001
2056年3月
海は静かだった。
夕陽が水平線に沈みかけていて、波打ち際には金色の光が揺れている。
澪はスニーカーのつま先で砂をいじりながら、ふと口を開いた。
「ねえ、陸くん。メッセージボトルって知ってる?」
陸は少し首を傾けて、澪の横顔を見た。
「大昔の人がガラス瓶に手紙入れて海に流してたってやつだろ?子供の頃、端末で読んだことある。」
澪はくすっと笑った。
「そうそう。....あれをやってみない?」
陸は眉を寄せた。
「海に人工物を流すとか、海洋生物遺伝学を専攻してる澪が一番嫌がりそうなのに。どうして?」
「いや、流すっていっても海じゃないんだな。」
澪はポケットから小さなカプセルを取り出した。
銀色の外殻に、微細な回路が浮かんでいる。夕陽が反射して、まるで水滴のように光った。
「今流行ってるの知らない?自分のDNA情報とか、ナノマシンで脳内マッピングした記憶データとかを一緒に入れて、宇宙に向けて発射するの。」
陸は何言ってんだという顔で澪の方を見た。
冗談かと思ったが、澪の目は本気だった。
「知らない。そんなのが流行ってるのか?」
「うん。現代版メッセージボトル。宇宙に向けて、誰かに届くかもしれないってやつ。エモくない?」
澪はカプセルを両手で包み込むように持ち、海を見つめた。
「春から離れ離れになるけどさ、このメッセージボトルに私たち二人分のデータを入れて宇宙に発射するの。宇宙ではずっと一緒。エモーショナルでしょ。よくない?」
陸は口を開きかけて、少しだけ唇を噛んだ。
波の音が、二人の間を静かに流れる
「....俺はそんなに明るく、澪と離れ離れになる気分じゃないんだけどな。前にも言ったけど、本当は澪にも地元に残ってもらいたかった。」
澪は一瞬だけ目を伏せた。
カプセルを両手で包み込むように持ったまま、波の音に耳を傾ける。
そして、切なげにふっと笑った。
「……それは、もう言わない約束だったじゃん。」
二人の間に、波の音だけが残る。
風が吹いて、澪の髪が揺れる。
「……そうだったな。....ごめん。」
残ってほしかった。ずっとそばにいてほしかった。
でも、澪が澪らしくいること、それも陸が心から望んでいる事だった。
「……うん。私も、なんかごめん。」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
夕陽はさらに傾き、海面の光がゆっくりと色を変えていく。
陸が、ふっと息を漏らすように笑った。
「……なんか、昔を思い出すな。」
澪が顔を上げる。
「昔?」
「高校のとき。課題研究で同じグループになったとき。意見、全然合わなくて。」
「あー、あれね。『ロボットで学校の掃除を自動化するべきか』ってテーマで、陸くんが『掃除は効率化すべき』って言って、私は『みんなでやるから意味ある』って反論したやつ。」
「そうそう。で、グループ内で収拾つかなくなって、澪が『海で話そう』って言い出して。」
「放課後に浜辺まで引っ張ってったんだよね。制服のまま。」
「で、結局また議論になって、ちょっと喧嘩して。」
「でもそのあと、私が『ロボットが掃除しても、みんなで見守る時間があればいいかも』って言ったら、陸くんが『そうだな、それはあってもいいな』って言ってくれて。」
「それで仲直りしたんだよな。あのときの海、今日と同じくらい静かだった。」
澪は笑った。
「ね。あれが始まりだったんだよね、私たち。」
陸は頷いた。
「ああ。あのときから、澪はずっと澪だった。」
澪も頷いた。
「陸くんも、ずっと陸くんだった。」
二人が顔を見合わせて笑顔になる。
陸はカプセルを見つめながら、ぽつりと口にした。
「メッセージボトルか……でも、実際どうやって宇宙に向けて発射するんだ?」
澪はすぐに答えた。声は軽やかで、どこか楽しげだった。
「ロケットに載せて発射してくれる会社があるんだって。民間の宇宙関連企業で、個人の記録カプセルをまとめて打ち上げてくれるの。」
陸は少し驚いたように眉を上げる。
「.....そんなサービスがあるのか。」
「うん。でね、ロケットが飛んでいく先が、人が住めるかもしれないって言われてる星なんだよ。確か……トラピストって星だったかな?」
「トラピスト?」
「そう。地球から40光年くらい離れてる星で、水があるかもしれないって。人類がいつか住めるかもって言われてる。」
陸はカプセルに目を向けた後、空を見上げた。
澪は笑った。
「たどり着くのは何万年もかかるらしいけどね。でも記念としてやってみるのも面白いでしょ?
宇宙に、私たちの記憶が漂ってるって、ちょっとロマンあるじゃん。」
「……そうだな。」
「じゃ、決まりだね。二人の思い出、宇宙に乗せちゃおう。」
そう言って、澪はバッグから小さな白いケースを取り出した。
ケースの中には、シールみたいな形をしたスタンプ型のデバイスが二つ入っていた。
澪は説明書をざっと見て、一つを陸に手渡す。
「これを腕に貼るだけでいいんだって。ナノマシンが血管に入って、脳の記憶領域をスキャンしてくれるらしい。詳しい仕組みは……正直、よくわからない。」
陸は少しだけ戸惑いながらも、澪の真剣な目を見て頷いた。
スタンプを腕に押し当てると、ひんやりとした感触が一瞬だけ走った。
「この後はしばらく、ぼーっとしてるだけでいいって。海見ながら、のんびりしてれば十分。」
二人は並んで波打ち際に腰を下ろした。
風が吹いて、潮の匂いが漂ってくる。
澪はカプセルを手のひらで転がしながら、空を見上げた。
「このカプセルね、恋人用なんだよ。二人分の記憶が一つに入るタイプ。」
「……そうなんだ。」
「うん。夫婦とか、パートナー向けって書いてあった。一人ずつのカプセルも選べたけど……私はこっちの方がいいなって思って。」
澪はそう言って、少しだけ視線を逸らした。
風が吹いて、髪が頬にかかる。
陸は何も言わずに、澪の手にそっと触れた。
指先が、ゆっくりと絡まる。
二人はしばらく波の音を聞いていた。
澪がそっと顔を向ける。
陸も、ゆっくりと澪を見た。
互いの距離が自然に縮まり、唇が触れ合った。
澪が微笑む。
「……この記憶が、一番鮮明に残るかもね。」
陸も笑った。