003
澪の出発の日
波を模した曲線のガラスドーム。
朝の光が反射し、駅全体が淡く青く輝いていた。
澪の乗る高速シャトルは、東京湾岸の「中央リンクポート」へ向かう直通便。
澪は白いトランスバッグを肩にかけ、改札前に立っていた。
その周囲には、母と高校時代からの友人たち、そして少し離れた位置に陸がいた。
「……澪、ご飯はちゃんと食べるのよ。無理しないでね」
母の声は、いつもより少しだけ細くて、震えていた。
「うん。ありがとう、お母さん」
友人たちは明るく手を振る。
「そのうち、絶対遊びに行くから!あと、帰ってくるときは連絡して!」
澪は笑って頷いた。
澪は陸に一歩だけ近づき、静かに言った。
「……向こう着いたら、連絡するね」
陸は澪の目を見て、頷いた。
「……ああ。お互い、頑張ろうな」
澪は最後にもう一度、みんなに手を振った。
そして、改札を通り抜け、シャトル搭乗ゲートへ向かう。
透明なシャトルが静かにプラットフォームへ滑り込む。
乗り込んだ澪の姿が、ガラス越しに見える。
発車まであと10秒。
澪は座席に腰を下ろし、窓の外に向かって手を振った。
母は涙を拭っていた。友人たちは声を上げて手を振る。
陸は黙ったまま、右手をゆっくりと上げた。
シャトルが加速を始める。
音もなく光の軌跡を残し、澪を乗せた車両はあっという間に見えなくなった。
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大学を卒業した春、陸は国内大手の次世代型農業企業——アグリ・ネクサス社に入社した。
配属先は、陸の地元である宮城県仙台市にある第七生産拠点〈仙台バイオリンク工場〉。
ここでは、AI制御による完全閉鎖型の人工農場が稼働しており、地域の食料供給を支える中核施設として機能していた。
陸がアグリ・ネクサスを選んだのは、ただ技術が好きだったからじゃない。
この会社が掲げる「人の暮らしを支える」という言葉に、澪の影を見たからだった。
澪は、海の命を未来へ残すために東京へ行く。
自分は——人々の日々の暮らしを守る。
何かを守る事で、澪と同じ方向を向いていたい。
そう思ったからだった。
仙台工場の初出勤の日、陸は早朝の空気を吸い込みながら、静かに歩いた。
工場のゲートは無機質で、どこか冷たい。
でも、その奥に広がる栽培ユニットの光は、どこか淡く光輝いて見えた。
「……ここで、俺はやっていく」
陸はその瞬間、静かに決意を刻んだ。
この場所で、自分の技術を磨いて、人々の為に頑張るのだと心に誓った。
一方、澪が就職したのは、国立海洋生態研究機構の東京本部。
2050年代の日本において、海洋哺乳類の保護と記憶保存を担う最先端の研究機関であり、環境DNA解析や群体記憶のデジタル化に力を入れていた。
澪が配属されたのは、海洋哺乳類遺伝保全ユニットと呼ばれる専門部署だった。
このユニットは、絶滅危惧種の海洋哺乳類——特にイルカ類の遺伝子を解析・保存し、将来的な再生・保護に繋げることを目的として設立された。
澪がイルカの事が好きになった理由は、自分でもよく分かっていない。
きっかけのひとつは、父から貰ったイルカのホログラムにあるのだとは思う。
ただ——物心がついた頃には既にイルカが好きだった気もする。
そんなイルカが絶滅しかかっていることを澪は中学生の頃に知った。
「守らなきゃいけない。」
それだけだった。
使命とか、責任とか、そんな立派な言葉じゃない。
ただ——好きだったから。失われるのが、嫌だったから。澪はイルカに関する勉強を続け、この春、この機構へ就職した。
そんな澪と陸が出会ったのは、高校2年生の春だった。最初の出会いはクラスでのグループ討議だった事は前に二人が話していた通りだ。それ以降、気づけば隣にいることが自然になっていた。
大学も、学部こそ違えど同じ大学へ進学した。
朝の電車、キャンパスの坂道、帰り道のコンビニ。
お互いのバイトが休みの日は必ず二人でどこかへ出かけた。
少なくとも週に3、4回は顔を合わせていた。
それが、ふたりにとっての“日常”だった。
励まし合いながら、支え合いながら、約6年間を一緒に過ごした。
言葉にしなくても、隣にいるだけで安心できる。
そんな関係だった。
そして——この春。
そんな二人は、高校2年生の春以来、初めて離れ離れになることになった。
お互いがそれぞれの道を歩きだす。
二人が離れて暮らすようになってから、最初の数ヶ月——
澪と陸は、ほぼ毎日のようにホログラム通話をしていた。
澪は東京での新生活のことを話した。
研究所の雰囲気、初めて会った先輩の癖、イルカたちの様子。
陸は仙台工場での苦労話を語った。
AI制御のトラブル、先輩の口癖、初めて任されたユニットのことなど。
他愛もない話も多かった。
コンビニで見つけた新しいアイス、通勤中に見た変な雲の形。
ふたりは、ホログラム越しに笑い合いながら、日々を埋めていた。
でも、時間が経つにつれて、それぞれの生活は少しずつ形を整えていった。
仕事のリズム、職場の人間関係、週末の過ごし方——
新しい日常に慣れていくにつれ、通話の頻度は自然と減っていった。
寂しさはあったが、耐えれるようになっていた。
むしろ、ふたりがそれぞれの場所でちゃんと生きている証のようなものだった。
週に一度、決まった時間に通話する。
それだけで十分だった。
ホログラム越しの澪の声を聞けば、陸は安心できたし、澪も陸の顔を見れば、肩の力が抜けた。
ふたりの距離は、遠くなったわけじゃない。
ただ、少しだけ静かになっただけだった。
二人が離れ離れになって三年程経ったある日、陸の端末に、普段とは違う時間に通知が入った。
「今、いい?」
澪からの短いメッセージ。
陸はすぐにホログラム端末を起動した。
空間に澪の姿が浮かび上がる。
いつもより少し小さく見えた。
「就職してからずっと……世話してたイルカ。病気で亡くなっちゃった……」
一旦、言葉が途切れる。
「私がもっと早く気づいてれば……助けられたかもしれないのに……」
彼女は酷く落ち込んでいるように見えた。泣いているようだった。
陸は、ホログラムに手を伸ばした。
澪の肩に触れようとして——
けれど、指先は空をすり抜けるだけだった。
何も触れられない。
そこに澪はいるのに、ここにはいない。
その夜、通話が終わったあとも、陸はしばらく動けなかった。ホログラム越しに見えた澪の泣き腫らした瞳が忘れられなかった。
この日以来、陸の意識は変わった。
やっぱり、澪のそばにいるべきだ。
遠くから見守るだけじゃ、足りない。
澪が泣いている時に、そこにいられる距離にいたい。
陸は、以前から先輩に言われていたことを思い出した。
「久遠、お前なら東京本社勤めの上級職も狙えるんじゃないか?昇格試験、受けてみたらどうだ?」
その言葉を、ずっと聞き流していた。
でも今は違う。澪の為にも本気で挑んでみようと思った。
そしてもし合格して東京に行く事になれば、その時は澪にプロポーズをしようとも考えていた。
陸は、澪を喜ばせる為にその事を澪にはずっと黙っていた。
澪がショックから立ち直り始めた頃、澪から陸に週に一度の通話が入った。
ホログラム通話が繋がると、澪はいつものように軽く手を振った。
東京の部屋は夕暮れの光に包まれていて、澪の髪が少し赤く染まって見えた。
「ねえ、陸くんの今年の夏季休暇って、いつ頃になりそう?」
陸は一瞬、言葉に詰まった。
昇格試験まであと2ヶ月。
昼は現場、夜は試験対策。
正直、遊ぶ余裕はなかった。
「……ごめん。今年はちょっと用事があって、そっちに遊びに行けそうにないかも」
澪は、少しだけ間を置いてから答えた。
「.....そうなんだ。残念」
それ以上、理由は聞かれなかった。
澪は笑っていたけれど、一瞬少しだけ強張って見えた。
その日の通話はそのまま、他愛もない話をしていつも通りに終わった。
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夏が過ぎていく。
この頃の陸の生活は、仕事と勉強だけで埋め尽くされていた。
夜、帰宅してシャワーを浴びると、机に向かう日々。遊ぶ気力も残っていない。澪との週に一度の通話も、気づけば寝過ごしていた。
澪はソファに座ったまま、端末の光を見つめていた。
けれど、画面はいつまで経っても応答しないまま、やがて自動で切れた。
「……出ない」
小さくつぶやいて、澪は端末を伏せた。
「最近、なんだか陸くん変だな……」
言葉にした途端、胸の奥がざわついた。
もしかして——
いや、だめだめ。信じないと。
「きっと、仕事が忙しいんだよ……」
澪はそう言い聞かせるように、深く息を吐いた。
窓の外は、もうすっかり夏の終わりの空。
東京に来て、3年半。
色々あったけど、あっという間だった。
初めてイルカに触れた日。
研究室で夜を明かした日。
陸が突然会いに来てくれた、あの週末。
全部、遠くなっていく気がした。
ふと、澪は天井を見上げた。
「そういえば……あのロケット、ちゃんと飛んでってるのかな?
私たちのかけがえのない思い出を載せたあのロケット....」