002
「澪ーっ、ドローン来たわよー!」
階下から母の声が響いた。
澪はベッドの上でカプセルの梱包材を探していた。
「ちょっと待って!今行くから!」
部屋の床には、昨日使った記憶採取キットの空ケースと、データの入ったカプセルが転がっている。
澪はそれを手早く包み、ラベルを貼り、封筒に押し込んだ。
階段をバタバタと駆け下りる。
玄関の外には、白いボディの飛行ドローンがホバリングしていた。
機体側面には「Message Ark Japan」のロゴ。投入口が静かに開いている。
「お願いしますっと……」
澪は封筒を投入口に差し込み、機体の側面にある送信ボタンを押した。
ドローンは軽く揺れ、静かな音を立てて空へと舞い上がっていった。
母が腕を組んで立っていた。
「いつも言ってるでしょ、ドローンが来る前に準備しておきなさいって。」
澪は肩をすくめながら、軽く笑った。
「はいはい、ごめーん。でも間に合ったからセーフ」
母はため息をつきながら、玄関のドアを閉めた。
「来週から一人暮らしなんだから、しっかりしないと。それから引っ越しの準備も、早くしなさいって言ってるでしょ。」
澪は少し不貞腐れて言う。
「分かってるってば……」
母は呆れた顔をして、何も言わずにリビングへ戻っていった。
澪は玄関に残された空のケースを拾いながら、ぼそっと言った。
「言われなくても今からやるし……」
そのまま階段を上がり、部屋のドアを閉める。
窓の外では、ドローンがもう見えなくなっていた。
澪は机の上にカプセルの郵送記録控えを置き、引っ越し用の段ボールを床に置いた。
「…..この部屋ともいよいよお別れかぁ。」
澪はそう呟いて、段ボールの横にしゃがみ込んだ。
そして、一息ついてから棚の整理を始めた。いる物といらない物を黙々と分けていく。
棚の奥に手を伸ばすと、埃をかぶった小さな黒い装置が出てきた。
角が丸くて、手のひらサイズ。見覚えのある形だった。
「……あ、これ。」
父がまだ家にいた頃、誕生日に買ってくれた3Dホログラム装置。
澪はそっと電源を入れた。
装置が静かに起動し、部屋の空気がふわりと揺れる。
青い光が広がり、空中にイルカの映像が浮かび上がった。
ゆっくりと泳ぐように、澪の目の前を通り過ぎる。
「そうだそうだ……子供の頃、毎日これ眺めてたなぁ。」
澪は膝を抱えて座り込み、イルカの軌道を目で追った。しばらくぼんやりしていたが、ふと我に返った。
「……って、やば。ボーッとしてる場合じゃないじゃん。引っ越しの続きやんなきゃ。」
そう言って、澪は膝を伸ばし、段ボールの山に向き直った。
時折手が止まりながらも、黙々と箱に物を詰めていく。
気づけば、窓の外はすっかり夕方の色に染まっていた。
澪は段ボールの山を見渡しながら、ふぅっと長い息を吐いた。
「……流石に疲れたー……」
そう呟いて、ベッドに倒れ込む。マットレスの柔らかさが背中に広がって、身体の重さでじわじわと沈んでいく。
天井を見上げながら、澪はぼんやりと考え始めた。
新しい家のこと。まだ見ぬ街、まだ知らない人たち。研究のこと。初めての本格的な仕事。
未知の海に漕ぎ出すような不安と、胸の奥に灯る小さな希望。
そして、家族のこと。母の声、父の思い出、荒浜の風景。もうすぐ、それらが日常ではなくなる。
陸のことも、自然と浮かんできた。
「……本当に、離れ離れになってよかったのかな……」
澪は目を閉じた。波の音が耳に残っている気がした。あの夕暮れの海。カプセルを手にしたときの陸の表情。指先が触れ合った瞬間のぬくもり。
陸は地元に残る。私は遠くへ行く。
二人が選んだ道だった。お互いの使命を尊重して、未来を信じて。
でも——それでも、心の奥に残る小さなざわめきは、簡単には消えない。
夕陽がカーテンの隙間から差し込んで、部屋の空気を淡く染めている。
階下から、柔らかな声が響いた。
「澪ー、ご飯できたよー!」
澪はベッドの上で目を開け、少しぼんやりしたまま返事をした。
「はーい、今行くー」
ゆっくりと身体を起こし、階段を降りる。キッチンから漂ってくる香ばしい匂いに、思わず顔が綻ぶ
食卓に並んでいたのは、澪の大好物——エビフライ。
「……やったー!エビフライ!」
澪が嬉しそうに声を上げると、母は笑いながら言った。
「向こうに行ったら、中々食べれないかなーって。今のうちに、澪の好きなもの作ってあげておこうと思って。喜んでもらえて何より」
澪は箸を手に取りかけて、ふと動きを止めた。 胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……ねぇ、お母さん、私が遠くに行って、一人になっても……大丈夫?」
母は少しだけ目を細めて、優しく澪を見つめた。
「寂しくないと言えば嘘になるかな。
でも、澪がやりたいことをやるって決めたことが……それが一番嬉しいから。」
澪は唇をきゅっと結んで、頷いた。
「……そっか、ありがとう。」
「さぁ、しっかり食べて、しっかり頑張って。」
澪は笑って、箸を握り直した。
「はーい。いただきます。」
静かに、確実に、出発の時は近づいていた。
昼は新生活の準備に追われ、夜は連日、友達との会食。別れの意識は日が進むに連れ大きくなっていった。
6日後——
今日は、澪が送ったカプセルを載せたロケットの打ち上げの日。
陸の家のリビングには、立体放送対応の大型シアターが設置されていた。打ち上げ企業「Message Ark Japan」の公式サイトが配信するロケット打ち上げの生放送が、空間全体に映像を投影している。壁も天井も、夜の深い青に染まっていた。
澪と陸は並んでソファに座り、ロケットを静かに見つめていた。
カウントダウンが始まる。発射台の周囲には、冷却ガスが白く立ち上り、空気が震えている。
澪は息を飲んだ。自分達の記憶、自分達のDNA、陸との思い出が詰まったカプセルが、今から宇宙へ向かおうとしている。
「……いよいよだね」
澪がぽつりと呟くと、陸は頷いた。
「なんだか不思議な気分だな。」
「うん。太陽系を越えて、トラピストの星まで。何万年もかかるけど……ずっと一緒に漂ってる」
画面の中で、ロケットがゆっくりと火を吹き始めた。轟音が空間音響で再現され、床がわずかに震える。澪は思わず陸の腕に触れた。陸も、そっと澪の手を握り返す。
発射。
炎が噴き出し、ロケットが空へと舞い上がる。地球の空を突き抜け、成層圏へ、そして宇宙へ。
澪の目に、光が映る。それはロケットの軌跡であり、自分自身の未来でもあった。
「……ありがとう、陸くん。一緒に見られて、よかった」
陸は澪の手を握ったまま、静かに言った。
「澪が選んだ道、ちゃんと応援してる」
ロケットは、画面の中で小さな光点になり、やがて見えなくなった。
明後日の朝、澪は東京へと旅立つ。