第5章第1話:死の淵と神の恩寵
暗闇だった。
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。
ただ、存在だけがあった。
エリザベート・フォン・ヴァルハイムは、いや、もはやその名前すら意味を持たない存在は、無限の暗闇の中を漂っていた。
上も下もない。前も後ろもない。時間の感覚すらない。
ただ、自分という意識だけが、かろうじて残っている。
私は、死んだのだろうか。
その問いが、闇の中に浮かんだ。静寂の中で、その疑問だけが確かな形を持っているように感じられた。
馬車の中で意識を失った。胸の痛み、息苦しさ、そして深い絶望。それらが最後の記憶だった。心臓が不規則に鼓動し、全身に痛みが走り、視界が暗くなっていった。あの瞬間の恐怖と苦痛が、まだ記憶の端に残っている。
これが、死後の世界なのだろうか。
しかし、答えは返ってこない。ただ、永遠に続くかのような静寂だけが、自分を包み込んでいる。
エリザベートは、もはや肉体を持たない意識は、静かに漂い続けた。重力もなく、方向もなく、ただ浮遊しているだけ。まるで深い海の底に沈んでいくような、そんな感覚。
不思議なことに、恐怖はなかった。苦痛もなかった。ただ、深い静寂と、終わりのない暗闇だけがあった。生きていた時に感じていた、あらゆる感情が洗い流されたような、奇妙な平穏。
私の人生は、何だったのだろう。
その問いが、闇の中に広がっていく。まるで水面に落ちた一滴の雫が波紋を広げるように、その疑問が意識の中に広がっていった。
名門公爵家の令嬢として生まれた。すべてを与えられた。美貌、知性、地位、財産。
幼い頃から、最高の教育を受けた。王宮礼法、文学、音楽、舞踏、馬術。すべてにおいて優秀な成績を収め、周囲から称賛された。母は優しく、父は厳格だったが愛情深かった。何不自由ない生活。華やかな社交界。羨望の眼差し。
しかし、最後には、すべてを失った。
断罪の日。大広間に響いた冷たい宣告。七人の男性たちからの糾弾。観客席からの非難の声。そして、聖女リリアーナの慈悲に満ちた涙。
爵位剥奪。財産没収。王国からの永久追放。
すべてが、一瞬で崩れ去った。
私は、間違っていたのだろうか。
その問いが、何度も何度も繰り返される。まるで壊れた音楽箱が同じ旋律を奏で続けるように、その疑問だけが意識の中で鳴り響く。
聖女リリアーナへの妨害。していない。
確かに、リリアーナとの関係は良好ではなかった。彼女の完璧な聖女ぶりに、複雑な感情を抱いていた。しかし、妨害など一度もしていない。予定が重なったのは偶然だった。物資の遅れは、自分が原因ではない。噂など、流したこともない。
黒魔法の使用。していない。
あの『影の書』は、父の遺品の中にあったものだ。一度も開いたことがなかった。あの奇妙な道具類も、見覚えがない。誰かが仕込んだのだろう。しかし、誰も信じてくれなかった。
王国への反逆。していない。
貴族たちとの会話は、確かにあった。しかし、それは普通の社交の場での会話だ。聖女を追放しようなどと、一度も口にしたことはない。それなのに、十七名もの貴族が同じ証言をした。なぜ。
なのに、なぜ。
なぜ、誰も信じてくれなかったのだろう。
なぜ、あれほど多くの証拠が、自分に不利に揃ったのだろう。
なぜ、最後まで味方がいなかったのだろう。
いや、一人だけいた。
マリアは、どうなっただろう。
唯一、自分を信じてくれた侍女。十年間、ずっとそばにいてくれた。自分が断罪された後も、きっと信じ続けてくれただろう。
彼女もまた、自分の断罪によって、何らかの罰を受けたかもしれない。主人が犯罪者とされれば、その侍女も疑われる。マリアまで巻き込んでしまったのではないか。
申し訳ないことをした。
その後悔が、闇の中に沈んでいく。重い石が水の中に沈んでいくように、深く、深く。
時間が経つ。どれくらい経ったのか分からない。数秒なのか、数時間なのか、数日なのか、あるいは数年なのか。この暗闇には、時間の概念がない。ただ、永遠にも思える静寂だけが続いている。
もう、何もかもどうでもいい。
諦めに似た感情が、意識の中に広がった。疲れた。もう、何も考えたくない。
このまま、消えてしまえばいい。すべてを忘れて、無に還れればいい。
意識が、少しずつ薄れていくような感覚があった。まるで霧が晴れていくように、自分という存在が溶けていくような。それは、不思議と心地よい感覚だった。
しかし、その時だった。
もう一度、やり直したい。
その言葉が、心の奥底から湧き上がってきた。
消えかけていた意識が、その言葉によって再び形を取り戻す。まるで、闇の中で小さな火が灯ったような。
もう一度、やり直せるなら。
その願いは、どこから来たのだろう。諦めていたはずなのに。消えようとしていたはずなのに。
真実を明らかにしたい。
自分の無実を証明したい。
あの七人に、本当のことを知ってほしい。
リリアーナの仮面の下にある真実を、暴きたい。
そして。
その時、心の奥底から、不思議な願いが湧き上がってきた。
皆を、救いたい。
エリザベート自身、その願いに驚いた。
救う?
自分を断罪した人々を?
裏切った七人を?
なぜ、そんなことを思うのだろう。彼らは自分を裏切った。信じてくれなかった。冷たい目で見下し、有罪だと決めつけた。
しかし、その願いは消えない。
図書館で七人と会った時。一人一人が、何か重いものを抱えているように見えた。
あの時は気のせいだと思った。自分の僻みに過ぎないと。
でも、もしかしたら。
彼らもまた、何かに囚われていたのではないか。
リリアーナの魔法に。
あるいは、自分自身の弱さに。
ルクラードの冷たい正義感。セラスの知識への渇望。バルドールの制御できない怒り。ロイドの屈折した嫉妬。アルベルトの空虚な美への執着。ガルヴァンの満たされない野心。マルセルの無気力な才能。
あの人たちは、本当にあれが本来の姿なのだろうか。
だとしたら。
真実を明らかにすることは、彼らを解放することでもあるのではないか。
その考えが、心に広がっていく。
そうだ。
私は、真実を明らかにしたい。
そして、皆を、救いたい。
復讐のためではなく。
恨みのためでもなく。
ただ、真実のために。
愛のために。
その願いが、闇の中に響いた。純粋な、心からの願い。
その願いが、届くなら。
その瞬間だった。
闇の中に、一筋の光が差し込んだ。
エリザベートの意識が、その光に引き寄せられた。まるで、暗闇の海に沈んでいた者が、遠くの灯台の光を見つけたような。
光は、小さく、しかし確かに輝いている。
暖かい光。
優しい光。
まるで、春の朝日のような。
光が、少しずつ近づいてくる。いや、違う。自分が、光に近づいているのだ。
意識が、光に向かって浮上していく。まるで、深い海の底から水面に向かって泳いでいくような感覚。暗闇が、少しずつ薄れていく。
光は、徐々に大きくなっていく。そして、その光の中から、何かが現れた。
声だった。
言葉ではない。けれど、心に直接響く、声。
「愛する子よ」
その呼びかけに、エリザベートの意識が震えた。
これは、神の、声?
「あなたの願いを聞き届けた」
光が、さらに明るくなる。暖かさが、意識全体を包み込んでいく。まるで、冬の寒さの中で暖炉の前に立ったような、心地よい温もり。
「真実を愛し、人を想うその心」
その言葉が、心に染み込んでいく。
私の、心を。
神は、私の願いを聞いていてくださったのか。
あの暗闇の中で呟いた、小さな願いを。
「もう一度、機会を与えよう」
もう一度。
エリザベートの心が、激しく高鳴った。
「時を遡り、やり直しなさい」
「光をもって、闇を照らしなさい」
「そして、決して諦めないように」
それだけだった。
しかし、その短い言葉の中に、すべてが込められていた。
恩寵。赦し。希望。そして、使命。
エリザベートは、心の中で叫んだ。
ありがとうございます。
もう一度、チャンスを。
今度こそ、真実を。
今度こそ、皆を。
光が、すべてを飲み込んだ。暗闇が消え去り、温もりがすべてを包み込んだ。
そして。
意識が、急速に引き戻されていく。
光の中を、流れ星のように駆け抜けていく。
時間を遡っている。
無数の映像が流れていく。
追放の馬車。
断罪の大広間。
舞踏会での孤独。
図書館での七人。
茶会でのルクラード。
映像が、次々と過去へ。
もっと前へ。
三年前。
リリアーナが来る前。
まだ、何も起きていなかった時。
目を、開けなさい。
神の声が、最後にそう告げた。
光が弾けた。
エリザベートは、目を開いた。
「はっ!」
激しく息を吸い込む。空気が、冷たく、新鮮な空気が肺に流れ込む。
心臓が鼓動している。
規則正しく、力強く。
あの不規則な痛みは、ない。
胸を押さえていた重圧も、消えている。
手を見る。
血の通った、温かい手。
指を動かす。ちゃんと動く。
握る。開く。また握る。
涙が溢れた。
「生きて...いる...」
声が震える。
本当に。
本当に、生きている。
死の淵から、戻ってきた。
神に救われて、この世界に。
エリザベートは、ベッドの上で身を起こした。周囲を見渡す。
見慣れた部屋。自分の私室。天蓋付きのベッド。大理石の暖炉。壁にかかった家族の肖像画。
追放された後の、あの狭く暗い部屋ではない。
これは、ヴァルハイム家の、私の部屋。
豪華な調度品。美しいタペストリー。磨き上げられた家具。すべてが、まだ自分のものだった時の部屋。
窓から、朝日が差し込んでいる。その光は、あの神の光と同じように、暖かく優しかった。春の陽光が、部屋全体を優しく照らしている。
エリザベートは、震える手で窓辺に向かった。足が、ふらついている。まだ、現実感が薄い。
カーテンを開ける。
外には、美しい庭園が広がっている。薔薇が咲き誇り、噴水が静かに水を吹き上げている。鳥のさえずりが聞こえる。庭師が、朝の手入れをしている姿が見える。
すべてが、失う前の光景。
エリザベートは、机の上のカレンダーに目を向けた。そこに記された日付を見て、息を呑んだ。
三年前。
リリアーナが王宮に来る、半年前。
すべてが始まる前。
本当に、戻ってきた。
「本当に...」
声が震える。信じられない。しかし、これは現実だ。
エリザベートは、自分の手のひらを見つめた。
その手のひらに、一瞬だけ、光る印が浮かんだ。
太陽のような形をした、神聖な紋章。
柔らかく輝き、暖かさを放つ。
すぐに消えた。
けれど、確かに見えた。神の、加護の証を。
エリザベートは、窓辺に立ったまま、空を見上げた。
青い空。白い雲。そして、暖かな陽光。
すべてが美しい。すべてが希望に満ちている。
涙が、頬を伝った。しかし、それは絶望の涙ではない。
感謝の涙だった。
喜びの涙だった。
希望の涙だった。
「ありがとうございます」
エリザベートは、空に向かって囁いた。声は小さく、しかし心からの感謝が込められていた。
「もう一度、チャンスを」
「今度こそ、真実を明らかにします」
「そして、皆を救います」
その決意と共に、エリザベートの心に、新しい力が満ちていくのを感じた。
体の奥底から湧き上がる、暖かな力。
これは、新しい始まり。
もう一度。今度こそ。
エリザベートは、深く息を吸い込んだ。
もう、迷わない。
もう、恐れない。
もう、諦めない。
今度こそ、すべてを変えてみせる。
リリアーナの仮面を剥がす。
七人を、囚われから解放する。
真実を、明らかにする。
そして、皆を救う。
窓の外では、新しい一日が始まろうとしていた。
希望に満ちた、新しい朝が。
鳥たちが歌い、花々が香り、太陽が昇っていく。
すべてが、新しい始まりを告げていた。
エリザベートは、窓辺に立ったまま、しばらく外を見つめていた。
この美しい世界を、守りたい。
この人々を、救いたい。
そして、真実の光で、闇を照らしたい。
その決意が、胸の中で燃え上がっていた。
新しい物語が、今、始まろうとしていた。




