3-1
昼休憩も後半に差し掛かる頃、そろそろ次の授業に向けて行き交う人が増えてきた本校舎の廊下で、クラルはどこか遠くに心を置き去りにしてしまったかのようにぼんやりと歩いていた。
通りすぎる人の中にはクラルに対して好意の視線を送る者もいたが、普段は鬱陶しく思うそれすらも気付かないほど頭を占めていたのは、先日の彼女の言葉だった。
『私のなけなしの魔力を精一杯込めて栞にしました』
手渡してきた時のユアの言葉が、手先の体温が、今でもありありと思い起こされ、ローブの懐に忍ばせた栞の存在感に思わず笑みが溢れる。
「……ふふ」
「なにニヤついてんだよクラル」
突然背中を突かれ、思わず「……わっ!」と声を上げる。
慌てて後ろを振り返ると、そこにはクラルよりも拳一つ分ほど背の低い、分厚い黒縁眼鏡をかけた短髪の男子生徒が立っており、目が合うなり口角をにいっ、と上げて悪戯が成功した子供のような表情を浮かべていた。
クラルはバクバクする心臓を押さえながら、そのよく見知った男子生徒を睨みつけた。
「い、いきなり背中を叩くやつがあるか、ヴィン」
「いやぁ、悪い悪い。最近特に腑抜けてきている友人に危機感を持ってもらおうと思ってな」
ヴィンと呼ばれた男子生徒は、全く悪びれる様子もないまま口だけで謝罪し、馴れ馴れしくクラルの肩に腕をかけた。
——ヴィン・イルマニアは、大衆向けの魔導具を取り扱う老舗ブランド、イルマニア商会の息子だ。
曾祖父の代から続くこの会社は、魔導具と言えばイルマニアと謳っても過言ではないほど有名なものであり、クレスタブル国の各地に支店を連ねる大企業である。
好奇心旺盛なのは曾祖父譲りなのか、本人の気質によるところか、黒縁眼鏡から覗く少し釣り上がった三白眼をくっと開きながら、楽しげにクラルの肩に置いた手をポンポンと動かした。
「んで、さっきからなに一人でニヤニヤしてんだ?」
「どうでもいいでしょ、そんなこと」
「まぁ、大方の予想はつくがね。連休後から君の様子がおかしくなったことを察するに……」
からかうように喉を鳴らし、一度声を潜めるともう片方の手を口の横に立ててクラルの耳に近付けた。
「例の姫様と、どこまで進んだ?」
「別に、なにも……」
あからさまに目を泳がせるクラルに「いやいやー」とヴィンは首を振った。
「あのな、これだけ浮かれきっておきながら『なにもありませんでした』じゃ済まされないから。大人しく白状したらどうなんだい」
詮索めいたヴィンの物言いに思わずクラルは眉を潜める。
「やけに突っ込んで聞いてくるじゃないか。一体なにが目的?」
「心配するな、ただの趣味だ」
「悪趣味」
「つれないなぁ。ただでさえ君は付き合いが悪いんだから、友人のささやかな願いくらい聞き入れてもらいたいものだね」
思う存分からかうことができて満足したのか、ぐい、と肩を寄せながら再びクラルの背中を二度ほど叩く。
しかし、今度は何故かクラルの反応が急激に鈍くなり、呆然と突っ立ったまま微動だにしなくなった。
「おいクラル、なんとか言ったらどうだい?」
「……」
返答がないまま、一点を見つめるクラルの視線をツーと辿ると、
「あー、察した」
階段の角から出てきたユアの姿があった。
これから移動授業なのか、手には教科書とノートが抱えられている。
「悪いヴィン、また後で」
「共同開発の魔術式に関するレポート五枚で手を打とう」
「ご……わかった」
一刻も早くユアの元へと向かおうとする彼に少し意地悪がしたくなったヴィンは、面倒な作業を交換条件で押し付けてみると、案の定クラルはその内容に一瞬怯みながらも渋々了承した。
(しかし、飽きもせず続いているこった)
ユアの元へと向かうクラルの背中を見ながら、ヴィンは腕を組んで唸る。
――クラルとヴィンが初めて話をしたのは、中等部二年の魔術学の授業だった。
それまで初等部の頃からずっと同じ寮の隣部屋同士だったにも関わらず、互いに一切会話を交わしたことはなかった。
当時、クラルの学園内での評価は極端に分かれていた。
魔物襲来事件で功績を上げた墓守のエイベルト家……その息子となれば学園で知らない人はいなく、入学当初から話題を呼んだ。
なんといったって有名人であり、国民的英雄である彼と同じ学舎を共にするのだ。周りが浮き足立つのも無理はない。
また、墓守特有の肌の色白さや鮮烈な赤い瞳、成長するごとにすらりと高くなっていく身長は女子受けも良く、中等部に上がる頃にはファンクラブなるものまでできる始末。
まさにクラルは学園内の"高嶺の花"の異名をほしいままにしていた。
だが、一方で、周りには一切目もくれず、あの魔物襲来事件を引き起こした張本人と言われているユア・ルクタスにいつも付いてまわっていた彼は、裏で『魔物襲来事件の加担者』などとも囁かれ、敬遠されている部分もあった。
こういった相対する評価が常に回っていたせいもあり、クラルに気軽に話しかけようとする生徒はなかなか現れなかった。
(正直始めの頃は、俺もあまり関わりたくないと思っていたが)
しかしその日の授業は運の悪いことに、生徒の親睦を深めるためとかいうわけのわからない理由で、寮の近所同士でペアを組むことになってしまったのだ。
ペアになってしまった手前、無言を貫き通すわけにもいかない。
そう思ったヴィンは仕方なく、隣に座り黙々と術式を書き込むクラルにとりあえず当たり障りのない会話を振ることにした。
「――ときにエイベルト氏、魔術の術式がスカートからのぞく太もものように見えてくる時ないか?」
「……」
想像通り、ヴィンの問いかけにクラルはぴくりとも反応せず、まるでそこに自分しか存在していないかのように術式を書く手を止めなかった。
(下々の者には口を開かない、ってか)
ケッ、と心の内で舌を出し、何事もなかったかのように卓上の術式用紙に向き直ると、不意にクラルが口を開いた。
「……僕が思うに、術式がスカートで発動結果が太ももだとすると、いかに巧妙な手順で書かれた術式であろうと発動時の結果が同じであれば、スカートが長かろうが短かろうが、そこにあるのは太もも……と」
用紙から目を逸らさずボソリと呟くように答えるクラルに、ヴィンは目を丸くした。
まさか答えが返ってくるとは思ってもみなかったのだが、それと同時に、どうしても一言物申さなければ気が済まない衝動に駆られた。
「まて、スカートあってこその太ももだろ。それに太ももをより魅力的に魅せるためには絶妙なバランスの術式……謂わばスカート丈の黄金比を追及する必要が出てくると思わないか」
「しかし、いくら追及しようと中身の太ももは変わらない」
「ロマンがわからんやつだな。考えてみろ、スカートなくしてはただの下半身だ。術式があってこその結果だろ」
「そもそも世の中にはスカート以外にも様々な選択肢があるのをご存知?」
「……なるほど、議論の余地がありそうだ」
「……議論する必要があるとでも?」
この時、いつも澄ました顔でクールぶっている印象のクラスメートが、実は自分と同じ年頃の男子なのだということに気付いた。
(ほんと、噂ってあてにならんよな)
その日以来、なにかにつけてクラルに話しかけることが増えてきた。
互いに魔術好きなところも意気投合し、次第に二人で術式の共同開発まで行う始末だった。
そこで気付いたのは、クラルが最も大切にしているもの――ここでいうとユア・ルクタス本人に余計な干渉さえしなければ、その他に関しては概ねおおらかであり、また無関心だということ。
その辺りをしっかり線引きできてさえいれば、クラルとは程よい関係性を築くことができるのだ。
「まぁ、厄介な事情を抱えた姫様に近付こうとするつもりはさらさらないが」
しまらない顔で一人の少女となにかを話している友人を横目に一言呟くと、ヴィンはさっさとその場を後にした。
「――午後から魔術学なんだ? いいなぁ、僕のところは魔法実技だよ」
互いの教科書を見比べて呟くクラルをユアは微笑ましそうに見つめる。顔には出ていないが、少し不服そうな様子が声に出ていて、それが妙に可笑しかったのだ。
「そんなに落胆しなくても、実技だって充分良い成績じゃないですか」
「でも、やっぱり魔術の魅力には敵わないよ」
「エイベルト様は魔術がお好きですもんね」
「昔から興味があったからね。初めて魔術書を見ながら術式を完成させた時は本当に感動した」
懐かしそうに目を細めるクラルの横で、ユアも「そういえば」と当時の思い出を振り返る。
「そういえば小さい頃、エイベルト様から術式が書かれた紙をもらったことがありましたね。印を付け足して完成させるとつむじ風が起こる……」
ユアの言葉にクラルの目がいっぱいに開かれる。
「懐かしい。それ、当時持ってた初級編の本に書かれていた術式だよ。よく覚えているね」
「初めて見た時、衝撃的でしたから。魔法で起こした風と違って、魔術で発動させた風は強弱がなくてとても安定していて、一律の力加減でクルッ、クルッ、クルッ、ってしていましたし」
クルッの調子に合わせて人差し指をリズム良く回すユアにクラルは「あはは」と声を上げて笑った。
「わかる。魔法だとムラというか、どうしてもその人の個性が出てしまうけれど、魔術は誰でも同じ出力で発動させられるからね。三回転させるのは僕の癖だけど」
「ふふ、書き方の個性は出ますよね」
和やかに会話を続けていると、午後の部の予鈴が鳴り響いた。
あっ、と顔を上げるユアを見ながらクラルは名残惜しそうに口を開く。
「――そろそろ行かないと。今日は日直なんだ」
「そうだったのですね、引き止めてしまってすみません」
「いやいや、僕が勝手に話し掛けただけだから」
それじゃあ、と互いの距離が一歩ずつ開いていく。魔術学は北校舎、魔法実技は校庭で行われるため、向かう方向は真反対だ。
「魔法実技、頑張ってくださいね」
「ああ、ユアも」
互いに手を翻して本校舎を後にした。




