2.黒曜カラス
目を閉じれば、いつだって昔のことを思い出す。
そう、あれはまだ、例の事件が起きる前の、二人の距離が今よりも近かった頃のこと。
ある日クラルは町外れの墓地で闇魔法の練習をしていた。
一息ついて、ふと顔を上げると、町の外へと繋がる小道を歩くユアの姿を見つけた。
町の外に一体なんの用事だろう、と思い、いつものように話しかけ、言葉を失った。
「ユア……なにそれ」
ユアの細い腕いっぱいに、羽や木の枝が編み込まれた謎の黒い物体が抱かれていたのだ。
「黒曜カラスの巣よ。親鳥にお願いして巣の場所を移動させてもらうの」
「こっ、黒曜!? 魔物の巣じゃないか!」
思わずクラルは大声を上げた。
その時頭上から、けたたましい鳴き声が聞こえた。
驚いて空を見上げると、二羽の黒い鳥が木の上でこちらを睨んでいた。
黒曜石でできた羽が擦れて固い音をかち鳴らし、日の光を反射して鈍く光る――黒曜カラスだ。
すっかり青ざめてしまったクラルの横で、ユアはのんきに笑いかける。
「大丈夫、こちらからなにもしなければ攻撃されないから」
「で、でも、魔物に近付くなんて危ないよ! なんでそんなことをするの!?」
危機感を全く感じさせないユアの言動に、クラルは声を荒げた。
そして、咄嗟の攻撃に反応できるよう、荒削りの魔力を右手に込め黒曜カラスと対峙するように体を傾ける。
クラルの魔力に反応し、黒曜カラスも羽を大きく広げ臨戦態勢に入った。
例え小さくとも魔物は魔物、人間よりも遥かに強い力を宿し、時には敵意を向け襲ってくることもある。
だから魔物の暴徒化によって国が滅びないように、多くの魔導師が国中を巡回し、必要あらば魔物討伐に向けて動くというのに。
それをこの子は、警戒もせずにのこのこと魔物に近付いて……と、怒りに近い溜め息が漏れ出る。
しかしユアは、手いっぱいに抱えた黒曜カラスの巣に視線を落とすと口を開いた。
「この巣、町の大通りに繋がる路地の裏に作られていたの。人もよく利用する道だから、繁殖期になると通行人を襲うようになると思うわ。そうなると、この子達は人間に殺されてしまう」
「そりゃそうだろうけど……」
国中に張り巡らされた結界の中だからこそ大事にいたらないが、それでも凶暴な習性を持つ魔物は時々人間に襲いかかることがあり、そうなればすぐにでも町の魔導師が飛んできて、危害を加えた魔物を駆除することもある。
この国では当たり前に行われていることなのだが、どうやらユアはそれを善しと思っていないようだ。
「この子達にとっても、繁殖期に人が多いとストレスになるし、お互い良いことはなにもないと思うの。だから、まだ巣作り段階の内に場所を変えてもらおうと思ってお願いしてみたの。ほら、黒曜カラスってズル賢いって言うでしょ。だからこちらがちゃんと伝えたら意図を理解してくれるかなって思って」
「それにしたって、向こうは凶暴な黒曜カラスだよ!? もし迂闊に接して攻撃でもされたら、大怪我じゃ済まないかもしれないじゃないか!」
普段はあまり大声で怒ることのないクラルだが、今回だけはどうしても我慢できなかった。
もし、ユアが怪我をしたら? 魔物に連れ去られたら?
自分の知らないところで危険を犯して、ある日突然居なくなるかもしれない、と思うと、どうしても心穏やかではいられなかった。
一通り叫び終え、肩で息をしていると、再びユアが口を開く。
「うん、だからクラル、お願い。このことは二人だけの秘密にして」
「え……秘密?」
どうして、こんなに危険なことを隠してまで……。
先ほどのクラルの叫びが届いていなかったのではないかと心配になったが、次の言葉でそれも吹き飛んだ。
「だって、このことがバレたら、みんな怖がるかもしれないから」
"みんな"と聞いて、途端に心の底から黒い感情がむかむかと沸き起こる。
クラルにとってユアは唯一無二の存在だが、ユアにとってクラルは、その他大勢の内の一人なのだろう、と。
だからユアは誰に対しても平等に優しくて、そして周りからの愛情を受けてきたからこそ魔物とも仲良くなれると思い込んでいるんだ。
そう考えると、行き場のない感情がぐるぐるととぐろを巻き、気付けば嫌味となって口から出ていた。
「……それはそうだろうね。いくら聖女だの神童だのと周りから愛されている君だからといって、魔物とつるんでいる事が知れたら、たちまち世間からの目は厳しくなるだろう」
魔力を込めた手のひらから青白い火花が弾ける。それでもクラルの言葉は止まらなかった。
「残念だったね。僕は世間から疎まれているし、ユアが思っているほど"良い人"ではないから。同じように周りから嫌われている仲間を作りたくて、今日のことをポロッと口に出してしまうかもしれない。そうなれば、今まで君に笑顔を向けていた人間が一人もいなくなってしまうよ」
――ああ、嫌だ。こんなことを言ってしまう自分も、魔物や他の人のことを気にかけてばかりのユアも、どうしようもなく嫌だ。
それなのに、心の内に仕舞い込もうとすればするほど苦しい塊が溢れ出てくる。
けれど、次のユアの一言で、その感情の波がピタリと止んだ。
「ううん、それはもう覚悟できているの。好き勝手にさせてもらっているんだから、周りに反していることをすれば嫌われるのは当たり前。ただ、心配しているのは、この子達のこと」
「……どういうこと?」
意味がわからない、といった様子でクラルは眉を潜めた。
覚悟? 嫌われるかもしれないのに?
大怪我をするかもしれないのに?
ユアがそこまでする必要なんてあるの?
言いたいこと、聞きたいことが滝のように流れ、思うように言語化できないでいると、ユアは少し俯きながら囁くように話しはじめる。
「確かに魔物は凶暴な面も持っている。けれど、それは生き物として、生まれついた性質からくる行動がほとんどなの。ただそれが、人間の手に負えないほど力が強いだけ。だから私は、必要以上に怖がって、むやみに排除するのではなくて、人間も魔物も共存できる世界にしたいの」
そんなの……とクラルが言葉を挟んだ。
「そ、そんなの理想論だ。人間同士だって、いじめたり争ったりするのに」
反論しながら、脳裏には今まで虐げられてきた記憶が過る。
墓守の家に生まれた、というだけで、すれ違う人から罵倒や危害を加えられる。
弔いや送り火を、薄気味悪いと罵られる。
いや、それだけではない。死者を弔う際に、生前に受けた呪いを解除することがあるけれど、その頻度の多さから、いかに人間同士で争いが起きているのかもわかってしまう。
人間の世界ですらままならないのに、その上魔物と共存だなんて、一体どこのおとぎ話だ、と。
「うん、だからこれは、私の勝手な夢。そして、魔物を理解したいという我が儘。それで私が怪我をした時は、その時はクラルが笑ってよ」
ユアの困ったような笑みを見てハッとした。
そうだ、ユアも解っているんだ。
その上で理想を捨てられず、その夢のためなら自分を犠牲にできてしまえるほどに。
そしてユアは、理想を他人に押し付けることが我が儘だということも理解している。
だから、身から出た錆びは自分でなんとかしようとするし、誰の手も借りずに一人で理想を実現させようとしているんだ。
いつの間にか手のひらから魔力が引き、あれだけ騒いでいたはずの黒曜カラスの警戒も解かれていた。
「……その巣、どこまで持っていくの?」
声が少しぶっきらぼうに聞こえるのは、きっとまだ心のどこかで認めたくないと思っているからだ。
ユアの覚悟も、自分に足りていない何かも、全て認めて受け入れるには、当分時間がかかりそうだ。
だから今日のところは、ユアとの秘密を守ることだけで手一杯。
「うーん、人通りが少ないところとなれば、やっぱり森の中かな」
「僕もついていっても……?」
遠慮がちなクラルの申し出に、ユアはにっこりと笑みを浮かべた。