2-4
(どうしよう、さっきから心臓が早い)
店を出た後もクラルは手を放さず、無言で街の中を引っ張って行く。
妙な気まずさに胃を掴まれたような感覚に陥り、先頭を行くクラルの歩く速度が早いこともあって、ユアの息が僅かに上がる。
声を掛けたかったが、一体なにを言えば良いのか皆目検討がつかない。
為す術がなく、手を引かれるがままに大通りを抜け、先ほど二人で巡った道を横切り、ついには誰もいない建物と建物の間の小さな広場へと出た。
「……さっきの」
「は、はいっ」
広場の真ん中で足を止めたクラルが呟く。
「どこまで……聞いていた?」
どういう意味か、というのは訊ねなくてもわかる。
ただ、抑揚のない低い声は感情が一切見えず、彼がなにを求めているのか、なにを言ってはならないのかが掴めない。
「ねぇ、ユア」
振り返ったクラルの顔を見て、言葉を失った。
額に落とされた陰が色濃く染まり、その隙間から赤く冷たい視線が無表情にユアを見下ろす。
(どうしよう、なんて返そう)
幼馴染みの知らない表情に怯んでいると、クラルの両手が伸びユアの顔の輪郭を捉えた。
ぴくりと反応するユアに一切構わず、クラルは手に力を込める。そして、
「ユア、答えて」
クラルの顔が徐々に近付き、ついに吐息が掛かるほどまで距離を詰められた。赤い瞳に射抜かれ、目が逸らせない。
「ユア」
ポツリと呟く、クラルの瞳の奥が僅かに揺れる。
(吸い込まれそうなほど深い赤)
その瞳を見つめている内に、過去の、小さなクラルの姿と重なった。
「――もしかして、傷付きましたか?」
「え……」
ユアの言葉に、クラルの手の力が緩んだ。瞳の中に動揺の色が浮かぶ。
「突然なにを言って……ちょっと、どこ行くの」
クラルの手からするりと抜け出したユアは構わず踵を返す。
「店に戻ります」
「……はっ、え?」
訳がわからない、といった様子のクラルに、ユアは無表情で口を開く。
「先ほどの女性の言葉で傷付いたのなら、私も黙っていられません。謝罪の言葉を要求してきます」
すたすたと前を行くユアの背中を呆けた顔で見つめるクラルだったが、
「……いやいやいやいやっ!」
事の重大性を理解した途端、大慌てでユアの肩を掴んだ。
彼女の予想外な動きにどっと冷や汗が流れる。
「いやもう全っ然気にしていないから、ユアがわざわざ出向くほどではないよ」
「――何故? エイベルト様にそのような顔させられて平常心でいられるほど落ちぶれていませんよ私」
無表情だと思っていたユアの顔には静かな怒りが浮かんでおり、目は恐ろしいほど据わっている。
このままでは本当に衝突しかねない、と察したクラルは、再び歩き出そうとするユアの手首を咄嗟に掴んだ、が。
「わかったからまずは落ち着こう……って思ったよりも力あるね君!」
ずるずるとユアに引きずられるクラルの叫び声が広場中に響き渡った。
「……落ち着いた?」
「不燃焼ながら」
広場内のベンチに腰をかけ、恐る恐るクラルが訊ねると、膝の上からユアのぶすっとした返事が返ってきた。
あの後、荒ぶるユアを力ずくでなんとか引き留めたは良いものの、一向に怒りが収まる気配がなく、手を放せばすぐにでも駆け出して行きそうだったため、やむを得ず闇魔法の一つ『影縛り』で手足を縫い止め、膝の上に乗せて落ち着くまで必死に宥めていたのだ。
「――全く、どこの騎士様かと思っ……ぷぷ」
「エイベルト様?」
急に噴き出したクラルに、ユアは眉を潜める。
しかしクラルの笑いは治まらず、肩を小刻みに震わせながら喉を鳴らした。
「くくっ……本当に参ったなぁ、ユアには」
「笑い事じゃありませんよ! エイベルト様はなにも悪くないのに見知らぬ人に嫌な思いさせられて!」
とうとうユアは声を荒げた。
墓守という表面的な情報だけでクラルの人となりを測り、他にも客がいる中、大きな声で下品な言葉を投げ掛け、あまつさえ大切な幼馴染みの心を傷付けたのだ、黙っていられるわけがない。
しかし、当の本人はこれだけ嫌な思いをしたにも関わらず、すっかりころころと笑いこけている。
「確かに……ふふ、嫌な思いというか、心情はすこぶる複雑だったよ」
「じゃあ――」
「いつも君に助けられてばかりだ」
クラルの思いもよらない一言にユアの目が見開かれた。
「……え?」
呆気にとられているユアの手足にかかった影縛りを解き、ベンチの隣に座らせながらクラルは続ける。
「小さい頃――まだ墓守が世間から忌み嫌われていた時も、ユアは僕を救ってくれた。墓守だからといって遠ざけたりすることもなく、必要以上に憐れみを向けることもなく、ただ、一人の人間として接してくれたね。それが僕にとってどれほど心強かったか。そして、今も」
クラルの言葉に、先ほどまでの怒りがしゅるしゅると音を立てて萎み、代わりに不甲斐なさがどっと押し寄せ、小さな声となって口から溢れる。
「そんな、昔の話……。それに、私は、もうずっと、エイベルト様に助けられてばかりで……」
だから、もしクラルが誰かに傷付けられたら助けたかった。無力かもしれないけれど力になりたかった、それなのに。
ままならないことが続きシュンと項垂れていると、横からクラルの驚いたような声が降ってきた。
「――君は、そんな風に思っていたのか」
頭を上げると、片手で額を覆い顔を背けるクラルの姿があった。
「エイベルト様、どうされました?」
ユアの問いかけにクラルの肩がぴくりと上がる。
「ごめん、不謹慎だとは思うけど、その……嬉しくて。いや、他意はないんだけれど」
額を覆う手がゆっくりと口元に移動し、目元が少しずつ露になる。
「ちゃんと、ユアの助けになれていることがわかって……」
よく見ると、頬から耳にかけてほんのりと色づいていた。
「顔、真っ赤ですよ?」
「し、しょうがないでしょ、僕だってユ……誰かの頼りになりたい時くらいあるんだから!」
顔の赤さを指摘され慌てて取り繕うクラルに、ユアの口角が自然と緩む。
「とても頼りにしてますよ。昔から、ずっと」
クラルがいなかったら、きっと今頃は、ラース学園に入学することもなく、こんな風に怒ったり笑ったりすることもなく、国の命に従い飼い殺しにされながら、一人孤独な人生を歩んでいたかもしれない。
しかしクラルは「それはどうだろう」と否定する。
「僕は、ユアが思っているほど"良い人"ではないよ。むしろ昔は、今よりももっと臆病で、ネクラで、皮肉屋で、墓守の印象をギュッと濃縮したような人間だったから、頼りがいがあったかどうかなんて……」
その先の言葉が続かなかった。
突然ユアに両手を握られ、驚きのあまり声が出なかったのだ。
強く握りしめたまま、ユアが口を開く。
「エイベルト様が、臆病で、ネクラで、皮肉屋な性格だったかなんて、私にとってどうでも良いことでしたよ。それよりも大事だったのは、もっと根っこの単純な部分……」
ゆっくりと手をほどかれ、クラルは気付いた。
手には、黒い羽の飾りが付いた栞が握られていたのだ。
「……ユア、これは?」
「本当は、会ってすぐにでも渡したかった。けれど、こんなものでエイベルト様への日頃のお礼になるのかわからず、なかなか渡せませんでした」
気まずそうに目を伏せながら、ユアは昔の話を口にする。
「覚えておられますか? 昔、黒曜カラスの巣を運んだ時のことを。あの後、一度だけ彼らが訪ねてきたことがありまして。この羽は、その時にもらったものです」
「……」
反応がないクラルに焦りを感じはじめ、徐々に口数が多くなっていく。
「授業で、魔鉱石には魔力を宿す力があると聞いて、その……私のなけなしの魔力を精一杯込めて栞にしました。暗闇で淡く光るので、夜の読書のお供になれば、と思い――」
話の途中で突然、横からクラルに抱きしめられた。
力強い包容に思わず身を固くする。
「エイベルト、様?」
名前を呼びながら表情を窺おうとするものの、後頭部を押さえつけられ頭を動かすことは叶わず、今クラルがどんな顔をしているのか、ついに分からなかった。
「……ごめん、色々と限界。ズルいなぁ、こんなの」
抑揚のない声で「ほんとズルい」や「なんなのこれ」などとボソボソ呟くクラルだが、今回は確信を持って言える。
「――それは、喜んでもらえた、ということでしょうか?」
ユアの問いかけに応えるように、腕の力がギュッと強まり、やがて掠れた声で囁いた。
「一生大事にする。肌身離さず持ち歩く」
一瞬、呆気にとられたユアだったが、すぐさま苦笑を浮かべ、
「ちゃんと使ってくださいよ」
と念を押した。