005
「No.823」
声がした。低く、無機質で、耳ではなく頭の奥に響くような声。
「お前の名前はミオだ。良いか。お前はミオだ。忘れるな」
その言葉が、ミオの意識に深く入り込んでくる。
「分かったら、自分の名前を言ってみろ」
ミオは、言葉の意味を理解しようとする。
頭の中に霧がかかっていた。考えようとすると重い泥をかき回すようで、思考がまとまらない。
自分が誰なのか、どこにいるのか、何をしていたのか——。
ひとまず言われた通りに答えた。
「……わたしは……ミオ……」
「……わたしの名前は……ミオです……」
沈黙。わずかな間の後、冷えた声が短く響いた。
「よろしい」
声の主は、ミオのそばから離れていった。足音が離れていく。ミオは、寝ている感覚の中でその音を聞いていた。
やがて足音は止まり、再び声が響いた。
「No.824。お前の名前はリク。いいか、リクだ。忘れるな」
ミオの左隣方向から声が響いた。
ミオは、ぼんやりとその言葉を聞いていた。
「……俺の名前は……リク」
「よろしい」
隣にいる人——彼の名前はリク。
それは、なんとなく理解できた。
ミオは、まぶたを押し上げようとした。けれど重すぎる。
体の感覚は曖昧で、四肢は鉛のように沈み、神経が途切れ途切れにしか繋がっていないように感じた。
——私の名前は、本当にミオなのか?
浮かぶのは断片的な記憶。
海。青く広がる水面の反射。
イルカ。DNA。——日本。
単語だけが浮かぶ。
それらが自分にとって大切だったことは何となく分かる。
けれど、それがどこで、誰と、どんなふうに関わっていたのかは思い出せない。
大学……?
何かを学んでいた気がする。
でも、名前も場所も出てこない。
ただ、研究していた。海の生き物。イルカ。
それだけは、確かな気がした。
住んでいた場所も、家族のことも、それ以上に自分にとって何かとても大事なものもあった気がしたが、何一つ思いだせなかった。
ミオは、静かに横たわったまま、
自分の名前が「ミオ」であることを自問自答していた。
それから、どれほど時間が経っただろう。
ミオは、まだ横たわったまま、意識の底で漂っていた。
身体は少しずつ温かさを取り戻していたが、動かすにはまだ重すぎた。
そのとき、またあの声が近づいてきた。
「ミオ。目を開けなさい。これを飲むように」
低く、乾いた声。
命令のようでいて、感情の起伏は感じられない。
ミオはゆっくりまぶたを持ち上げる。視界が歪み、光が滲む。目に入ってきたのは灰色の滑らかな皮膚と、小柄だが頭部の大きな、表情の少ない顔。鼻も口も痕跡のようで、漆黒のアーモンド型の瞳だけが大きくミオを見据えていた。
——グレイ!?
ミオの脳裏に、そういう言葉が浮かんだ。
昔、オカルト番組で見たことがある。
典型的な“宇宙人”の名称。
その記憶だけは、なぜか鮮明だった。
ミオは恐怖を覚えた。
喉が締めつけられる。声が出ない。
叫びたいのに、身体が反応しない。
グレイは、ミオの手元に何かを差し出した。
容器のようなもの。中には淡い青色の液体が揺れている。
「飲みなさい」
その言葉が、ミオの頭に直接響いた。
——何語なんだろう?
喋っている言葉は英語に似ていなくもないが、何かどこか違う。
でも意味は何故かすぐに理解できる。
内容がはっきりと分かる。
ミオは、震える手をゆっくりと伸ばした。
容器を受け取り、唇に触れさせる。
液体は、ほんのり甘く、冷たい。
——飲んだ。
喉を通る感覚とともに、ようやく身体が自分のものに戻ってくる気がした。
だが、ミオはまだ恐怖の中にいた。
今まで味わった事のない味。一体何を飲まされたのかが分からなかった。
ただ、飲んだ後も特に身体に異変などは起こらなかった。
グレイは、ミオを見つめたまま、何も言わずにその場を離れていった。
しばらくして視界はさらに鮮明になり、身体も少しずつ動くようになった。衣服は身につけておらず、全裸だった。
起き上がろうと全身を大きく動かしてみた。だが腕と脚に違和感がある。よく見ると手首と足首に細い筋のようなものが絡みついていた。褐色で柔らかいが張力があり、引き抜こうとすると抵抗がある。
拘束されている。
完全ではないが、ここから抜け出すことはできないようにされている。そう理解するしかなかった。
ミオが横たわっていたのは、半分に割った繭のような形の物の中。内側はふわふわとした繊維に覆われていて、寝心地は悪くない。
むしろ、包まれていた安心感すら残っている。
ミオは、少し身体を起こし、首を動かして周囲を見渡した。
——繭。
同じ形状の繭が、無数に並んでいた。
整然と、はるか先まで。
それぞれの繭に人が入っているかどうかは分からなかった。
ただ、少なくとも左隣にはリクという人が寝ているのだろうと心の中で思った。
ミオは、身体を起こしたまま、隣の繭に向かって声をかけた。
喉はまだ乾いていて、声は思うように出ない。
しかし、なんとか振り絞って話しかけた。
「……あの……リクさん? 聞こえます……?」
しばらく、何の反応もなかった。
繭の列は静かで、空間には機械音すらない。
ミオが、もう一度呼ぼうかと迷っていたそのとき——
「……俺は……リクらしいけど……誰か呼んだか……?」
掠れた声が返ってきた。
低く、眠気を含んだような声。
けれど、確かに隣から聞こえた。
ミオは、少しだけ安堵した。
「はい。右隣です。私は……どうもミオって名前みたい。
ここがどこだか、分かります……?」
リクは、しばらく黙っていた。
何かを考えているようだった。
そして、ぽつりと答えた。
「……全く分からない。
そもそも、自分が誰なのかも……今はよく分かってない」
その言葉に、ミオは静かに頷いた。
自分も同じだった。
名前は与えられた。でも、それが本当に自分のものなのか分かっていない。
「私も……似たような感じ。
しかも、逃げ出せないようにされてるみたいで……
手と足に、変な筋が絡まってて……」
リクは、微かに息を吐いたようだった。
ミオは、続けた。
「さっき……宇宙人みたいな人が来て……
変な液体を渡されて……飲まされました。
灰色の肌で、目が……すごく大きくて……」
言葉にしてみると、現実味が薄れていく。
けれど、ミオの中では確かに起きたことだった。
リクは、しばらく沈黙していた。
そして、低く呟いた。
「……俺も、さっき……何か飲まされた気がする。
でも……それが何だったのかは……分からなかった」
ミオは、声を潜めて言った。
「……ねえ、リクさん。
ここにいたら、私達、宇宙人に何をされるか分からない。だから何とかして早く逃げ出した方がいい気がします……」
隣の繭から、少し間を置いて返事が返ってきた。
「……気持ちは分かるけど……
変なことをして奴らを刺激しない方がいいんじゃないかな。
今は、まだ状況をよく見て判断した方がいいと思う」
その声は、まだ掠れていたが、冷静だった。
ミオは、言い返そうとした。
「でも——」
その瞬間だった。
遠くから、足音が聞こえてきた。
乾いた、規則的な音。
金属の床を踏むような、硬質な響き。
リクの声が、急に低くなった。
「来た……静かに。」
ミオは、すぐに身体を繭の中に沈めた。
目を閉じ、呼吸を浅くする。
心臓の音が、耳の奥で鳴っていた。
足音は、徐々に近づいてくる。
誰かが、またこの列を見回っている。
足音が、ミオの右隣で止まった。
硬質な響きが、繭のすぐ外側で静かに沈黙する。
「お前の名前は何だ」
低く、乾いた声。
グレイが隣の人に質問している。
しばらく沈黙が続いた。
そして、かすれた声が返ってきた。
「……あう……あ……あう……」
言葉にならない。
喉が震えているのか、意識が混濁しているのか。
リクと反対の隣の人物は、うまく返事ができていない。
グレイは、間を置かずに言った。
「こいつは失敗だ」
その言葉の直後、
ブチ……ブチ……
何かが切られていく音が響いた。
ミオは、息を止めた。
あの筋——手足に絡まっていた拘束。
おそらくそれを切り離しているのだと、直感した。
「さあ、立つんだ。こちらに来い」
命令の声。
そして、足音が再び鳴り始め遠ざかっていく。
一定のリズムで、繭の列の奥へと消えていく。
ミオは、目を閉じたまま、
右隣の人物がどこかへ連れて行かれたのだと理解した。
自分も、あのように「失敗」と判断されれば、同じようにどこかへ連れて行かれるのかもしれない。
ミオは、恐怖を感じ繭の中で少し震えながら身を丸めた。
何もできない。
何も分からない。
ただ、次に自分が呼ばれるのではないかという恐怖だけが、静かに身体を締めつけていた。
そのときだった。
遠くから、鈍い振動が伝わってくる。
壁が微かに揺れ、繭の底がわずかに沈む。
何かが、施設の外から押し寄せているようだ。
次の瞬間、鋭い破裂音が響いた。
金属が裂けるような音。
警報のような低い唸りが空間を満たす。
ミオは、思わず目を開けて上体を少し起こした。
光が走る。青白い閃光が混じる。
グレイ達の影が、慌ただしく動いている。
施設の奥から、青灰色の肌を持つ者たちが突入してきた。
しっとりとした質感の皮膚は、光を吸い込むように鈍く輝いている。
丸い額、大きな丸い目。
口元はとがっていて、背中からは、尻尾のような器官がわずかに揺れていた。
彼らは、グレイ達と交戦していた。
手に持つ武器からは、雷のような光が放たれる。
空気を裂くような音とともに、閃光が走るたび、グレイ達の身体が弾かれていた。
もう片方の手には、ナイフのような器具。
彼らは繭の列を次々と確認し、男だけを選んで拘束を切り離していく。
「……男だけ……」
彼らの選別は明確だった。
繭の中の人物を見て、性別を判別し、間違いなく男だけを救出している。助け出された彼らはまだ朦朧としているが、青灰色の民に支えられ、施設の外へ連れられていってるようだった。
しばらくするとミオの繭にも、一人が近づいてきた。青灰色の民は彼女の顔を一瞥し、すぐに言い放つ。
「こっちは女だ」
その言葉とともに、彼はすぐ隣の繭へと移動した。
ミオの心臓が跳ねた。
私はここに置いて行かれる。
その確信が、冷たい波のように胸を満たした。
隣の繭では、リクが引き出されていた。
筋が切られ、腕を掴まれ、立ち上がらされる。
リクはまだ朦朧としていたが、意識はあった。
青灰色の民に衣服を渡され、脱出を促されている。
民はそのまま立ち去ろうとしていた。
リクはその時、ミオの繭が見過ごされようとしている事に気づいた。
「待ってくれ!」
リクが声を張った。
青灰色の民の一人が、振り返る。
「この子も……この子も助けてやってくれ。ここから出たがっていた。頼む」
リクは、ミオの繭を指さした。
青灰色の民の丸い目がミオの繭を見つめる。
彼らは仲間と何やら話している。
そして、渋々といった様子で、ミオの繭に近づく。
ナイフが抜かれ、絡まっていた筋が切られていく。
そして身体を抱き起こされ、繭の外へ立たされた。
青灰色の民の一人が、男物の服をミオに投げ渡す。
もう一人は、銃のような器具を手渡してくる。
特に言葉はない。
その動きがすべてを語っていた。
ミオは震える手で服を着替え、銃を握りしめた。
しかし、膝が震えている。
思うように足が前に出ていかない。
リクは、少し離れた場所で振り返った。
ミオがまだ動けずにいるのを見て、痺れを切らしたように、近づいてくる。
ミオの前に立ち、手を伸ばした。
「さぁ、行こう」
ミオの手を、ぐっと掴む。
その瞬間——
ミオは一瞬何かを思い出しそうになった。
しかし、周囲の叫び声と閃光が、すべてをかき消していく。
「急げ!」
青灰色の民が叫ぶ。
ミオは、リクの手を握り返した。
二人は、青灰色の民たちと共に、
雷の音と閃光の中を駆け抜け、
施設の外へと走っていった。