5-2
その日、いつになく分厚い雲で覆われた空はどんよりと暗く、放課後を告げる鐘が鳴る頃には雲の隙間からちらちらと初雪が降り注いだ。
本格的な冬の到来にユアは身を振るわせながら、薄く霜が降りた道をザクザクと踏みしめ足早に寮へと向かって歩いていた。
いつもであれば、放課後の時間は夕暮れ時まで図書室で過ごしたり、校庭の片隅で魔法実技の練習を行うのだが、ここ最近は授業が終わると同時に真っ先に教室を飛び出していた。
というのも、つり目の彼女が放った言葉が未だに頭を離れず、クラルに合わせる顔がないまま今日まで来てしまったのだ。
(それに……)
もし、下手に校舎内に残ってクラルとうっかり鉢合わせでもしてしまったら……と考えると、あまりの気まずさに胃の辺りがずしりと重くなる。
うう、とみぞおちを押さえながら、負担にならない程度に歩む速度を緩めた。
(精霊祭の時、きちんと会って話した方が良かったかな……)
けれど、それでは意味がない、とユアは思った。
いきなり友人関係を辞めると宣言したところでクラルのことだ、明確な理由を述べないときっと納得しないだろう。
それならば、こちらから少しずつ距離を取れば良いだけの話だ。
会う機会が減れば、彼を傷付けることも後腐れすることもなく、自然と離れることができるのではないか。
(枷になって縛り付けてしまうくらいなら、いっそあの人の中から存在ごと消して、忘れさせることが出来れば良いのに)
ふわり、と鼻先に冷たい雪が乗り、誘われるように空を見上げると、濁った色の雪雲が視界一杯に広がった。
太陽さえも遮り、世界の全てを薄闇に変える、分厚く黒い雲は、まるでユア自身の心情を現しているかのようで。
チクリとした胸の痛みを誤魔化すように白い息を吐いた、その時、
「……きゃっ!?」
背中に衝撃が走り、バシャリと音を立てたそれは飛沫を上げながらユアのローブを制服ごと濡らした。
予期していなかった刺激に堪らず咳き込むと、後方から高らかな男の笑い声が響く。
「ごめーん。間違ってぶつけちゃったわー」
ゆっくり振り向くと、男子生徒の手からは先ほど放ったのであろう魔力の残留が狼煙を上げており、それをもう一人の生徒がニヤニヤと眺めていた。
どうやら水魔法を当てられたようだ。
「あーでも、このくらいのことで怒るわけないかー。こいつ、過去にもっと酷いことをしてきたんだもんなー」
悪意に満ちた言葉をじっと耐え、何事もなかったかのように再び歩き出すと、今度は外灯の下に集まっている数人の女子がヒソヒソと顔を寄せ合った。
「最近エイベルト様と一緒にいることがないみたいだけれど、ひょっとして捨てられたのかしら」
「大方、愛想を尽かされたのでしょう。良い気味だわ」
内緒話に見せかけ、けれどユアの耳に届くように囁き会う彼女達の顔には非難と軽蔑の表情が浮かんでいる。
ここ数日で、嫌がらせが目に見えて悪化した。
(当然か。それまではずっとエイベルト様に守ってもらっていたのだから)
こういう状況に陥って、改めてクラルの存在が大きかったことに気付く。
本来であれば激化してもおかしくない嫌がらせや妨害も、そのほとんどが一度きりで終わることが多く、また、彼が隣にいる間は一切何事も起こらなかった。
今まで平穏に過ごせたのは、隣でいつもクラルが守ってくれていたからなのだ。
きゅう、と心臓の奥に痛みが走り、堪らずユアは駆けた。
一体、自分はどれだけ彼に負担をかけてきたのだろうか、と。
悪意に満ちた視線から逃れるように人のいないところを求め、道を逸れて森の中へ入ると、先ほどまでの喧騒が嘘のように静寂が辺りを包み込む。
(寒い……さっき被った水が冷えて凍えそう)
近くの木に腰を卸すと、肩に薄く積もった雪を払いながら手に魔力を込めた。
手のひらに集まった魔力はどこか頼りなさげにふわりと光りながら熱を発するが、せいぜい指先を暖める程の火力しか出ない。
「情けないな。こんな時に気休め程度の魔法しか使えないなんて」
本当に、どこまでも無力な自分が、酷く馬鹿馬鹿しい存在に思えてくる。
喉の奥から込み上げてくる鈍い塊をただ必死に抑え込みながら「これで良いんだ」と自分に言い聞かせた。
――そうだ、これで良かったのだ。
これ以上彼の近くにいれば、きっと私は彼の優しさに甘えてしまうだろう。
そうやってまた、必要以上に彼を傷付けて、困らせて、足を引っ張ってしまうに違いない。
そうなる前に、これ以上別れが辛くなる前に、早めに離れることが出来て良かったではないか。
なんてことはない、本来あるべき形へと戻るだけだ。
胸の痛みに負けないように、口角を歪めて笑おうとして。
――唐突に涙が零れた。
「あれ、なんで」
慌てて目元を拭うも全く止まる気配はなく、大粒の涙がせきを切ったように溢れ頬を濡らす。
「え、嘘、駄目だって。こんなとこ、誰かに見られたら……」
ユアの中に焦りが芽生える。
もう長い間、涙を流すことなどなかった。どんなに辛い状況でも我慢できたのに。
それなのに、自分の意思とは裏腹に、涙は次から次へと溢れていく。
「お願い……止まって」
ついには膝を抱てうずくまり、ローブ越しの膝小僧に眼球を押し付けた。
濡れて冷えたローブに涙の熱がじんわりと広がる。
酷い焦燥感にも似た、ざらついた悪寒が全身を包み込み、千切れてしまいそうな激しい心臓の痛みに気付いたユアは、ああそうか、と静かに絶望した。
「私はいつの間にか、エイベルト様に依存していたんだ」
この痛みは執着だ。離れ難いと思ってしまうほど、私は彼を拠り所にしていたのだ。
人に頼るのはもう終わりにしようと決めたはずなのに、距離を置いた瞬間、己のどうしようもなく醜くて弱い部分を自覚してしまった。
一体どのくらいそうしていただろう。
考えることをやめて、ただひたすら涙が止まるのを待っていると、不意に近くの茂みが音を立てて揺れた。
(誰か来た)
音に反応して顔をバッと上げ、狼狽えながらローブの裾で目元をごしごしと擦る。
突然のことに驚いたせいか、あれだけ歯止めが効かなかった涙も一瞬にして止まってしまった。
けれど、どんなに取り繕っても泣き腫らして真っ赤になった目元だけは誰にも隠し通せないだろう。
(早く、ここから逃げなきゃ)
慌てて退散しようと腰を浮かせるも一足遅く、茂みの隙間を縫って小さな人影が現れた。
しまった……と冷や汗が流れたが、人影の正体を見てそれも吹き飛んだ。
(子供……女の子?)
――小さな少女は肩を震わせながら泣いていた。




