7
「おい、そこのお前」
城で忙しそうに働くメイドの中に、見覚えのない女を見かけた王太子ノアは、立ち止まって声を掛ける。
声を掛けられたメイドは困惑したが、メイド長が背中を叩き何かを囁くと、他のメイド達が慌てて走り去り、一人その場に取り残される。
「わっ、わわわわわ私ですか!?」
「いつからここに勤めている?」
「み、三日前からです、のののの、ノア様」
「そうか。これから部屋に来い」
「は、はいぃ……」
ノアは、気の弱そうなメイドの手を引き居室に向かう。
通常、王位継承前の王族は暗殺を避けるため、人の出入りが多い王宮ではなく敷地内にある離宮に住まうことになっているが、母リオノーラの暮らす離宮から出来るだけ離れたところに住みたいと、ノアは父に頼み込み王宮に居室を持っていた。
部屋にメイドを連れ込むやいなや、ノアは後ろ手に鍵を掛け――
毎度のごとくメイドをベッドに押し倒そうとし――逆に押し倒された。
あまりの手際の良さに、首元に手を添えられようやくノアは自分が押し倒されたことに気付いたほどである。
「……は?」
困惑するノアは、手足が完全に拘束され微動だにしないことに気付き、血の気が引く。プレイの一環で女に主導権を握らせることはあったが、初手から完全な拘束をされたのは初めてだったからだ。
メイドは呆れた顔で馬乗りになると、ノアを見下すように口を開く。
「ノア様、いつもこうしてるんですか?」
「ま、待て、お前は誰だ」
「…………」
メイドは小さく溜息を吐き後ろ手に髪留めを取ると、ぱちりと付け毛を外し、瞳に手を当てコンタクトを外す。
――そこにはオリーブを思わせる美しき碧の瞳を持った、中性的な女が居た。
「ま、まさかっ、お前まさかペリドットか!?」
「そうですよ、ノア様」
「…………悪い」
「女を押し倒すのは公務ですか? それとも何かの意図があるのでしょうか? まさか無作為に種を仕込むつもりじゃないでしょうね」
「ち、違う! 避妊具だってちゃんと持ってる!」
「…………私に使うつもりですか?」
「ち、違う! 違う違う違う! こ、これは――」
「ただ溜まったから抜きたいと、どちらの陣営にも関係なさそうな適当なメイドなら金を詰めば黙っているだろうと、そんな思惑があったのなら――」
「な、なら?」
「この下半身についてるもの、もう要りませんよねぇ……」
長いスカートの中から取り出した抜き身のナイフをセドリックの下半身にそっと当て、ウィリアムは冷たい声で言う。
「た、頼む!! 昨日訓練から逃げたのは謝るから! それだけは許してくれ!!」
ほとんど泣きながら懇願され、「はぁ、」と溜息を漏らし手を止めた。――流石に王太子を衝動で去勢するわけにはいけないなと自制が働いたか、ナイフをスカートの中に戻すが、馬乗りの姿勢からは動かない。
「……この状態で立つって、ひょっとしてノア様、そっちのケがおありで」
「生命の危機を感じてんだよ! 今まさに!!」
「はぁ、そうですか」
「謝るから退いてくれ!! 頼むから! 本当に悪かった!!」
「仕方ないですね…………」
ウィリアムはようやくノアの上から退くと、付け毛とコンタクトを手際よく装着し、乱れたメイド服をぱんぱんと払って皺を伸ばす。
あっという間にメイドの姿に戻ったウィリアムは、頬をぎゅっと持ち上げると、凛々しき騎士の顔から、自信なさげなメイドの顔に変貌していた。
「……お前女装上手すぎだろ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「…………どうしてメイドなんてしてんだ」
「むしろこっちが本業なんですか」
「そ、そうなのか!?」
「騎士はついでですよ。王家に接触するにはそっちの方が都合が良さそうだったので。もっともあぁも早く国王様より接触されるとは思っていませんでしたが」
「…………」
ノアは言葉を失った。近衛騎士団は、そんな生半可な覚悟で入れる場所ではないからだ。
圧倒的な才のある者が、生涯を剣に捧げるだけでは上り詰めることが許されない、王のための剣――それが近衛騎士である。
故に、ノアはウィリアムの言葉を完全に信じているわけではない。
それでも、たしかに中性的だとは感じていたウィリアムがあぁも完璧に女の姿になれるのかと、驚きを隠せていなかった。
ウィリアムがノアの剣を指導するようになり、半年が経った。
とはいえ、未だ剣すら握らせず基礎体力をつけるための走り込みであったりトレーニングを施している最中で、あまりの地味さにノアが定期的に色々な理由をつけて逃げ出しているのだが――
最初はウィリアムもノアを追いかけ無理矢理特訓させていたが、近頃は諦めたのか、ノアにやる気がない時は適当に追いかけるのを中断し、逃がすようにしていた。
ノアは、はなから自分が騎士レベルに戦えるようになるとは思っていない。それはウィリアムにとってもそうだ。指導員として雇われてはいるが、実際の役割は護衛であろう。
――恐らく、過去に自殺したという指導員は、自殺ではなくリオノーラ陣営に殺されたのだ。逃げ出したという指導員も、ノアの傍に居ると暗殺されると気付き、理由を付けて城を去ったに違いない。
「メイドの中に暗殺者でも居たらどうするつもりなんですか」
「…………そ、それは」
「そんな頻繁に手を出してたら流石に狙われますよ」
「……知ってる。毒の耐性もついたからな」
「…………既に暗殺されかけてんじゃないですか。そうまでして女を抱きたいもんなんですかね、私には全然分かりませんけど」
「男にはそういう時があるんだよ……」
ウィリアムは「はぁ」と生返事を返すと、ノアの下半身に目をやった。
流石に落ち着いたか、先程まで屹立していた立派な山はそこにはなかったが、切れ味の良さそうな視線に気付いたノアが、慌てて下半身を手で覆い隠す。
「女を抱きたいだけなら、こっちで都合が良いのを探しますが。口が堅くてどちらの陣営にも所属してないのを」
「あ、いや、そういうんじゃないんだが……」
言い淀んだノアに、ウィリアムが呆れ気味に返す。
「じゃあどういうのなんですか」
「…………同じ女を、二度抱く趣味はない」
ノアの口から出た暴論に、ウィリアムは眉をひそめ「……あぁ?」と返す。
「なんですか、何も知らない初物にしか興味がないとか、そういう癖をお持ちで?」
まさに図星だったか、ノアは黙って顔を逸らした。
それを見たウィリアムは大きな溜息を吐くと、「めんどくさっ」と小さく呟く。
普段のノアならば即座に「不敬だ!」と叫び散らかすような状況だが、半年ほどでウィリアムの性格に慣れてきたノアは、申し訳なさそうに顔を逸らしたままだ。
「本気で王になりたいなら、今すぐ剣でも握って父王様を刺すだけで終わるでしょうに」
「……それをしても、母上が実権を握るだけだろう。あちらの手足を削がない限り、父を殺しても王にはなれない」
「それが分かってんのに、なに女遊びに夢中になってるんですか」
無力だからだ、と言いたげな表情で、ノアは小さく溜息を吐いた。
自分の行動によって何が起きるかは分かっている。彼は無知蒙昧な愚者ではないのだ。それはそうとして女癖が悪いのは事実だし、それを否定する気もないのだが。
「なぁ、ペリドット」
「なんでしょう、ノア様」
「お前は、どうして俺に協力する?」
「……はて」
ノアは、それを聞いていなかった。
母に謀殺されたくない。それなのに、王を狙う野心があるという二律背反を抱えたノアは、何を想って王を目指すのか話してもいないというのに、ウィリアムはそれを外に漏らそうとしないし、それどころか協力する姿勢まで見せている。
上手く活用すれば、どちらの陣営においても有利に働くというのに、どうしてかその情報を活かそうとはしていないのだ。
「あぁ、そういえば話してませんでしたか」
ウィリアムが話さないから、聞いてはいけないことだとノアは思っていた。それなのに、ウィリアムは忘れていたと言わんばかりのあっさりとした表情で答える。
「ちょっとね、恨みがあるんですよ」
「……父にか? それとも――」
「どちらにも、です。なので、出来るだけお二人には不幸になって頂ければと思いまして」
「…………」
「あ、でもノア様には別に何の恨みもありませんよ。あの女が子を成していたことすら知りませんでしたからね。血が繋がってるというだけで、見知らぬ人を恨む気持ちはありません。目的のためにはあなたを擁立するのが一番都合が良さそうなので、そうしているだけです」
ウィリアムは、ノアに隠し事をしている。それにはノアも気付いている。
まだ語らぬということは、今はきっとその時ではないのだろう。
ノアは少しだけ寂しい気持ちになったが、自分も未だに王を目指す理由を語っていないので、どっちもどっちだな、と頷いた。
「……俺は、捨て石か」
だが、だからといって、信用して貰えていないことを知り、ノアの口から漏れたその言葉は、きっと本心であったろう。
ノアは慌てて口を塞ぐと、自分がそんなことを悲しんでいたことに驚き、苦笑する。
「えぇ、でも都合が良い限り、私はあなたの味方ですよ、ノア様」
「……そうか。やはりお前みたいな男は好かんな」
「それは何よりです」
「褒め言葉じゃないんだが」
「好かれたら襲われるかもしれないので、好かれないくらいが丁度いいですね」
「いや男を襲う趣味はないんだが!?」
「私ついさっき襲われかけたんですけど」
ノアは「ぐっ……」と悔しそうな顔でウィリアムから目を逸らす。
ウィリアムのメイド姿――あれはまさにノアをピンポイントに狙ったものだった。
当然、ウィリアムは偶然そんな格好をしていたわけではない。ごく自然な形でメイドとして王太子と接触するにあたって、彼が最も声を掛けそうなキャラクターを演じていたに過ぎない。
物心ついた時から母の書斎に入りびたり、様々な物語に触れてきたことで、自分の中に別の存在を生み出すことは、ウィリアムにとって容易であった。
――もっともそれは、今世の話ではないのだが。
「……恨みというと、あれか。左遷された親に関係しているのか」
「あぁ、その話ですか。別に、そちらはなんとも。毎日それなりに楽しそうにしてますし」
「そうなのか? てっきりあれで王族は恨まれてるものだと思っていたが」
流石にそれくらいは分かっていたかと、ウィリアムは「まぁ、」と頷いた。
20年前に行われた中央集権化において莫大な利益を得たのは、王都出身の一部貴族だけだ。割合で言うと、貴族全体の2割程度である。
それ以外の貴族はほぼ間違いなく収入は下がったはずだし、ウィリアムの父のように、これまで培ってきた技術が活かせない、全く別の仕事をする必要も出てきただろう。
だがそれはそうとして、父が王族への恨みつらみを愚痴ったり、側近たちが王族の悪口を言う姿など見たことがない。
彼らはそれなりに、ではあるかもしれないが、今の環境を存分に楽しんでいる。あれはきっと演技などではないのだと、ウィリアムは分かっていた。
「私の家は、貴族とはいえ騎士の家系ですからね。元からさほど裕福ではありませんよ」
「……近衛騎士団長だったと聞いたが」
「あぁ、鴉に調べさせたんですか。そうですねぇ、お陰様で私は鍛えて貰えたわけですが、近衛の給料聞いて驚きましたよ。なんであんなに安いんですか? 物価も上がったので給料も上がったと思ってたら、父に聞いてた20年前当時とあんまり変わらないんですけど、これってどういうことでしょう?」
「…………すまん、俺に言われても。昔と予算が同じなんじゃないか」
「そんなとこでしょうね」
あっさりとした表情で返すウィリアムは、そうは言っておきながらも別に騎士の給料が安いなんて思っていたわけではなかった。
むしろ、高すぎると感じたほどだ。だが、王に届く近衛という立場にありながら、この程度の報酬で済むということは、金でなく忠誠で人を選んでいる証明にもなる。
――まぁ、忠誠心とは真逆の存在を懐に入れてしまったことを知っている王族は、今のところノア一人ではあるが。
「その、指導料は別で入ってるのか?」
「頂いてますよ。多すぎるくらいに」
「その中には――」
「ノア様の護衛分も含まれているということでしょう? そのくらいは分かってますよ」
「……そうか」
「まぁ、誰かさんにはよく逃げられるので、護衛の任を全う出来てるとは言い難いですが」
「…………」
本気で強くなりたいなら、ノアは逃げない――かもしれない。いやあの男の子供だし逃げるかもな、とウィリアムは脳内で即座に否定した。
とはいえ、ノアは今年で二十歳。基礎体力から鍛えるにも限度があるし、せめて10年前なら違ったかもしれないが、今更強くするのはよほど熱意がないと不可能だ。
なんなら王族特有の膨大な魔力を活かして魔法を使えるようになった方が強くなるだろうなとは考えていたが、それを口に出したことはなかったし、人に教えられるほど魔法の知識はない。
「ノア様が鍛えないのは、リオノーラ様に警戒されないため――なんですよね?」
「ん、まぁそうだな」
明らかに面倒なだけだとノアは顔で語っていたが、それはそうとしてそう解釈してくれるならそれで良いかと、頷き返す。
「正直才能があるとは思えませんと国王様に伝えてありますので、別に気にしなくていいと思いますよ。成人してから本気で鍛えるのダサいとか考えて適度にサボってるだなんて、まさかそんな子供じみた思想で逃げ回ってるとは思ってませんし」
「思ってるよな!?」
「思ってません」
「…………まぁ、どっちでも良い。無駄だからな」
「無駄、とは」
「俺がどれだけ鍛えても、『夜叉』には勝てんだろう」
「夜叉――あぁ、ツクヨミ様のことですか」
ウィリアムは頷く。噂だけは知っている相手だったので、まぁそうだろうな、と頷きで返した。
クリーヴランド王国の『夜叉』。それは、王家最強の剣と呼ばれている騎士だ。
彼は近衛騎士ではないが、当時の近衛騎士団長――父と折り合いが合わなかったことで近衛を辞して一般騎士となり、紆余曲折を経て王妃リオノーラの護衛をしている。
曰く、大陸では作られぬほど珍しい曲剣の使い手だとか。
父も模擬戦以外で手合わせをしたことがなく、殺す殺されるの本気の死合をしてみないと本当の実力は分からないと以前話していた。
守る刃でなく、殺す刃――相手を効率よく殺すために磨かれた、東国における殺しの技術。それを最高レベルで会得している『夜叉』は、国内外で恐れられているらしい。
「お前なら、あれに勝てるのか」
「会ったこともないので、なんとも。まぁ――」
ノアは、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
王宮に暮らして20年。特に仕事のないノアは随分と暇だったので、近衛騎士の模擬戦を観戦していたことは数えきれないほどある。だが、ウィリアムほどに速い人間を、これまで見たことがなかったのだ。
そんなウィリアムなら、ひょっとしたら――。淡い期待を込め返答を待っていたが、ウィリアムの口から出たのは、ノアの想像していた言葉ではなかった。
「私ごときでは、手も足も出ないでしょうね」
「……そうなのか?」
「えぇ、近衛騎士団長をしていた父と、まぁ当時は互角だったと仮定しましょう。ですが、私が知っているのは領主をしていた父で、現役騎士の父ではありません。私はその父を相手に手も足も出ないのですから、20年間ずっと騎士を続けていた方に勝てる道理はないでしょうね」
「…………」
ノアは悔しそうに歯ぎしりをしたが、ウィリアムは悔しそうな素振りもなく、あっけからんとした表情のままである。
「――もっとも、勝つことは出来ますが」
しかし、ウィリアムがぼそりと呟いたその言葉を、ノアは聞き逃さなかった。
「今、勝てると言わなかったか?」
「ん、あぁ聞こえちゃいましたか。普通に戦ったら負けますよ。ただ、普通に戦わなければ勝てます」
「……どういう意味だ?」
「まぁ、裏技があるってわけです。あの方、リオノーラ様の男妾の一人ってことになってるんですよね」
「そうらしいな」
「相手が男で、枯れておらず、かつ何をしても良いというなら、私は大体勝てます。まぁたぶん、出来て一回限りですが」
「待て、全然分からん」
「時が来たら分かりますよ」
「…………そうか」
納得出来ないといった表情だが、それはそうとしてウィリアムに話す気がないなら聞いても無駄だなと、ノアは諦めた。
枯れているかが重要というなら、女の格好で攻めるとかだろうか。しかし、その程度で夜叉が靡くだろうか?
確かにメイド姿のウィリアムは、たいへんそそられる姿をしていた。だが自分の性癖が常人とはかけ離れていることを理解しているノアは、自分が好むタイプの女を他人が好むと思っているわけではない。
仮に夜叉がリオノーラに本気で惚れているとすると、好みのタイプは胸が大きく、快活で、いつなんどきも笑顔が溢れ、そして腹黒い、あの毒蛇のような女のはずだ。
しかし、ウィリアムのメイド姿はそれとは真逆――田舎から出てきたばかりで純朴な、都会にかぶれてない生娘である。流石にリオノーラとはキャラが違いすぎる。
あれが自分向けに作られた姿ということに気付いていないノアは、そんな見当違いの想像をしていたが――まぁ、当のウィリアムはそんな視線に気付いてか気付かずか、巨大な鏡で身だしなみを整えている。あえて部屋に入る前より綺麗に服を着直すことで、脱いだ後で着た風を装っているのだ。
――まるで、こうなるのが分かっていたかのような、慣れた仕草である。
「では、そろそろ怪しまれる時間なので失礼します」
「あ、あぁ」
「女遊びは、そろそろ自粛してくださいね。今回のメイドに本気で惚れたことにして定期的に呼びつけてくれたら、こちらとしても都合が良いのですが」
「…………お前にか」
「可愛いでしょう?」
鏡の前で顔でくるりと回って可愛らしいポーズ――ただし無表情で――を決めたウィリアムだったが、中身が男という先入観のせいで、(でもこいつ男なんだよな……)という感情がノアの思考を駆け巡り、「いやー……」と反論してしまったので、渾身の飛び蹴りを食らった。――寸止めだが。ところで飛び蹴りの寸止めとはどのような技であろう。
――本気で死ぬと思ったのは、5年ほど前にお手付きをしたメイドに毒殺されかけて以来初めてだった。
その時、ノアの胸中に溢れ出てきたその感情の名を、彼はまだ知らない。