# 第4章第2話:最後の対峙
午前10時。マリアが正装一式を持って書斎に戻ってきた。深紅のベルベットのドレス、金糸の刺繍が施されたマント、そして家紋の入った宝石。ヴァルハイム家の威厳を示す、最高級の正装だった。
「お嬢様、お着替えを...」
マリアの声が途切れがちだった。その目は赤く腫れており、泣いていたことが明らかだった。
エリザベートは椅子から立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。壁につかまり、何とか体を支える。たった数メートルの距離が、途方もなく遠く感じられた。
「マリア、手を貸してください」
「はい...」
マリアの腕につかまりながら、エリザベートは寝室へと向かった。一歩一歩が重く、廊下を歩くだけで息が切れる。窓から差し込む光が妙に眩しく、目を細めなければならなかった。
寝室に入ると、マリアが慎重にドレスを着せ始めた。しかし、エリザベートの痩せ細った体には、ドレスが大きすぎた。
「お嬢様...こんなに体重が...」
マリアの声に驚きが滲んでいる。たった数週間で、エリザベートは見る影もなく痩せ細っていた。
「大丈夫です。コルセットをきつく締めてください」
「でも、お体が...」
「構いません。今日だけ、持ちこたえればいいのです」
マリアは涙をこらえながら、コルセットの紐を締めた。しかし、どれだけ締めても、ドレスは体にフィットしない。
「もう少しきつく」
「お嬢様、これ以上は...」
「お願いします」
マリアは仕方なく、さらに紐を締めた。エリザベートは息が苦しくなったが、必死に堪えた。少なくとも、見た目だけは保たなければならない。
ドレスを着終わると、マリアが髪を結い始めた。しかし、その手が何度も止まる。
「お嬢様...髪が...」
「どうしました?」
「抜けやすくなっています...」
マリアの声が震えている。ブラシに絡まった髪の量が、明らかに異常だった。
「気にしないでください。今日一日、形が保てればいいのです」
マリアは涙を流しながら、慎重に髪を結っていった。普段なら30分で終わる作業が、1時間近くかかった。
鏡の前に座ったエリザベートは、自分の姿を見て言葉を失った。
豪華なドレスを身にまとっているが、その中の自分は幽霊のようだった。頬は痩けて頬骨が浮き出ており、目は落ち窪んでいる。深紅のドレスが、逆に顔色の悪さを際立たせていた。
「まるで...死人のようですね」
エリザベートは自嘲気味に呟いた。
「お嬢様、そんなことを...」
「事実です、マリア」
エリザベートは鏡の中の自分を見つめ続けた。これが、宮廷の人々が最後に見るエリザベートの姿になるのだろうか。
「化粧を濃くしてください。少しでも、生気があるように見せたいのです」
マリアは震える手で化粧道具を取り出した。頬紅を塗り、唇に紅を差し、目の周りに影をつける。しかし、どれだけ化粧を施しても、病的な印象は隠せなかった。
「これで...精一杯です」
マリアが諦めたように言った。
エリザベートは再び鏡を見た。化粧のおかげで、少しは血色が良く見える。しかし、目の奥の光は失われたままだった。
時計を見ると、午前11時を過ぎていた。出発まで、あと2時間足らず。
「マリア、少し休ませてください」
「はい、お嬢様」
エリザベートはベッドに横たわった。しかし、体を休めることはできても、心を休めることはできない。
目を閉じると、すぐに七人の顔が浮かんでくる。
ルクラード王子の威厳に満ちた表情。バルドールの厳格な眼差し。セラスの冷徹な分析的視線。ロイドの計算高い目つき。
そして、会ったことのない四人。第二王子アルベルト、近衛騎士長ガルヴァン、宮廷楽士マルセル。彼らはどのような表情で自分を見るのだろうか。
「リリアーナ様...」
その名前を口にした時、エリザベートの胸に特別な痛みが走った。
聖女リリアーナ。純白の衣装に身を包み、常に優しい微笑みを浮かべている女性。彼女の存在そのものが、光のように温かかった。
エリザベートは、リリアーナを憎んでいたわけではない。確かに、人々が彼女に集まる様子を見て、寂しさを感じることはあった。しかし、それは妬みではなく、ただ自分も愛されたいという純粋な願いだった。
「あなたまで、私を糾弾するのですか」
問いかけに、答えはない。ただ、沈黙だけが返ってくる。
ベッドの脇の小さなテーブルに、一枚の肖像画が飾られていた。若き日の母の肖像だった。優しい微笑みを浮かべた母。エリザベートが7歳の時に亡くなった、最愛の人。
「お母様...」
エリザベートは肖像画に手を伸ばした。
「私は...間違っていたのでしょうか」
肖像画の母は、ただ優しく微笑んでいるだけだった。
「お母様がいてくださったら...」
涙が込み上げてきたが、必死にこらえた。今、泣いてしまえば、化粧が崩れてしまう。
正午を告げる鐘の音が、街に響き渡った。
あと2時間。
エリザベートは深く息をついた。胸の痛みが激しいが、もう慣れてしまった。痛みは常にそこにあり、もはや自分の一部になっている。
「お嬢様、何か召し上がりますか?」
マリアが優しく声をかけた。
「いえ...食べられません」
「せめて、スープだけでも...」
「胃が受け付けないのです」
実際、考えただけで吐き気が込み上げてくる。この数日、まともに食事ができていない。水を飲むのがやっとだった。
「では、お茶を...」
マリアが温かい紅茶を持ってきた。エリザベートは少しずつ口をつけたが、数口飲んだだけで胃が痛み出した。
「ごめんなさい、マリア。もう無理です」
「お嬢様...」
マリアの目から、ついに涙が溢れ出した。
「お嬢様、私は...私はお嬢様を信じています」
「ありがとう、マリア」
エリザベートはマリアの手を握った。その手は温かく、今の自分にとって唯一の支えだった。
「でも、マリア。もし...もし私が戻ってこなかったら」
「お嬢様、そんなことを言わないでください」
「聞いてください」
エリザベートの声に、これまでにない真剣さが込められていた。
「もし私が戻ってこなかったら、この屋敷は処分されるでしょう。その前に、あなたは逃げてください」
「逃げる?」
「私の侍女として、あなたも糾弾されるかもしれません」
エリザベートは真剣な目でマリアを見つめた。
「だから、私が戻ってこないと分かったら、すぐにこの屋敷を出て、どこか遠くへ行ってください」
「そんなこと、できません」
「マリア、あなたまで巻き込むわけにはいきません」
「お嬢様...」
「机の引き出しに、金貨が入っています。それを持って、新しい人生を始めてください」
マリアは泣きながら首を振った。
「お嬢様と離れて、私一人で生きていくなんて...」
「生きてください、マリア」
エリザベートは強く言った。
「あなただけは、幸せになってください」
二人は抱き合い、しばらく泣いた。エリザベートの化粧が涙で崩れていくが、もう気にしなかった。
午後12時半。
マリアが崩れた化粧を直し終えた頃、馬車の準備が整ったという報告が入った。
「お嬢様、馬車の用意ができました」
執事のセバスチャンが、悲しそうな表情で報告に来た。彼もまた、長年エリザベートに仕えてきた忠実な使用人だった。
「ありがとう、セバスチャン」
エリザベートは立ち上がった。足元がふらつき、マリアが慌てて支える。
「本当に...行かれるのですか」
セバスチャンの目にも涙が浮かんでいた。
「はい。行かなければなりません」
「我々は、お嬢様を信じております」
セバスチャンが深く頭を下げた。
「どのような結果になろうとも、我々はお嬢様の味方です」
その言葉に、エリザベートは心から感謝した。
「ありがとう...本当に、ありがとう」
玄関に向かう廊下を、ゆっくりと歩く。使用人たちが廊下の両側に並び、深々と頭を下げている。
「お嬢様...」
「お気をつけて...」
「必ず、お戻りください...」
彼らの囁き声が、エリザベートの心に染み込んでくる。
玄関に着くと、豪華な馬車が待っていた。ヴァルハイム家の紋章が刻まれた、最高級の馬車。しかし、今日はまるで霊柩車のように見えた。
「お嬢様」
マリアが最後の身支度を確認した。ドレスの裾を整え、マントをかけ、宝石を確認する。
「完璧です」
しかし、その声は悲しみに満ちていた。
エリザベートは馬車に乗り込もうとした。その瞬間、激しい立ちくらみに襲われ、足を踏み外しそうになった。
「お嬢様!」
セバスチャンとマリアが慌てて支えた。
「大丈夫です...少し、疲れているだけです」
何とか馬車に乗り込み、柔らかい座席に身を沈める。窓から外を見ると、マリアと使用人たちが涙を流しながら見送っている。
「行ってきます」
エリザベートは小さく手を振った。
馬車が動き出す。屋敷が遠ざかっていく。マリアの姿が小さくなっていく。
エリザベートは窓のカーテンを閉めた。もう、後ろを振り返りたくなかった。
馬車の中で、エリザベートは一人、静かに目を閉じた。
心臓が不規則に鼓動している。胸の痛みが激しく、息をするのも辛い。しかし、もう少しだけ、この体は持ちこたえなければならない。
「午後2時まで...あと1時間半」
その時間が、永遠のように長く感じられた。
馬車は王宮へと向かって進んでいく。エリザベートの運命を決める審問の場へと。
窓の外から、街の喧騒が聞こえてくる。人々の話し声、笑い声、日常の音。しかし、それらはすべて遠い世界の出来事のように感じられた。
「これが...最後になるのかもしれない」
エリザベートは自分に言い聞かせた。
「ならば、最後まで...ヴァルハイム家の誇りを守って」
その決意だけが、崩れそうな心を支えていた。
馬車は進み続ける。一歩一歩、運命の時刻に近づいていく。
エリザベートは、震える手を膝の上で組んだ。そして、静かに祈り始めた。
母の面影に、亡き父の記憶に、そして自分自身に。
「どうか...最後まで、耐える力を」
その祈りだけが、暗闇の中のわずかな光だった。




