向日葵
刺すような日差しが注ぐ。
蝉の声が響き、耳から侵入して身の内で響く。
ジージー、ジワジワ、ジージー……。
「おーい、何してるのー?」
先を行って歓声を上げていた香里が、駆け戻ってくると修仁の顔を覗き込んだ。
「ぼーっとしてた」
「え、大丈夫? 休憩しようか」
辺りを見回し、次いで鞄から園内マップを取り出した香里に、首を振ってそれを断ってから、修仁は笑顔を浮かべた。
「それより写真、どの辺りで撮ろうか」
香里は心配そうに修仁の顔を見回してから、ひとつ頷くと後ろを振り返った。
その視線を追うようにして、修仁は一身に太陽の光を浴びるそれに目を向けた。
向日葵。
太陽を追って頸を動かすという花。
「あっちの方が沢山咲いてていいかなぁ」
香里が明るい笑顔で指さし、修仁の腕を引く。引かれるまま、修仁は彼女に選ばれなかった向日葵達に目を落とす。小ぶりな花々は、それでも懸命に太陽を向く。この品種の方が、香里の可憐さと似合う気がするのに、と思いながら、香里の目指す先を見やる。
──目が合った、気がした。
日差しが目に入り込んで、その白さに瞬いてから、もう一度そちらに目をやり、頭を振る。
──そんな筈はない。
ただ、向日葵が咲いているだけだ。
足元を子供達が声を上げながら駆けていく。蝉の声が混じる。
ジージー、ジワジワ、ジージー……。
「ねぇねぇ、此処で撮って」
香里が腕を離し、向日葵の前に駆けていく。修仁はそれを見やってから、首に掛けたカメラを構えた。
カメラのフレームの中で、香里は笑顔を浮かべる。白いワンピースが眩しい。麦わら帽子に手を当て、ポーズを取る。その背後には──向日葵。
香里の背丈ほどもあるそれは、まるで香里に耳打ちしているように重たそうな頭をもたげている。
修仁はハッと目を上げた。
「どうしたの?」
「あぁ、いや……」
設定が、などと適当に答えながら、修仁は知らず背を汗が流れるのを感じた。
落ち着かない。見られている気がする。
しかし、そんなことがある訳がない。
ただ、向日葵が咲いているだけだ。
刺すような日差しの中でそれは太陽を追っている。蝉が鳴く。
ジージー、ジワジワ、ジジー……。
香里の姿をフレームに収める。笑顔の香里と、無言でこちらを向く向日葵と……。
修仁は、ひたすらにシャッターを切った。
「すごい。これよく撮れてるね」
木陰で涼みながら、香里が弄っていたカメラを掲げてみせた。
「モデルが良いからね」
修仁が言うと、香里は照れたように笑ってから、ストローを咥えてサイダーを飲んだ。カメラをベンチの上に置き、園内マップを膝の上で広げる。
「ねぇ、この後、ひまわり迷路に行ってみようよ。ほら、此処」
そう言って地図の一角を指さした。園内の四分の一を使用して造った、ひまわりの迷路だ。
「写真は、もういいの」
「うん、沢山撮ってもらったし。今日は黙々と撮ってるんだもん。向日葵好きなんだね?」
修仁は、それに曖昧に微笑み、ストローを咥えた。
好き? ただ目が合わないように撮っていただけだ。レンズを通して見るそれは、ただの花に見えたから。
修仁は緩く頭を振って、考えを振り払った。
向日葵は、ただの花だ。
「迷路、行こうか」
「うん、行こう」
修仁は、迷路を前にして知らず息を吐いた。顔を覗き込む香里に笑い掛け、ジーパンのポケットに差しておいたペットボトルを取り出す。
「水分補給」
買ったばかりだというのにもう僅かに温くなっている。香里は笑って、「さっき飲んだばかりなのにね」と鞄から取り出したペットボトルを傾けた。
「それじゃあ、競争ね。ゴールは四つあるんだって。ゴールにある看板の写真を撮って、此処に戻ってくること。いい?」
瞳を輝かせる香里に頷くと、香里はパッと駆け出した。
「じゃあ、お先~!」
手を振り、向日葵の咲く中へ姿を消す。小柄な体はすぐに覆い隠され見えなくなった。
修二は、緩慢な動きで迷路へと足を踏み入れた。
向日葵は、修仁の目線程の高さで揃えられている。先の方に何人かの頭や、日傘が見えた。皆、のろのろと行ったり来たりしている。
向日葵は、相変わらず太陽の方を向いている。道を曲がって、その正面に向き合う度、修仁は息を飲んだ。
道を間違えると、行き止まりに「こっちじゃないよ」と書かれた看板が立てられており、道を引き返すことになる。行ったり来たりしている内に、迷路内で香里と合流するかと思っていたが、未だその様子はない。それどころか、他の客の姿も見掛けなかった。
予想よりも本格的に造られていた迷路に溜息を吐き、ペットボトルを取り出す。それは既にホットドリンクと言えるような温さに変じていた。炎天下では尚更だ。しかし、それでもあまじょっぱさが体に染みる。
──ねぇ。
ふいに声が聞こえた気がして、修仁はペットボトルの蓋を取り落とした。辺りを見渡してから、地面に転がる蓋を拾い上げる。土を払い、蓋を閉め、再び辺りを見渡した。
誰も居ない。先程まで聞こえていた蝉の声も今は遠い。その中で「ねぇ」。
しかし、思い返してみればただの風の音のようだった。そう思い直した修仁は、再び歩き始めた。
目線を上げる気にならず、地面を見て歩く。
角を曲がり、足を止めた。
──向日葵。
空に向かって伸びる筈のそれは、茎の途中で折れ、重い頭を地面に垂れている。
妙に薄い花弁が力なく垂れ、中心のぶつぶつとした管状花が暗く沈む。
一体、何を……?
修仁は後退ると、もう一本反対側に伸びる道を進んだ。
向日葵はその顔を、まるで覗き込むように修仁に向ける。必死に意識の外にそれを追い出し、ただ、道を進む。
ふいに前方に迷路の終着点が現れた。修仁は駆けるように残りの道を進み、迷路から転がるように飛び出ると、その場で動きを止めた。
向日葵が……。
項垂れ、くすみ、茶色く死にゆく向日葵が、一面に広がっている。
ただ、虚しく、向日葵達は項垂れている。
まるで死者の群れのように佇む向日葵。もう、それらは太陽を向くことはない。
「……看板」
修仁は、呟くと辺りに視線を走らせた。看板など見当たらない。ただ、向日葵達が死んでいる。
振り返った修仁は、息を飲んだ。
見ている。こちらを。向日葵達が──。
向日葵は、その顔を一斉に修仁に向けていた。目など、口など、ない筈なのに、それらは嗤っているように見えた。
修仁は、自分が駆け抜けて来た終着点が、きれいさっぱり消失していることに気が付いた。
此処へと至った道は閉ざされ、向日葵が嗤いながらこちらを向いている。
一体、向日葵達は、何を……。
突然、キャーという声が響いた。子供達の楽しそうな声が近付いて来る。蝉の声が戻り、子供達の声に混ざる。
ジージー、ジワジワ、ジ、ジー……。
子供達が足元を駆けて行き、それを追う親が、一瞬不審そうな顔を修仁に向けた。
修仁は道を譲り、上げた目線をその先に釘付けた。
向日葵は──。
「あ、居た!」
香里が駆けてくると、修仁の腕に縋りついた。
「もう、心配したよ。迷路三回も回ちゃったじゃん。どこに居たの?」
「……え?」
呆然とする修仁に、香里は眉根を寄せる。
「休憩しようか」
香里が腕を引くままに、修仁は歩き出した。後ろを振り返ると、ひまわり迷路の壁が見えた。向日葵はもう、こちらを向いていなかった。
──向日葵は、ただの花だ。
「はぁ、冷たくて美味しい」
『ひまわりソフト』という名の、どの辺りが向日葵を模しているのか判らない黄色っぽいソフトクリームを食べた香里が言った。次いで、『ひまわりポテト』という名の、こちらは円形に配置され、真ん中にディップとしてドライカレーが盛られた向日葵に見えなくもないフライドポテトに手を伸ばす。
「甘くて冷たいのと、しょっぱくて熱いのを交互に食べるのっていいよね」
喜ぶ香里に、修仁は曖昧に微笑んだ。ふと、香里が笑顔を引っ込める。
「ねぇ、本当にどこ行ってたの?」
「どこって……」
修仁は、答えを持ち合わせておらず、口を噤んだ。誤魔化すようにソフトクリームを一口食べてから「迷路だけど」とだけ答える。
「えー、私三回も迷路入ったんだよ。何ですれ違わなかったんだろ」
「結構、本格的だったよね」
そう答えると、香里は嬉しそうに頷いてみせる。
「うん、迷路なんて久し振りだったし、熱中しちゃった。あ、そうそう」
香里は鞄からスマートフォンを取り出し、画面を掲げてみせた。
「ゴールの看板。イラストも可愛いんだけど、向日葵についての豆知識が載ってて面白かったね。そう言えば、どのゴールから出たの? 私は全部違う所から出たから、看板の写真三枚あるよ」
誇らしげに差し出してくる香里のスマートフォンに目を落とした修仁は、画像に目を釘づけた。
〝じつは、ひまわりがおひさまをおいかけるのは、はながさくまえのじきなんだ〟
ポップなイラストと共に看板にはそう書かれている。
「あ、それ。びっくりだよね。言われてみれば確かにお日様の方向いてないよね。大体同じ方向は向いてるけど、お日様の方じゃない」
ハッと顔を上げた修仁は、息を飲んだ。
見ている。
向日葵が、こちらを……。
一面に広がる向日葵畑の中で、一輪だけがこちらを。いや、それは徐々に辺りに波及して、ゆらり、と向日葵がこちらに顔を向ける。
「修仁?」
香里の声に視線を外す。
向日葵は、もう、こちらを向いていなかった。
向日葵は、ただの花だ。
蝉の声がする。
ジワジワ、ジージー、ジワジ、ジー……。