第1話:鏡に映る憂鬱
鏡に映る顔を見つめながら、エリザベート・フォン・ヴァルハイムは深いため息をついた。栗色の髪を丁寧に結い上げる侍女の手が止まる。象牙でできた櫛が、朝の光を受けて淡く輝いていた。
「お嬢様、何かお気に障ることでも?」
侍女のマリアは、エリザベートに仕えて十年になる。彼女の機嫌の変化を敏感に読み取る能力に長けていた。しかし、今朝のエリザベートの憂鬱は、いつもより深く、重いものがあった。
「いえ、何でもありませんの」
嘘だった。すべてが気に障っていた。今日もまた、あの聖女リリアーナの話題で宮廷は持ちきりになるのだろう。庶民出身でありながら、神聖魔法の才能を開花させ、民衆から愛される完璧な聖女。対する自分は、名門公爵家の令嬢でありながら、冷たく高慢な悪役として囁かれる存在。
鏡に映る自分の顔を改めて見つめる。整った顔立ち、透き通るような白い肌、深い緑の瞳。客観的に見れば美しいと言えるだろう。しかし、その美しさも今では「冷たい美貌」「近寄りがたい貴族の傲慢さ」として語られることが多い。
「今日の予定を確認させてください」マリアが手帳を開いた。「午前中はルクラード殿下との茶会、午後は王妃様への定期報告、夕刻には宮廷での社交時間となっております」
ルクラード──自分の婚約者である第一王子の名前を聞くだけで、胸に重い石が落ちるような気持ちになる。一年前までは、少なくとも表面上は良好な関係を保っていた。政略結婚とはいえ、お互いを尊重し、将来の王と王妃として協力していこうという意識があった。
しかし、聖女リリアーナが現れてから、すべてが変わった。
「マリア」エリザベートは鏡を見つめたまま言った。「私は一体、何をしているのでしょう」
「お嬢様?」
「いえ、独り言ですの」エリザベートは首を振った。「最近、まるで見えない脚本に従って行動しているような、そんな奇妙な感覚があるのです」
マリアは困惑した表情を見せた。主人がこのような哲学的な疑問を口にすることは珍しい。
立ち上がり、鏡の前で一度身だしなみを整える。深緑のドレスは、ヴァルハイム家の家紋である銀の薔薇が精巧に刺繍されている。職人が三ヶ月かけて仕上げた逸品だった。上着には同じく家門の紋章が金糸で縫い込まれ、母から受け継いだエメラルドのネックレスが胸元で静かに輝いている。完璧な公爵令嬢の装いだった。
しかし、その完璧さこそが問題なのかもしれない。あまりにも完璧すぎて、人間味が感じられない。リリアーナの素朴で親しみやすい美しさとは正反対の、近寄りがたい高貴さ。
部屋を出る前に、エリザベートは執務机の上に置かれた書類に目を通した。自分の領地からの報告書──収穫量、税収、住民の状況。数字の上では、彼女の領地経営は極めて優秀だった。農民の生活は安定し、税収も順調に伸びている。しかし、こうした実務的な能力は、宮廷ではあまり評価されない。
「美談」がないのだ。リリアーナのように、孤児院を訪問して子どもたちと触れ合ったり、病人を癒したりといった、人々の心を打つエピソードが。
宮廷の廊下を歩きながら、エリザベートは自分を取り巻く視線を感じていた。使用人たちの遠慮がちな挨拶、貴族たちの作り笑い、そして時折漏れ聞こえる噂話。
「あの方、また聖女様に嫌がらせをなさるのかしら」
「お気の毒に。ルクラード殿下の心は完全に聖女様に向いているのに」
「高慢な令嬢と慈愛深い聖女、天と地ほどの差がありますわ」
「でも、お美しいのは確かですの。ただ、その美しさが氷のように冷たくて」
「美貌だけでは、人の心は掴めませんものね」
足音を立てずに歩く訓練を受けているからこそ聞こえる、本音の声。エリザベートは表情を変えず、背筋を伸ばしたまま歩き続けた。こうした噂に慣れているはずなのに、最近はなぜか一つ一つの言葉が胸に深く刺さる。
大理石の床に響く自分の足音だけが、やけに大きく聞こえた。宮廷の廊下は広く、天井も高い。まるで自分一人だけが、この巨大な空間に取り残されているような錯覚を覚える。
薔薇庭園に面した茶室に到着すると、第一王子ルクラード・フォン・アルデンハイムが既に待っていた。金髪に青い瞳、まさに王子様という風貌の男性だったが、エリザベートを見る目には温かみがなかった。一年前までは、少なくとも礼儀正しい関心は示してくれていたのに。
「お待たせいたしました、殿下」
優雅に一礼するエリザベート。宮廷礼法は完璧に身についている。しかし、ルクラードは軽く頷いただけだった。以前なら、「美しい」「優雅だ」といった褒め言葉をかけてくれたものだが。
「座ってくれ」
二人の間に流れる沈黙は重く、庭園の鳥のさえずりだけが響いていた。春の花々が咲き誇る庭園の美しさも、今は二人の心の距離を際立たせるだけだった。侍女が静かに茶を注ぐ音が、かえって気まずさを強調する。
銀の茶器に映る自分の顔は、いつもより疲れて見えた。最近、夜よく眠れない。原因は分からないが、頭が重く、考えがまとまりにくいことが多い。
「最近、リリアーナが孤児院で素晴らしい活動をしているそうですね」
ルクラードが口を開いたのは、予想通りリリアーナの話だった。彼の表情が、その名前を口にした瞬間に明るく変わったのを、エリザベートは見逃さなかった。
「そうですわね。庶民らしい素朴な慈善活動で評判のようですが」
言葉の端に棘があることは分かっていた。しかし、どうしても抑えきれない。なぜ自分は、あの少女の純粋な善意を素直に評価できないのだろう。
「素朴、か」ルクラードの目に失望の色が浮かんだ。「君にはあの純粋さが理解できないのかもしれないが、彼女は本当に人々のことを考えている。昨日も、病気の子どもたちのために夜遅くまで看病をしていたそうだ」
エリザベートの胸に、鋭い嫉妬の痛みが走った。リリアーナの行動は確かに立派だ。しかし、なぜ自分にはそれができないのだろう。いや、正確には、なぜしようとしないのだろう。
「私とて、民のことを考えていないわけではございません」エリザベートは静かに反論した。「領地の統治においては、常に住民の福祉を第一に──」
「君の考える民とは、君の領地の農民のことだろう?」ルクラードは茶カップを置いて、エリザベートを見据えた。「リリアーナは王国全体の民衆のことを考えている。スケールが違うんだ。彼女は自分の利益など考えずに、ただ人々の幸せのために行動している」
その言葉に含まれる軽蔑を、エリザベートは痛いほど感じ取った。確かに、自分の慈善活動は領地内に限られている。それは実務的で効率的ではあるが、リリアーナのような劇的で感動的なエピソードはない。
「申し訳ございません。私の考えが足りませんでした」
表面的な謝罪を口にしながら、エリザベートは心の奥で複雑な感情を抱いていた。この男の言葉には確かに一理ある。しかし、なぜ自分だけが責められなければならないのか。
「分かってくれればいい」ルクラードは満足そうに頷いた。「君も公爵令嬢として、もう少しリリアーナを見習ったらどうだ?彼女のような心の美しさこそが、真の貴族に必要なものだと思う。血筋や財産だけでは、人は動かせない」
見習う、か。エリザベートは静かに茶を口に運んだ。この甘い紅茶の味さえ、今日は苦く感じられた。ルクラードの言葉には、リリアーナへの賞賛と同時に、エリザベートへの失望が込められている。
「殿下のおっしゃる通りです」もう一度、形だけの同意を示す。「私も、もっと人々のお役に立てるよう努力いたします」
「そうしてくれ。君には君の良さがあるのだから」ルクラードは慰めるような口調で言ったが、その言葉はかえってエリザベートの心を傷つけた。まるで「せめて努力だけはしなさい」と言われているような気分だった。
茶会が終わり、一人になったエリザベートは庭園のベンチに座り込んだ。夕陽に照らされた薔薇が美しく輝いているが、その美しさすら今は心に響かない。
「私は、間違っているのでしょうか」
風に向かって呟いた言葉は、誰にも届くことなく消えていった。自分の立場、自分の役割、そして自分の未来。すべてが見えているはずなのに、なぜこんなにも苦しいのだろう。
このままでは、きっと破滅的な結末が待っている。婚約破棄、家門の没落、そして国外追放。悪役令嬢の定番の運命。まるで決められた脚本があるかのように、その結末に向かって進んでいるような気がする。
遠くから聞こえてくる笑い声に振り返ると、リリアーナが数人の貴族たちに囲まれて楽しそうに話をしていた。彼女の周りだけ、暖かな光に包まれているように見える。子どもたちと遊んでいるのだろうか、その表情には純粋な喜びが浮かんでいる。
それに対して、自分はどうだろう。一人でベンチに座り、誰に話しかけられることもなく、ただ夕陽を眺めているだけ。
エリザベートは立ち上がり、自分の部屋へと向かった。明日もまた、同じような一日が始まるのだろう。冷たい視線と、作られた笑顔と、そして心の奥の孤独感と共に。
部屋に戻ったエリザベートは、鏡の前に立った。そこに映るのは、美しく着飾った公爵令嬢。しかし、その瞳の奥には深い疲労が宿っていた。最近、なぜかひどく疲れやすい。考えがまとまらず、頭がぼんやりとすることも多くなった。体調の変化も気になるが、それ以上に心の疲労が深刻だった。
「まるで、自分が自分でないような感覚があります」エリザベートは鏡に向かって呟いた。「夢で見知らぬ光景を見ることもあります。これは一体、何なのでしょう」
鏡に映る自分に問いかけたが、答えは返ってこなかった。ただ静かに、長い夜が始まろうとしていた。
窓の外では、星が一つ、二つと輝き始めている。その美しい光も、今の彼女には遠く感じられるだけだった。まるで、自分だけが違う世界に取り残されているような、そんな奇妙な感覚があった。
「運命という名の鎖に縛られているような気がします」エリザベートは窓辺に立ち、星空を見上げた。「全てが決められた道筋を辿っているような...でも、私にはその道筋が見えません」
最近、時々不思議な既視感に襲われることがある。まるで同じような場面を以前にも経験したことがあるような、そんな感覚。しかし、それがいつのことなのか、どこでのことなのかは思い出せない。
ベッドに横になっても、なかなか眠りは訪れなかった。明日の予定を考える。王妃への報告、宮廷での社交、そしてまた誰かからの冷たい視線。
「私の役割とは、一体何なのでしょう」エリザベートは天井を見上げた。「もしかして、私は皆様の心の闇を照らす存在なのでしょうか」
突飛な考えに思えたが、なぜかその言葉がしっくりときた。しかし、それが何を意味するのかは分からない。
やがて浅い眠りに落ちたが、その夢の中では不思議な光景が展開されていた。見知らぬ場所、聞いたことのない言葉、しかし心のどこかで覚えのあるような、温かい感情を伴った映像。
しかし、目覚めた時には、その夢の内容は霞のように消えてしまっていた。ただ、何か重要な真実が隠されているような、そんな予感だけが心に残っていた。
翌朝、鏡を見ると、自分の瞳の奥に昨日まではなかった何かが宿っているのに気づいた。それが何なのかは分からないが、確実に何かが変わり始めているという実感があった。
しかし、その変化が良いものなのか悪いものなのか、そしてそれがどこに向かっているのかは、まだ誰にも分からなかった。
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