6-1
午後の部の終わりを告げる鐘が鳴り響き、静かだった教室の空気が一瞬にして緩んだ。
定刻を知らせる鐘には人の行動を制する不思議な響きがあるのだろう、授業に真面目に取り組んでいた者も、睡魔との戦いに破れた者も皆、鐘の音につられるように席を立つ。
授業から解放された生徒達が雑談しながら教室を出て行く中、ユアは机の上で頭を抱えたまま動けずにいた。
(……授業内容が全然耳に入らなかった)
手元には魔法理論の教科書と空白が目立つノートが一冊。
魔法実技に不安が残るユアは、せめて座学だけでも遅れを取らないように、と授業の板書には食らいついていたのだが、集中力が途切れた隙にその努力は一瞬で無駄になってしまった。
それもこれも数日前の——クラルに助けてもらったあの日のことがやけに思い起こされて、その度に動悸が止まらなくなり、授業どころではなくなってしまうからだ。
なんとか気持ちを落ち着けようと、人気のない教室で一人、魔法理論の教科書をゆっくりと読み返した。
これまでの授業で学んだことのおさらいになる内容だが、全く頭に入ってこない。
『——ずっと濡れたままで寒いでしょ』
不意に、あの日のクラルの言葉が蘇る。
ああ、まただ——とユアは堪えるようにギュッと目を閉じた。
これは、手を引かれたまま立ち入り禁止区域の金網を潜り抜けた時の回想——。
『いくら君が丈夫だからって、痩せ我慢ばかりしてたら体調崩すよ』
『や、痩せ我慢だなんて、そんな……わっ!』
『ほら、やっぱり。髪も体も冷え切ってるじゃないか』
そう言って、クラルはユアを強引に抱き寄せた。
まるで大事なものを扱うように優しく手を回し、少しでも熱を分け与えようとするかのように背を撫でる。
(……近い)
安心するはずの匂いが、体温が、今はただユアの心を強く掻き乱す。
『水分飛ばすから、少しじっとしてて』
『は、い……』
カラカラになった喉の奥から消え入りそうな声が絞り出された。
クラルの腕の中に包まれながら、彼の放つ暖かな光と風によってローブに含まれる水が蒸発し、ふわりと軽くなっていくのを感じる。
彼の距離が近過ぎるのはいつものことだった。
けれど今は何故か、その距離感が酷く落ち着かない。
そもそも、ローブの水気を取るためにここまで密着する必要はあるだろうか。
心臓の音も、息遣いも、全て彼に伝わってしまいそうで——。
『はい、終わり……って、顔色良くないけれど大丈夫?』
クラルが心配そうに顔を覗き込む。
そのガラス玉のような赤い瞳はまるでユアの心まで見透かしているような気がして、思わず目を逸らしてしまう。
『えと、顔、いつも通りです、けど……ひゃっ!?』
たじたじになりながらよくわからない言葉を呟いていると、突然クラルの両手が伸びユアの顔を包んだ。
慣れない刺激にビクリと肩が跳ねる。
『ああ、ごめん。冷たかった? 熱を測りたいから少し我慢して』
そう言って、片方の手をユアの額に当てた。
もう片方の手は耳の横に添えられたまま――。
(なんで、触られているだけなのに……)
ほんの数秒のことなのに、その時間はまるで永遠のように長く感じられた。
触れられたところから妙なくすぐったさが広がり、気を抜けば変な声が出てしまいそうだ。
勘付かれないように口元を引き締め、目を瞑りながら微弱な刺激に耐えていると、少ししてクラルの声が降ってきた。
『……うん、熱があるって感じでもなさそうだけれど、濡れたままで長時間外にいたわけだし、今夜は温かくして様子をみた方がいいよ』
『わか、りました……』
手が離れた途端、息苦しさのあまり言葉が途切れた。
どうやら知らず知らずの内に息を止めてしまっていたようだ。
呼吸を整えていると、こちらの様子を窺うクラルと目が合った。
『――やっぱり調子が良くなさそうだね。寮まで歩ける? しんどいなら抱えて行くけど』
『いいえ、結構ですっ』
クラルの申し出を聞いたユアは反射的に一歩後退った。彼は本当にやりかねないので要注意だ。
その反応を見たクラルは少し残念そうに肩を竦める。
『わかったよ。けれど、本当に無理はしないで。特に今日は色々あったんだから、部屋に戻ったら身体をよく休めること。くれぐれも夜更かししたりしないように、いいね?』
『はい……』
ぐったりとしながら頷くユアに、クラルは隈が刻まれたその顔に切ない微笑を浮かべる。
そして、再びユアの手首を掴むと強く引き寄せた。
抵抗する間もなく、再度クラルの腕の中に捕えられ、ユアの目が大きく開かれる。
『なっ……なにを』
『——怖かった。また、君を守れないんじゃないかって思ったら、気が気じゃなかった』
掠れた声が耳朶に響き、抗議しようと開きかけた口がピタリと止まる。
その声は、今にも泣き出しそうなほど低く震えていた。
抱き締める腕の力が強まる中、クラルの様子に動揺したユアは、その腕を振りほどくことも抱き返すことも出来ず、ただされるがまま静かに立ち尽くしていた。
互いの鼓動がドクン、ドクン、と大きな音を立てて混ざり合う。
この胸の苦しみは、一体どこから来るのか——。
逃れようのない焦燥感に翻弄されるまま、きつく目を閉じていると、『……二度と』と声が降ってきた。
『もう二度と、僕から離れないで。僕の前から勝手に居なくならないって約束して。事情も知らされず距離を取られるのはもう嫌だから。いいね?』
体の奥底から絞り出すかのように呟かれた途端、背筋にゾクリと冷たいものが走る。
彼の言葉には有無を言わせないほどの圧力が込められており、とても『否』と答えられる空気ではない。
窘めるようにもう一度強い口調で『……いいね?』と念を押されると抵抗することはもう無理で、ユアはコクコク、と頭を縦に振った。
するとクラルの纏っていた空気が和らぎ、腕に込められていた力がゆっくりと解ける。
ようやく腕の中から解放され、ホッと一息吐いていると額に柔らかな感触が落ちた。
『……』
一瞬のことで、なにが起きたのか理解するのに時間がかかった。
少し間があり、やがてそれが唇の感触だと気付いた途端、一気に熱が顔に集中するのを感じた。
呆然と立ち尽くすユアにクラルは悪戯っぽい笑みを浮かべると『約束、ね』と目を細めたのだった――。
(うわぁ……)
気恥ずかしさのあまりユアは教科書に顔を埋めた。
魔法理論の内容など、今の回想のせいでとっくに消え失せてしまっている。
残ったのは、行き場のない激しい動悸と顔の火照りだけだ。
(こんな感情、知らない……)
彼のことを想うと、胸の奥底が酷く疼く。
彼が向ける眼差しを思い出すだけで、まるで心臓を鷲掴みにされたように苦しくなる。
きっと、額に落とされた唇は彼なりの"親愛の証"だったのだろう。
けれど、頭ではそう理解していても、心が追いつかない。
あの日の光景が、あの時の感触と熱が、何度も頭の中で反芻し、思わず叫び出してしまいそうになる。
「……はぁ」
ぐったりとノートの上に顔を突っ伏すと、気の抜けた溜め息が漏れ出た。
ここ最近は特に情緒の起伏が激し過ぎて、終わった途端に変な倦怠感に見舞われる。
熱に浮かされそうになる思考を冷ますために、一度深呼吸して気持ちを落ち着かせようとした、その時。
「こんなところで復習かい?」
不意に前方から声がかかり、ユアは慌てて顔を上げた。
そこにはこの学園の教頭、アーバンの姿があった。




