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泡沫・四

 お母様は、私が女であった為に正妻でありながら軽んじられると、気に障る事があればすぐさま私を折檻されます。

 お父様は、娘は跡継ぎとはなり得ず役に立たないと、外腹の弟を可愛がって滅多にお帰りになりません。

 音楽を学びたいと願っても、無駄な事と嘲笑されました。

 使用人達は、お母様のご機嫌を損ねる事を避ける為に私を無視します。

 婚約者は、資産家のお嬢さんを迎える為にお前は邪魔だと去りました。

 頑張りました。

 知性も教養も決して家名を汚さぬように、人に劣らぬように少しでも人より勝るように。

 後ろ指さされる事のないように行いも正しく、人に迷惑をかけることないよう。

 怒られるのは、切り捨てられるのは、無視されるのは、全て私が至らぬ所為だといっそう努力して。

 出来る事を出来る限りに、頑張りました。

 けれども、私には誰もいませんでした。

 私には、何もありませんでした……――。


 ◇◇◇◇◇


 ――最初に緋紗子と会ったのは、今日のように月が明るい夜だったと、『繭』を前に額に角を持つ青年は記憶を巡らせていた。


 誰もいないと思い訪れた場所。夜闇に支配された離れの古びたピアノの前で、彼女は、そこに静かに佇んでいた。

 泣き腫らした目が痛々しい彼女は驚く事も、怯える事もしなかった。小さく首を傾げると、真っ直ぐな眼差しを向けて問いかけた。


『あなたは、どうしてここに?』


 青年が人ならざる事は何も無い空間に不意に現れた事からも、額にある一対の角からも知れようもの。

 けれど、人の娘の瞳に恐怖が宿る事は無かった。


『友を尋ねてきたのだが……』

『ここにいらした伯父様のこと?』


 十年前、この離れには一人の男が暮らしていた。

 始まりの鬼の在り方に触発され、人に紛れる事を覚えて暫くした頃に出会った男だ。

 当主の兄でありながら病弱さ故に家督を早々に放棄し、日々を趣味に費やしていた変わり者だった。

 書を愛し音楽を愛し見えぬ不思議を楽しんだ男は、鬼の訪れすら喜んだ。

 数多いる人間の中において、唯一友と思えた存在だった。


『五年前にお亡くなりになったわ』

『そうか……たった十年会わないだけで……。人間は儚いな……』


 友の訃報は哀しかったが、目の前にいる娘に興味が湧いた。

 美しい娘は、鬼を露程も恐れなかった。かつての友のように、笑いかけてくれすらした。

 曰く『生きている人のほうが余程恐ろしいから』と事である。

 娘は鬼に名乗る事も躊躇わなかった、故に鬼もまた『紅焔(こうえん)』という真の名を彼女に与えた。


 緋紗子は、夜毎離れに現れた。

 ピアノを習っていたけれど、そのピアノは処分されてしまった。それでもピアノが弾きたくて、こうして忘れ去られた古ぼけたピアノを弾きにやってくる。

 かつて友がそうしたように、紅焔に曲を奏でて聞かせてくれる。調律されていないピアノの音はいささか狂っていたけれど、紡がれる旋律は美しかった。

 何時しか、緋紗子の奏でる音色に浸るのが一番の楽しみになっていた。

 ピアノを弾いている時、彼女は幸せそうな顔をする。それを見るのが紅焔は何よりも楽しいと思った。


 緋紗子は、訪れる度に新しい傷を負っていた。

 多くを語りたがらない娘ではあったが、その言葉の端々から母親の鬱屈が牙をむいた結果である事は察せられた。

 母は己の不遇を娘が女であるせいとして激昂しては叩き、父親はそれを見て見ぬ振りをして男子のいる妾宅に入り浸り。使用人達は保身のために、無視を決め込む。

 緋紗子はそれでも自分を責めていた。自分が至らぬ所為だから、努力が足りぬからだと。

 彼女は、学業にも習い事も嗜みも全力を以てあたり、使用人にすら心を砕いて迷惑をかけぬようにと振舞いに気を付けた。

 それでも変わることないどころか、その夢すら断った者達に紅焔が怒りを必死に殺していたある日、緋紗子は表情失くしたまま現れ告げた。

 婚約を反故されたという。

 少し家中に探りを入れてみたならば、相手方がより財を持つ相手へと乗り換える為に緋紗子を切り捨てたのだと知れる。

 それを父母が、お前が至らぬ所為だと咎のない緋紗子を責めて罵っている事もまた。

 評判に傷のついた娘など厄介な荷物とばかりに適当な相手にくれてやろうとしていると聞いた時、紅焔は彼女を連れ去ってしまおうかと考えた。

 けれど、それを為すか否かを考えていた間に悲劇は起こってしまった。鬼は逡巡した事を悔やんだ、迷わず攫って隠してしまえば良かったのだと。


 彼が駆け付けた時には、辺りはもう一面炎に包まれていた。

 床には夥しい血を流しながら、俗物共が倒れている。

 その傍らには、手を赫に染めた緋紗子が逃げる様子もなく、茫然と立ち尽くしていた。

 認められたかった、愛されたかった、ただそれだけだったのにと緋紗子は最期に泣いていた。

 そして、陽炎のように揺らめく焔に照らされながら、血塗れの刃を自らに突き立てる。

 言葉を失う鬼の前で、娘は血飛沫をあげながら倒れ行く。温もりが失われていく身体に必死に魂を留めようとしながら鬼は悔やんだ、どうして告げなかったのかと。

 始まりの鬼がそうだったように、彼の人が唯一人と定めた人の娘に告げたように。

 何故『愛している』と伝える事が出来なかったのかと、鬼は己を責めた。

 こんなにも、この人の娘を求めるようになっていたというのに、大切に想うようになっていたというのに――。


 この世から翔り去ろうとする魂を留める事には成功したけれど、緋紗子が瞳を開くことはなかった。

 目覚める兆しのない彼女を守る為、紅焔は繭を作りあげた。

 彼女が在りし日の館に暮らす夢、けれど現実には有り得なかった幸せに満ちた夢に揺蕩う事が出来るように。

 せめて仮初の中であっても、彼女が幸せと笑ってくれるように……。

 そうして、元々存在していなかった蘇芳という名の『兄』として彼女が微睡むのを見守り続けてきた。

 しかし、それも限界が来ている事を察していた。

 繭の中には何時しか歪が生まれ、それを絡めとりながら時間は巻き戻り進みまた巻き戻っては進みと、今まさに揺らいで崩れ始めている。

 生じる綻びは都度修正してきた、けれどももう限界を迎えてしまった。

 少女は、目覚めつつあるのだと鬼は悟る。

 彼女は何と言うだろう。

 最初にその唇から紡がれるのは、願いを無視して命を繋いだことへの怨嗟だろうか、罵倒だろうか。それとも……。

 紅焔には、伝えたい言葉がある。


『俺は緋紗子の笑顔が一番好きだから』


 脆く儚い泡沫の繭において、それだけは揺らがぬ真実であったのだから――。




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