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一瞬にして静寂が訪れた。
気付けば辺りを漂っていた魔力の濃い霧も晴れており、重なった針葉樹の隙間から月の光が薄く伸びていた。
森の奥に見えていた麗らかな春の陽気は、やはりあちらの者が生み出した幻影だったらしく、手入れの行き届いていない深い森の一部に戻っていた。
「……」
先ほどからクラルはずっと常闇の森の中でユアに背を向けたまま、動かなくなった消し炭の山を無言で見つめている。
そのあまりにも長く気まずい沈黙に、ユアの額に汗が滲んだ。
不意に、クラルの体がゆっくりと後ろを向いた。
無機質な赤い視線がかち合い、思わずユアの肩が跳ね上がる。
表情の読めない恐怖、今まで行ってきた酷い仕打ちに対しての罪悪感、早くここから離れなければという焦燥……様々な感情が酷く交錯し入り乱れた。
踵を返してこちらに近づいてくるクラルに得体の知れない緊張感を覚え、呼吸がどんどん苦しくなっていく。
それなのに、彼から目が反らせない。
「なんとか間に合って良かった」
緊迫した空気の中、クラルの口から溜め息混じりの言葉が漏れ出た。
その声にはもう、先ほどのような殺気は微塵も滲み出ていない。
代わりに酷く心配そうに眉を下げながら、座り込んだままのユアに手を差し伸べる。
「全くもう、立ち入り禁止区域に誘い込まれる時点で怪しいと思わなかったわけ? 君がお人好しなのは充分わかったからもう少し危機感を持ってもらいたいものだね。あーあ、手もこんなに傷だらけにして」
「これは……あっ」
引っ張り上げられた勢いでそのまま抱きしめられ、反射的にユアは身を固くする。
けれど、懐かしい匂いにふわりと包まれている内に、安堵から強張った体の間接が徐々に緩んでいった。
「本当にもうこれっきりにしてよ。僕の到着があと少しでも遅れたら君、連れて行かれるところだったんだよ。……あー駄目だ、考えただけで背筋が凍る。なんか君濡れてるし」
掠れた声が頭の上から降り注ぎ、力強く回された腕が微かに震えていることに気付く。
心配をかけてしまった——そう悟った瞬間いたたまれなくなり、思わず口を開いた。
「あの――」
「っていうか、最近なんなの? 精霊祭は一人で先に帰っちゃうし、学園中どこを探しても見当たらないし、そんなに僕を避けて楽しい?」
ユアの言葉を遮るようにクラルはガバッと身を引き剥がすと、恨めしげに口を尖らせた。
真正面から見据えられ、ユアはギクリと体を震わせる。
「そ、れは……」
嫌だったのだ。これ以上クラルの足枷になるのが。
彼の優しさに漬け込んで、幼馴染みという立場に甘えて、守られてばかりいる自分が。
彼の隣に相応しくないから、これ以上傍に居るべきではないと思ったから静かに身を引いたのだ。
けれど、そう伝えようと口を開くも、いざ本人を目の前にすると様々な感情が沸き起こり、喉がひきつってしまったように固まってしまい上手く言葉に出来ない。
「それは、エイベルト様の、迷惑になるから」
しどろもどろになりながら、小さな声でやっと一言呟くと、クラルは眉を潜めた。
「は? 迷惑ってなに」
「そ、そのままの意味です。一緒にいると私、エイベルト様のお荷物にしかならないから。……もうこれ以上、負担になりたくないんです」
言い終えるとユアは再び口をつぐみ、クラルの視線から逃れるように顔を背ける。
途端、まるで逃がさないとでも言わんばかりに両手首を掴まれ、肩の位置まで引き上げられた。
驚いて目を見開くユアに、クラルは苛立ちを含んだ低い声色で詰め寄る。
「なんでそうなるの? ていうか、お荷物ってなに。僕はそんな風に思ったこと一度だってない」
「……エ、エイベルト、様?」
クラルを纏う空気が変わった——。
異変を察知したユアは、戸惑いから思わず彼の名を呟く。
しかしクラルは返事も返さずに、無表情な視線でユアを見下ろした。
「あのさぁ、本気で言ってるそれ? 僕が君のことを負担に感じていると、本気で思ってるわけ? だとしたらさすがに心外なんだけど」
言葉に詰まり言い返せないユアに、構わずクラルは続ける。
「僕が、いつ、君にそんな風なことを言った? 迷惑だとか負担だとか、そう思わせるような振る舞いをした覚えは一切ないんだけど。勝手に僕の気持ちを決めつけないでくれる?」
淡々とした力強い口調に気圧され、思わず肩をすくめるものの、負けじと口を開く。
「で、でも――」
「でも、じゃない」
「……っ!」
手首を握るクラルの力が強まり、痛みでユアの肩が跳ね上がった。
鮮烈な赤の眼光がユアを捉え、視線を反らすことさえも許さない。
けれどもその瞳に映る感情は、怒り、というよりも、苦しみや悲しみに近い色を宿していた。
「今回だってそうだ、こんなにも目を赤くしておいて。本当は辛いくせに、全部一人で背負い込もうとして……そうやっていつも、僕から遠ざかろうとするんだから。辛い時くらい、少しでも君の力になれたならって常々思っているのに、そんなに頼りないかな、僕」
苦々しく吐き出される吐息に、ユアは胸が締め付けられるような罪悪感を覚えた。
——違う、そんな顔をさせたかったわけじゃない。
それなのに、目の前で額に影を落とすクラルになんと声を掛けたらいいのかがわからず、おもむろに口を開くものの上手く言葉が紡げない。
気まずそうに目を伏せるユアに、クラルは更なる追い討ちをかける。
「それとも、なに? 周りの評価が違うだけで簡単に離れてしまえるほど僕らの関係性は薄いと、そう言いたいわけ? ……僕は、君が別に神童だろうが悪魔だろうがどうでもよくて、ただユアが良いから一緒にいたいと思っている。ユアも僕と同じ想いでいてくれていると思っていたけれど、君は違ったの?」
「そんなことっ……!」
思ってもいないことを訊かれ、咄嗟に否定の言葉が出た。
するとクラルは切なそうに笑みを浮かべ、掴んでいた手首を離すとそのままユアの頬を優しく摘む。
「ないでしょ。ほら、わかってるじゃん。それじゃあ理由もなく避けられて傷付いた僕になにか言うこと、あるよね?」
張り詰めた空気がふと、和らぐのを感じた。
それでもまだ、不安が完全に取り除かれたわけではないようで、時折ぐっとなにかを堪えるようにクラルの赤い瞳が揺れる。
本当は、もっと沢山言いたいことがあるのだろう。
けれど彼は、今ここで全ての感情をぶちまけてしまうことよりも、己の気持ちに折り合いをつけてユアとの関係性を修復する方を選んでくれた。
——もう、潮時だ。
ここまで譲歩してくれる彼に、これ以上傷付けるようなまねはしたくない。
観念したユアは、彼に諭されるがまま恐る恐る口を開く。
「……ご」
「ご?」
「ごめんなさい……」
添えられた手の甲にそっと触れながら謝罪すると、一瞬、彼の視線が熱を帯びた——気がした。
あれ、と思う間もなく頬から手が離れると、そのまま頭上にぽんと置かれ、少し強引に髪を撫で回された。
「……わかればよろしい」
——その瞬間、ユアの心臓は急速に鼓動し始めた。
あちらの者に目を付けられた時の恐怖心とはまた違った、どうしようもないほど切なく落ち着かない感情。
初めての感覚に戸惑い困惑するユアの横で、クラルは周りを警戒するようにぐるりと見渡すと声を潜めた。
「それよりも、さっさとここを出よう。もう危険は無いと思うけれど、淀みを育て上げた土地にあまり長居しない方がいい。……これもまた学園に報告案件かな」
事情を知らない彼はいつもの調子でぼやきながら、さりげなくユアの手を取ると「ほら、行くよ」と促す。
クラルに手を引かれながら、まだ冷めぬ頬の火照りを感づかれないよう、必死に俯きながら歩いた。
道なき道を進む内に、先ほどの戦闘で放ったクラルの言葉が脳裏をよぎる。
『ユアは僕のだ。誰にも渡さない』
(……心臓が、凄く苦しい)
激しい動悸に見舞われながら立ち入り禁止区域を後にした。




