第5章第2話:2度目の3年前の朝
窓辺に立ったまま、エリザベートは庭園を見つめ続けていた。
鳥のさえずり。風に揺れる薔薇の花びら。噴水の水音。
すべてが、あまりにも現実的だった。
夢ではない。
本当に、戻ってきたのだ。
エリザベートは、ゆっくりと部屋の中を歩き始めた。一つ一つの家具に触れ、その感触を確かめる。冷たい大理石の暖炉。滑らかな絹のカーテン。重厚な木製の机。
すべてが、確かにそこにある。
失ったはずのものが、また手の中にある。
鏡台の前に立つ。そこに映る自分の顔を見つめた。
若い。
疲れていない。
目の下にクマもなく、頬もこけていない。三年後の、あの憔悴しきった顔ではない。
健康的な血色。艶やかな髪。輝く瞳。
これが、三年前の自分。
まだ何も起きていない、あの頃の自分。
エリザベートは、鏡に映る自分に向かって小さく微笑んだ。
「今度は、違う未来を創る」
その決意を、改めて心に刻む。
部屋の扉が、静かにノックされた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
聞き慣れた声。
エリザベートの胸が、熱くなった。
「マリア...」
扉を開けると、そこには侍女のマリアが立っていた。
十年間、ずっとそばにいてくれた。そして、あの時の最後まで、唯一自分を信じてくれた。
マリアは、いつものように穏やかな笑顔を浮かべている。三十代半ばの落ち着いた女性。褐色の髪を丁寧に結い上げ、清潔な侍女服を着ている。
「おはようございます、お嬢様」マリアが優雅に一礼した。「今朝は随分とお早いお目覚めですね」
エリザベートは、マリアをじっと見つめた。
この人は、知らない。
自分が未来から戻ってきたことも。
あの時に何が起きたのかも。
自分がどれだけマリアに感謝しているのかも。
「マリア」
エリザベートの声が、わずかに震えた。
「はい、お嬢様」
「あなたは...私のことを、信じてくれますか?」
マリアは、少し驚いたような表情を見せた。
「お嬢様、何を急に」
「たとえ、周りの誰もが私を疑っても」エリザベートは続けた。「あなただけは、私の味方でいてくれますか?」
「もちろんです、お嬢様」その声には、迷いがなかった。「私は十年間、お嬢様にお仕えしてまいりました。お嬢様がどのようなお方か、この私が一番よく存じ上げております」
「たとえ、私が黒魔法使いだと言われても?」
「お嬢様が黒魔法など使うはずがございません」マリアは即座に答えた。
「王国を裏切ったと言われても?聖女を妨害したと言われても?」
「そのようなこと、あり得ません」
マリアは、少し眉をひそめた。
「お嬢様、一体どうなさったのですか?今朝は何やら奇妙なことばかり」
エリザベートは、マリアの手を取った。
「ごめんなさい。ただ...確かめたかったのです」
「何を、でございますか?」
「あなたが、私の味方でいてくれるかどうかを」
マリアは、困惑しながらも、エリザベートの手を優しく握り返した。
「お嬢様、私は常にお嬢様の味方でございます。それは、昨日も今日も、そして明日も変わりません」
その言葉に、エリザベートの目から涙が溢れた。
「お嬢様!」マリアが慌てた。「どうなさったのですか。何か悪い夢でも?」
「ええ」エリザベートは涙を拭った。「とても、悪い夢を見ました。でも、もう大丈夫です」
マリアは心配そうにエリザベートを見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「でしたら、お顔をお洗いになって、朝食の準備をいたしましょう。お気持ちも晴れるかと存じます」
「あなたがいてくれて、本当に良かった」
エリザベートは、侍女の肩に軽く手を置いた。
マリアは、少し戸惑いながらも微笑んだ。
「畏れ多いことでございます、お嬢様」
朝食の準備が整うまでの間、エリザベートは自分の執務机に向かった。
そこには、領地からの報告書が整然と積まれている。
三年前のこの時期。自分は何をしていただろうか。
記憶を辿る。
そうだ。この頃は、まだ平穏な日々だった。
ルクラードとの婚約も順調で、宮廷での立場も安定していた。リリアーナはまだ現れておらず、七人の男性たちとの関係も、少なくとも表面上は良好だった。
一番上の報告書を手に取る。領地の収穫予測についての文書。農民たちの生活状況、税収の見込み、必要な改善事項。
数字を見ていると、少し落ち着いてきた。これは、自分が得意とする分野だ。感情ではなく、論理と数字で物事を判断する。
しかし、今回はそれだけでは足りない。
エリザベートは、報告書を置いた。
今回は、人の心を理解しなければならない。
七人の男性たちが、なぜあのように変わってしまったのか。
リリアーナが、どのような手段を使っていたのか。
そして、自分が何をすべきなのか。
手のひらを見る。
その瞬間、手のひらに再び光の印が浮かんだ。
太陽のような形をした、神聖な紋章。
柔らかく輝き、暖かさを放つ。
「これが...神の加護」
数秒後、印は静かに消えた。
しかし、その温もりは残っている。
自分の内側に、新しい力が宿っているのを感じる。
「真実を見抜く力...」
エリザベートは小さく呟いた。
前回では気づけなかった。リリアーナの本性も、七人の異変も、すべてを見過ごしてしまった。
でも、今度は違う。
神が授けてくださった、この力。
そして、あの時の記憶という、何よりも強力な武器。
「マリア」
エリザベートは、朝食の準備をしていた侍女を呼んだ。
「はい、お嬢様」
「あなたに、大切なお話があります」
マリアは、エリザベートの真剣な表情を見て、姿勢を正した。
「何でございましょうか」
エリザベートは、深く息を吸い込んだ。
どこまで話すべきか。
すべてを話せば、マリアは信じてくれるだろうか。時を遡ったなどという、信じがたい話を。
いや、話さなければならない。
マリアは、あの時も最後まで自分を信じてくれた。ならば、この話も信じてくれるはずだ。
「実は...」
エリザベートは、言葉を選びながら話し始めた。
「私は、未来を見てきました」
マリアの目が、わずかに見開かれた。
「未来、でございますか」
「ええ。三年後の未来です」エリザベートは続けた。「そこで、私は...すべてを失いました」
「すべてを?」
「爵位、財産、名誉。そして、王国からも追放されました」
マリアは、息を呑んだ。
「そんな...お嬢様が、一体なぜ」
「黒魔法使いという濡れ衣を着せられ、聖女リリアーナへの妨害、王国への反逆という罪で断罪されたのです」
「聖女...リリアーナ?」マリアが首を傾げた。「存じ上げませんが」
「まだ、現れていません」エリザベートは説明した。「これから半年後、彼女が王宮に来ます。そして、すべてが変わります」
マリアは、困惑した表情でエリザベートを見つめていた。
「お嬢様、それは本当に未来なのでしょうか。それとも...」
「夢ではありません」エリザベートは強く言った。「あまりにも現実的で、あまりにも詳細でした。私は、確かにあの未来を生きました」
マリアは、しばらく沈黙していた。主人の言葉を、どう受け止めるべきか考えているようだった。
「でも」マリアが静かに言った。「今、お嬢様はここにいらっしゃいます。三年前に」
「ええ」エリザベートは頷いた。「神の恩寵によって、時を遡ることができました」
「神の...」
「信じられないでしょう?」エリザベートは苦笑した。「私自身、まだ完全には信じられていません。でも、これは事実です」
マリアは、エリザベートの目を真っ直ぐに見つめた。
そこには、狂気も、混乱も見えない。
ただ、強い決意と、確かな意志だけがあった。
「お嬢様」マリアがゆっくりと口を開いた。「私には、未来のことも、神の恩寵のことも、よく分かりません」
エリザベートの心臓が、一瞬止まりそうになった。
しかし、マリアは続けた。
「でも、一つだけ確かなことがあります」
「何ですか?」
「お嬢様が、何か重大な危機を感じていらっしゃるということ。そして、それを防ぐために、必死に考えていらっしゃるということ」
マリアは、深く一礼した。
「ですから、私はお嬢様をお助けいたします。たとえ、その話が夢であろうと、現実であろうと」
エリザベートは、立ち上がってマリアの手を取った。
「あなたには、どれだけ感謝してもしきれません」
「では」マリアが実務的な口調に戻った。「お嬢様。その未来を変えるために、私に何ができますでしょうか」
エリザベートは、深呼吸した。
そうだ。泣いている場合ではない。
今は、行動する時だ。
「まず、リリアーナという少女について、情報を集める必要があります」
「聖女、でございますか」
「自称、聖女です」エリザベートは訂正した。「彼女は半年後、王宮に招かれます」
「どのような方なのでしょうか」
「庶民出身で、神聖魔法の才能があると言われています」エリザベートの声が低くなった。「しかし、何かがおかしいのです」
「おかしい、と申しますと?」
「前回、彼女が現れてから、すべてが変わりました」エリザベートは記憶を辿りながら言った。「人々は彼女に夢中になり、私への視線は冷たくなっていった。七人の男性たちも、まるで別人のように変わってしまった」
マリアの表情が、真剣になった。
「それは...何か不自然なことが」
「ええ」エリザベートは頷いた。「あまりにも急激で、あまりにも一方的でした。まるで、何かに操られているかのような」
「では、その聖女が何らかの...」
「分かりません」エリザベートは正直に言った。「だからこそ、調べなければならないのです。なぜあのようなことが起きたのか。どうすれば防げるのか」
マリアは、しばらく考え込んでいたが、やがて頷いた。
「分かりました。では、その聖女が現れる前に、準備をしておく必要がございますね」
「ええ」
「具体的には、何を?」
エリザベートは、あの時の記憶を辿った。
リリアーナが現れてから、何が起きたのか。
どのように人々の心を掴んでいったのか。
どのような手口で、自分を陥れたのか。
「まず、人の心を操る術について、知る必要があります」エリザベートは言った。「魔法なのか、それとも別の何かなのか。どのような手段があり得るのかを学びたいのです」
「それは...宮廷魔法師のセラス様にお聞きすれば」
「いいえ」エリザベートは首を振った。「セラスは、前回では彼女の味方になってしまいました。今回は、彼が変わってしまう前に、協力を得なければなりません」
「では、どうなさるのですか」
「まず、自分で勉強します」エリザベートは立ち上がった。「図書館に、魔法に関する書物があるはずです。人の心に影響を与える術について、学術的な記述があるでしょう」
「お一人で?」
「ええ。まずは基礎知識を得てから、信頼できる人に相談します」
マリアは、心配そうな表情を見せた。
「お嬢様、くれぐれもお気をつけください。もし誤解を招くようなことがあっては...」
「大丈夫です」エリザベートは微笑んだ。「慎重に行動します」
そして、窓の外を見た。
朝日が、庭園を美しく照らしている。
新しい一日。
新しい始まり。
「今日から、未来を変える戦いが始まります」
エリザベートは、静かにそう宣言した。
「マリア、あなたの力を貸してください」
「もちろんでございます、お嬢様」
二人は、互いに頷き合った。
これから始まる長い戦いを、共に戦うという、無言の誓いを交わして。
朝食を終えると、エリザベートは身支度を整えた。
今日の予定を確認する。
午前中は、特に予定がない。午後に、王宮での社交時間があるだけだ。
ならば、午前中に図書館へ行こう。
人の心を操る術について、できるだけ多くのことを学ぶために。
「マリア、今日は図書館に行きます」
「お供いたしましょうか」
「いいえ、一人で大丈夫です」エリザベートは首を振った。「あなたには、別の仕事をお願いしたいのです」
「と、申しますと?」
「私の部屋を、定期的に調べてください」
マリアの目が、わずかに見開かれた。
「お部屋を?」
「ええ」エリザベートは真剣な表情で言った。「前回では、私の部屋に『影の書』という禁書が仕込まれました。それが、私を陥れる証拠として使われたのです」
「誰かが、お嬢様の部屋に侵入を?」
「そうです。ですから、今回は事前に防がなければなりません」マリアの肩に手を置いた。「定期的に部屋を調べて、見知らぬ物がないか確認してください。特に、本や奇妙な道具には注意を」
「承知いたしました」マリアは真剣な表情で頷いた。「毎日、念入りに確認いたします」
「分かりました」
エリザベートは、深緑のドレスに身を包んだ。落ち着いた色合いで、図書館に行くには適している。
髪を簡素に結い上げ、最小限の装飾品だけを身につける。
鏡を見る。
そこに映るのは、決意に満ちた女性の姿だった。
もう、前回のような受け身の立場ではいられない。
今回は、自分から動く。
真実を追い求め、闇を照らし、人々を救う。
「行ってまいります」
「お気をつけて、お嬢様」
マリアが深く一礼する。
エリザベートは、部屋を出た。
廊下を歩きながら、周囲の様子を観察する。
使用人たちが、忙しそうに働いている。
彼らは、エリザベートを見ると丁寧に挨拶をする。
前回の最後に感じた、あの冷たい視線はない。
まだ、すべてが平穏だ。
しかし、この平穏は長くは続かない。
半年後、リリアーナが現れれば、すべてが変わり始める。
だからこそ、今のうちに準備をしなければならない。
屋敷の玄関を出ると、朝の爽やかな空気が頬を撫でた。
空は青く晴れ渡り、鳥たちが歌っている。
美しい朝だ。
希望に満ちた、新しい始まりの朝。
エリザベートは、深く息を吸い込んだ。
「今度こそ、すべてを変えてみせる」
馬車が動き出す。
窓の外を流れる景色を見ながら、エリザベートは計画を巡らせた。
まず、人の心を操る術についての知識を得る。
次に、信頼できる協力者を確保する。
そして、リリアーナが現れる前に、万全の準備を整える。
半年。
時間は、決して多くない。
しかし、今回は違う。
あの時の記憶がある。
神の加護がある。
そして、マリアがいる。
エリザベートは、手のひらを握りしめた。
新しい戦いが、今、始まった。




