた。
続きます。




