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夕食には早すぎるが昼食にしては遅すぎる食事を終えると、側近らは湯あみに向かった。
食卓には私と父だけが残り、ようやく家族としての団欒の時間である。
地方では農民として食えなくなった者が野盗になることも増えており治安が悪化しているとか、塩の値段が徐々に上がっているとか、そんな業務報告的な話を終えると、父が安物の赤ワインを飲みながら小さく溜息を吐いた。
ハルフォード子爵領の治安が周辺に比べ悪化しないのは、ここが併合された他国の領地ではなく古くから王国の領地であったこと、父が王都で近衛騎士団長という身分を持ちながらも政変によって左遷されたと領民が知っていること、少ないながらも元騎士の常備兵が居ることが大きい。
左遷された他の貴族はそのような武力を持っていないことも多く、ガラの悪い傭兵を雇うことになる。
しかしその傭兵すらも貴族間で取り合いになるのだから、自称傭兵の山賊まがいまで居る始末。
そしてもっと問題なのが、強制的に併合された国や土地の農民たちは、王国に帰属意識も持っていないこと。
そうなると、領主は領民が爆発した時の抑えになれない。山賊まがいの傭兵を雇うための金銭欲しさに毎年上がり続ける税に、時折の不作に、特に理由なく上げられる人民税や麦税に耐えられず、領民が野盗に落ちるというわけだ。
「そういえばお父様、また縁談のお誘いが来ていましたよ」
「縁談? ……どっちにだ?」
「ウィリアム様です」
「…………」
どうせ気分が落ち込むことを言うのだから、既にテンションが低い時に言ってしまおう作戦は――どうやら失敗だったらしい。
干したレーズンを指先でぶちゃりと握りつぶした父は、大きな溜息を吐くと指を拭う。
「……メイベルには、本当に悪いと思っているんだ」
「いえ。跡継ぎが居ないというのは、やはりいかんともしがたいですね」
「たかが田舎の子爵家ごとき、俺の代で取り潰しでも構わんのだがなぁ……」
「ですが、後任の領主様が今ほど領民を養えるかというと、恐らく否でしょう」
父は苦い顔をして頷いた。
当子爵領は王都から離れており、また他家にはない武力がある。王都からの距離は国が続く限り変わらないが、しかし武力はあくまで当代限りのものである。
手の空いた側近らによって農民の子で志願者する者には剣や槍を教えているが、それはあくまで自衛レベルであり、騎士になれるほどの訓練ではない。山賊よりはマシ程度で、精々が野生の獣を追い払える程度。
抑止力となるには、相応の実力と、対人専門の訓練と、そしてなにより肩書が必要なのだ。――そのどちらもが、農民の子では決して手に入らない。つまりそれらは、当代のうちになんとかしないといけない部分である。
「来年はもうお披露目の年になりますが……どうなさる予定ですか?」
「…………」
ウィリアム・ハルフォード。彼がハルフォード子爵家における正式な跡取りである――存命であれば、の話だが。
ウィリアムは、死産であった。そして出血が酷く、母もその数日後に亡くなっている。医師の居ない地方では、然程珍しいことでもない。
父は、妻と生まれてくるはずだった息子、その二人を同時に失ったのだ。
だが、死産であったという事実は公表されていない。それどころか、父は『妻は出産後に亡くなったが、息子は無事生まれた』と国に虚偽の書類まで出してしまっている。
――きっと、認められなかったのだろう。理解は出来ずとも、意図は分かる。まぁ、その結果最近はかなり面倒ごとになっているわけだが。
10歳のお披露目と同時に婚約者を発表するというのは、出会いの少ない地方貴族では一般的である。そうでもしないと、優良物件を見つけることは出来ないからだ。
「お父様、男の子が生まれたら自分みたいな騎士にするんだって以前話してましたよね」
「……いつのことだ?」
誤魔化そうとしたのではなく、本当にいつのことだか分からないといった顔で父は問う。
「お母様が、私の弟を身ごもった頃です」
正直に答えると、父はガタリと音を立て椅子から立ち上がり、こちらを見た。
何を言っているんだお前は――そう言いたげな表情だ。
――そう、それは今から10年前。私が1歳の頃の話だから。
「覚えて、いるのか」
「はい。私を取り上げた助産師の顔から、今に至るまで、私は全て記憶しております」
父は、恐ろしいものを見たかのように表情を歪ませ、私のことをじっと見る。
生まれることが出来なかった弟のことを知っている。それを苦に母が自殺したことまで知っていながら、それを父には話そうとしていなかった。
時が来るまで、ずっと待っていたのだ。
「……ずっと、黙っていてくれたんだな」
父は、学がなくとも馬鹿なわけではない。私が話さなかった理由が、自分のことを気遣っていたというのを理解し、俯きそう呟いた。
「はい。その時が来たら、話そうと思っていたんですが……」
「その時――あぁ、メイベルが12歳になったら話したいことがあるって、俺が前から言ってたもんな。それを待っていてくれたのか」
都合よく解釈してくれたようなので、頷き返した。
「私はもうじき、貴族学校に入ることになりますよね」
父は「あ、あぁ」と頷いた。いきなり話題が変わったように思えたからだろう。
貴族の子は、12歳から6年間、王都の貴族学校にて義務教育が施される。
とはいえ、物価の高い王都に子供全員を6年間住まわせるほど金銭的余裕がない家もあるため、義務であって強制ではなく、通わなかったところで罰則もない。まぁ、王都住みの貴族であれば妾の子であっても通うらしいが。
「エリスと同じペルシェ神学校に入れる予定だったが……、急にどうした?」
「となると、ウィリアム様がご存命だと、お父様と同じコルトー騎士学校になりますよね」
「……そうだな」
母が通っていたペルシェ神学校。騎士の子が通うコルトー騎士学校。そして由緒正しき血統を持つ貴族子息だけが入れるドラクロワ魔法学校の三校が王都では有名だろうか。
私立校が他にもいくつかあるが、入学金や授業料が高く、そちらは田舎貴族には中々辛い出費となる。
「お父様にお願いがあります」
この話の流れだ。私がどんな無理難題を吹っかけてくるか察し、身構える父に投げる。
「私に、弟につけるはずだった稽古を付けてください」
女騎士など、この世界には存在しない。女は騎士になれない法などはないが、騎士は男がなるものだから。
たとえ騎士の娘として生まれても、女である限り騎士にはなれない。普通ならば。
「騎士の家に生まれた子は、騎士学校に通うため幼少期から稽古を付けられると聞きます。少し遅くなりましたが、私を、――ウィリアム・ハルフォードとして育ててください」
「……これから、男として生きたいということか?」
「はい。お母様の葬儀は行われておりますが、領民の中でウィリアム様が死産だったことを知っている者はおられるのでしょうか?」
貴族の家に子供が生まれても、10歳の誕生日にお披露目されるまで子供を屋敷の外に出すことはほとんどない。王都のような都会で生まれたら社交界があるのでそうはいかないが、よほど大きな行事がない限り王都に出ないような田舎貴族であれば話は変わる。
「……居ても数人だな。過去にこの屋敷で働いていた者と、今も働いている者だけだ」
「では、その者の口を閉ざさせてください。ウィリアム様のお披露目まで、あと2年――それまでの時間で、弟が存在した証明を作りましょう」
弟が死産であったことを知っているのが、忠臣だけであることは予想していた。
貴族の家に足を踏み入れることの出来る領民は、ごく一部の雇われた者だけだ。
母の葬儀は行われているので、領民ならばそれを知っている。そして、死ぬ前にお腹を大きくしていたのを見ていた者も居ただろう。それだけ記憶に残せていれば充分だ。
「メイベルがそこまでしたい理由を、聞いても良いかな」
父が、口元に手を当てて問うてくる。
ごもっともな疑問だ。それでも取り乱したりしないあたり、元来は冷静な人なのだろう。――出生届の偽造という冷静でないことを、しばらく前にしてしまったわけだが。
「戦う術を身に着けたいというだけなら、騎士に――男になる必要なんてない。女であっても剣を教えることは出来る。ウィリアムは最近死んだということにして、葬儀をすればいい。跡継ぎのことなんて、メイベルが考える必要はないんだ」
女は剣を握るな、そういう思考の持ち主は多い。騎士を特権階級と捉えている者だ。
だが父は、そうではないらしい。成り上がりで、貴族の権利に興味がなく、貴族として敬られることに慣れていないからこそ、今の状況に耐えられている。
「……お、お父様のように、なりたいのです」
顔を赤くし、目を合わせないよう俯いてそう告げた。
唖然と口を開けた父は、煙草に手を伸ばそうとしてやめ、無精ひげの残る顎をぽりぽりと恥ずかしそうに掻いてから、「うーん」と天井を見上げて声を漏らす。
父は騎士であったことを誇りに思っている。自慢話をすることはあまりないが、今でも騎士として使っていた装備はいつでも使えるよう磨かれている。
領民が隣領まで買い出しに行く時にも護衛として着いていくのは、腕が衰えないようにしているからだと私は知っている。あとは単純に、領主業のほとんどは側近がやっているお飾り領主というのもあるが。
「騎士か、そうだよな、憧れるよな。カッコいいもんなぁ……」
父は私に答えるではなく、椅子にもたれ天井を眺め呟いた。その瞳は、まるで夢見る子供のようだ。
過去に自分がどのような気持ちで騎士に憧れ、騎士団長まで上り詰めたのかを反芻しているのかもしれない。
父ならば、そう考えてくれると思っていた。騎士がかっこいいから、騎士になりたい。そのような憧れは、平民として生まれた者ですら持っている感情だ。
「剣を覚えるのは女でも出来ます。ですが、騎士になれるのは男だけです」
「……そうだな」
「お父様ならば、私を近衛騎士まで育てることが出来ますか?」
「……出来る、かもしれない」
「お父様は、なれたのですよね」
「あぁ。血が滲むほどの努力をしたが、才能なんてこれっぽっちもない下級貴族の俺が、騎士団長になれた。それだけは、間違いない」
この時代は違う。農民として生まれたならば、一生農作業をして生きるほかない。領主の家に生まれたならば、それを継ぐために教育を受けるべきだ。けれど私は、騎士の家で生まれ育っている。性別の壁さえなければ、騎士になるのに何の不都合もない。
「私のこれからの人生を剣に捧げます。お父様、私を騎士に育てて下さい」
頭を下げ、反応を待つ。
明らかに迷っている。女として育てた子が、弟の代わりに騎士になる。それはどれほど悩んでも悩み足りない、悪魔のような要求で。
しばらく俯き唸っていた父だが、「悪いな、エリス」と小さく呟くと、私に向き直った。
「一つ、条件がある」
「条件、ですか?」
父は指を一本立て、ゆっくりと深呼吸をした後、続きを口にする。
「これからの生涯をウィリアムに捧げることは許さない。お前はメイベルのまま、ウィリアムとしても生きるんだ」
「……それは」
「ウィリアム一人分じゃない。二人分生きろ。それが、お前を騎士にする条件だ」
「…………」
言葉に詰まり、一旦父から目を逸らす。
私は、これから男として暮らす覚悟を決めて、父にこの提案をしていた。だが、父の提示した条件はそれより遥かに難しい。
――燃えてきた。壁が高いほど、やる気が出るというものだ。
テーブルの下で拳をぎゅっと握り、大きく息を吐いて、答える。
「分かりました。女としての生涯を生きながら、男として騎士になれば良いのですね」
「……出来ると思うか?」
「やってみせましょう」
難しい。けれど、それは都合が悪いわけではない。むしろ私はどこか、こうなることを望んでいたのかもしれない。
私の本当の目的のためにも、父に言えない真実を隠し通すためにも、一人でなく二人分の名を持っていた方が良いことだけは間違いない。
「あぁ、その覚悟を受け入れよう。お前を騎士にすると約束する。……だが、近衛になれるかはウィル、お前次第だ」
父は亡き息子を愛称で呼び、椅子から立ち上がると、握った拳を口元に当てる。
――すると、父の手の中が光り輝いた。
眩さに目を細めるのとほぼ同時、父の手の中には宝剣が現れた。近衛騎士団長に任命された時に前王から賜ったとされている宝剣だ。
父の側近から存在だけ知らされていたが、屋敷で見たことがなかったので、てっきり騎士団長を辞した時に返したのだとばかり思っていた。どうやら、そうではなかったらしい。
そこにあって、そこにはない宝剣。どこか現実味のない薄い刃は、触れる全てのものを切り裂く、幻想的なまでの鋭さで。
父は私の隣に立つと、剣の先を向ける。騎士が主から賜った剣を他人に向ける意味を、私は知っている。
『命に代えても約束を守る』という、宣言に使うものだ。
父は、本気で私に向き合ってくれる。ならば私も、本気で返そう。
「父エルドレッドの名に懸けて、」
「……俺はまだ死んでないぞ」
「あら、それもそうですね。では、メイベルの名に誓って、ここに証明してみせます。この私に、不可能などないということを」
精一杯の笑顔を向け、父に宣言する。
「……うん、そうだな、それでこそ、私とエリスの子だ」
父は宝剣を異界に収納すると、私の頭を撫でてくれる。まるで、ようやく息子の頭を撫でることが出来た父親のような、いつもと違う少し強めの撫で方で――
「……なぁ、ひょっとして、メイベルが前から走り込みをしていたのは」
「ウォルトさんに教えてもらいました。剣を握る前にまず体力をつけるべきと」
そういえばと思い出したかのように聞いてきた父に、正直に答える。
屋敷で働く父の忠臣の一人、70過ぎのお爺ちゃんであるウォルトさんは、かつては騎士学校で先生をしていた人だ。
戦争で目を負傷し騎士を引退し、後に騎士学校で教師をしていたらしいが、父と同じように田舎の成り上がり者だったこともあり、政変の際に王都から追い出されている。
父と共に田舎に移り住み、屋敷で執事として働いているが、元々は父の恩人のような人らしい。
「……騎士になりたいこと、ウォルトには話してたのか」
「はい。……7年ほど前に」
「まだ5歳の頃じゃないか……前から元気な子とは思ってたが……」
娘が突然走り込みをしたり筋トレをしたり――、これまで奇行にようやく合点がいったのか、父は頭を抱え溜息を吐いた。騎士に憧れているという思い込みに、どうして気付けなかったのかと考えているのだろう。
まぁそれは単純な話、私が父にだけは絶対にバレないようにしていたからなのだが。
12歳の誕生日を迎えた夏、私はハルフォード家長女メイベルでありながら、2歳下の弟、ウィリアムとして生きることを決めた。
この選択が正しかったのかは、――今はまだ、分からない。