導入
受験期に書いた文ですねぇ。勉強から逃れたかった。
お焚き上げですが、数人でも見てくれたら嬉しいです。
2017年4月21日
「君は本当に牡丹が好きだね。どうして?」
鉢の牡丹に水をやっている彼女の後ろ姿に尋ねてみた。色白で華奢な彼女には、牡丹と同じ色のニットワンピースがよく似合っている。
「私の花だから」
牡丹の一字は彼女の一部だった。
「名前に入っているからか」
「それもだけど。牡丹てね、百花の王なんだって。私にピッタリでしょ」
あまりに的を得た話に笑ってしまった。彼女は僕にとっても、彼女を知るほとんどの人間にとっても女王だった。それならば、確かに牡丹は彼女のための花だろう。
「ああ、ピッタリだ」
いくつもの牡丹が置かれたこの部屋には爽やかで甘い香りが漂っている。牡丹に香りはほとんどないと聞くが、僕ら二人には十分な香りだった。
また今度新しい牡丹でも買おうか、そんなことを考えて、彼女を眺める。
「それにしても、花と言えば女性を思い浮かべるのに、牡丹は女王じゃなくて王なんだね。不思議だ」
彼女は口が細いブリキのじょうろを置いて振り返った。
「女でも、男でも王様なの」
自信に満ちた笑顔は神でも魅了されただろう。この笑顔が、今は僕だけのものだった。ああ、これが幸せだった。
(彼女が男なら、僕は女になったんだろうな)
何があっても、運命が僕らを引き寄せる。近くにいなければ、僕が彼女を探しただろう。もし同性だとしたら、僕が姿を変えただろう。
僕は彼女のものだった。これからもずっと。
***
2023年7月24日、20時頃、東京都新宿区の飲食店にて、従業員一名が男
にナイフで刺され、病院に運ばれましたが、その後、死亡が確認されました。
容疑者は24歳公務員の真野光治。被害者となったのは飲食店従業員の高峰丹愛
さん。高峰さんは動画配信者としても活躍しており、今年に入ってからは、バラ
エティ番組などにも出演していました。警察は動機を男女関係における痴情のも
つれと見ており……
手を伸ばしてリモコンを取り、テレビの電源を消す。薄暗い部屋に沈黙が揺蕩う。薄いカーテンは昼間だとどうしても光を通してしまう。
微かな光も遠ざけたくて、夏だというのに分厚い毛布を被る。
悲しい。悲しい。なんで。悲しい。悔しい。殺してやる。悲しい。丹愛さん。悔しい。ベットの中は、暗い思いで溢れている。それでも、眩しい光よりは心地良かった。
まだ一日も経っていないのか。そんなことに気が付いて絶望を感じる。世界は、大事なものを失ったというのに呑気なものだ。
悔しさと悲しみと怒りが腹の中を食い荒らす。うごめき、のたうち、暴れまわって仕方がない。ベットの横に置かれたバケツを手繰り、何度目かわからない胃液を吐く。昨日から何度も彼女との出会いを思い描く。出会って、教えを乞い、愛して……最後は殺される。
「グブッ」
もう一度胃液を吐いた。わたしの中で、何度も、何度も出会いを繰り返し、何度も何度も彼女は殺される。脳内で何度も彼女にあの屈辱を味合わせてしまう。許されない。それでも、思い出さずにはいられない。
ごめんなさい、丹愛さん。ごめんなさい。
あの報道を見た人たちは、丹愛さんをどう思うだろうか。あんな情報じゃ、丹愛さんの素晴らしさは何も伝わらない。男にだらしない女で、殺されたのは自業自得だと思うのだろうか。それとも、やっぱり水商売なんてくだらないと、彼女が愛した仕事を笑うだろうか。そんなこと起きてはいけない。
ああ、もうすぐ外に出ねばならない。丹愛さんが存在する、わたしの世界から出ていかなければならない。
お通夜も告別式も、手続きを全て宮地に押し付けてしまったのだ。本当は私も手伝いたい。けれども、わたしの様子を見た宮地に帰れと言われてしまった。だから、せめて、丹愛さんに挨拶はしなければ。
のろりと身体を起こし、準備をする。喪服なんて持っていないから、母に急いで買ってきてもらった。申し訳ないが、買い物に出る気力などなかった。
階下に降りて洗面所に向かい、洗面台で顔を洗う。メイクをする気力もないが、成人女性としてマナー程度の化粧をした。鏡を見て驚いた。酷い顔をしている。
葬式というのはいきなり必要になって、少しの時間で全てを終わらせなければならない。死を惜しむ式のはずなのに、しみじみと死を悼む時間もないのだから皮肉なものだ。
葬儀屋が渡してきた書類を事務所で読みながら溜息を吐く。
時計を見やると短針は4の字を指している。もう、こんな時間か。あと二時間もすれば通夜が始まる。
書類を机に置いて、椅子にもたれながら目をつぶると、じわじわと目の辺りに熱さが広がる。重力を持ったみぞおちが全身を地面に引き寄せる。横になりたいがそうもいかなかった。
時間が無くて、昨日から服を着替えていない。
疲れ果てた心身に見合わない、ライトグレーのスーツ。明るさが目ざわりだったが、それで片付けることもできなかった。
普段は絶対に選ばないようなグレーにウィンドウぺーン。丹愛と同じ色味の赤いタイとハンカチ。全て丹愛が選んだ物だった。全部脱ぎ捨てたいが、永遠にこれを着ていたい。
喪服があって助かった。なければ、動くこともできなくなるところだった。
丹愛の親族は見つからなかった。役所に問い合わしても、戸籍の父母はとうに死んでいた。先ほど丹愛に祖父母がいることはわかったが、一日では居場所どころか連絡先もわからない。
祖父がいる、ということさえ丹愛の高校時代の友人を見つけて、ようやく分かったのだ。
丹愛の友好関係はほとんど謎に満ちていた。そんな状態だったから、葬儀は俺が行うことになった。夏場で死体は痛みやすいから、早く処理する必要があったし、なによりも、丹愛はもういないのだ。それなら、早く楽な身体にしてやりたかった。
親族もいなければ、誰を通夜に呼べば良いかもわからない。とりあえず、クラブの希望者とスマホから仲が良いらしい人間を見つけて部下に連絡をさせた。
勝手にスマホの中を見るのは気が引けたが、どうせ死人に口はない。一応、連絡アプリしか見ないように注意するよう伝えた。
告別式は明日が良いだろう。明日は元々バースデーイベントの最終日で土曜日だ。昨日よりも大勢の客が来て、沢山のシャンパンタワーが立つ予定だった。
……俺が注文したタワーも明日立つはずだった。他の客より目立つ訳にはいかないから小さめのタワーだったが、丹愛は随分喜んでくれた。今日も会えるはずだったのだ。
まだ、丹愛が死んだ実感などない。目を閉じれば丹愛の笑った姿が思い浮かぶ。だが、目を開いてもそんな姿は一生見ることができない。
目が熱くてしかたない。