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アシュリーが繋がれた牢の衛生状態は最悪で、ベッドは錆びた枠組みだけ、そこにはトイレすらなかった。
水も食事もなく、死人も汚物も放置されたその牢に閉じ込められていたアシュリーは、たった7日で命を落とす。
彼女が獄中で死亡したとの報告を受け、躯を回収に来た男が一人。
「あぁ、アシュリー……遅れてすまなかった」
グレン・ブラッドフォーン。アシュリーの生家であるブラッドフォーン公爵家の若き当主である。
その瞳は異性だけでなく同性すらも魅了する魅惑の瞳で、彼に見つめられた者が気が付くと一夜を共にしていた――なんて噂が社交界で囁かれるほどの美丈夫。
彼はアシュリーの躯を抱き締め、「愛してる」と呟くと、無秩序に書かれた壁の落書きに目をやり、牢の看守を睨みながら牢を出る。
「犯人は……あの女か」
牢を出たグレンは、そう小さく呟いた。
帝国由来のプラチナブロンドの髪を持つ女。バイロンの娘というのも眉唾だ。
何せバイロンに帝国に縁のある妻や妾は居ないし、アシュリーの遺言によるとメイドにも、愛妾にも居ないらしい。
流石に行きずりの娼婦までは覚えていないようだったが、かなり出自が怪しいことだけは間違いない。
「……君は、何を考えていたんだろうな」
遺体を馬車に乗せたグレンは、小さく呟いた。
アシュリーは、こうなることが分かっていたはずだ。
クーデターの計画も、王太子セドリックが誰かに操られているであろうことも、グレンは以前からアシュリーから聞かされて知っていた。
なのにアシュリーは、自らの身を守るでもなく、ただひたすらに突き進んだ。親玉を引き付けるため、まるで、間近に迫る死から逃げないことを覚悟したかのように。自ら囮になって、他人の手で幕引きをされるように。
「スラムの環境改善計画に、王宮の雇用改善、報道と王宮の関係――あぁ、あとは何があったかな」
小さく呟きながら自ら馬車を操作するグレンは、アシュリーがこれまでしていたこと、これからしようとしていたことを思い返す。
グレンとアシュリーは異母兄妹だ。生まれた場所も育った環境も違うし、両親から二人に向けられた愛情は等しくなかった。
だが、それでもグレンはアシュリーを愛していた。唯一の妹、大切な妹、嫁にやりたくない、目に入れても痛くない妹――
そんな妹を陰謀で殺されたグレンは、周囲の人間が驚くほど穏やかな顔をしていた。
「反王政派貴族ということにされてしまった我が公爵家の手足は捥がれてる。だから――しばらく潜ることにするよ」
眉目秀麗なグレン自ら馬車を操作していれば人目に付くはずなのに、どうしてか民衆は馬車に道を譲るがグレンのことを意識していない。
少々女癖が悪いと社交界で噂にされるが、そんな程度。彼のことを知らない民衆でも、普段ならば目で追ってもおかしくはない。
しかし、アシュリーに話しかけるように呟きながら馬車を走らせるグレンは、誰の意識にも入らなかった。
「私は最後まで、君のことが分からなかった。だけどそれは――ううん、それを言い逃げすると、君は怒るだろう。だから、この言葉だけ残す」
涙が一滴、空を舞う。
それは、グレンが最後に見せた弱さ――家族に対する情であった。
「ありがとう。――あとは、お兄ちゃんに任せておけ」
馬車は走る。国の最果て――ブラッドフォーン公爵家へと。
クリーヴランド歴279年。
ブラッドフォーン公爵家の若き当主グレン・ブラッドフォーンは、領地にある広大な森に妹アシュリーの亡骸を埋めると、これまでの少々派手な言動を控え、その後は表舞台に現れなくなったとされている。