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三沢志帆が聖葉に入ってきたのは秋の終わり、ひどく中途半端な時期だった。
単に娘をお嬢様学校へ入れたいだけならば、わざわざこんな山奥の、寮に入る以外に通う方法もないような学校に入れなくても他にもっと交通の便のいいところがいくらでもある。だから季節外れの転校生でなかったとしても、志帆が聖葉に来たというだけで『わけありなのだ』と想像はつく。
志帆は物静かな生徒だった。
体も弱く、だからというわけではないが割と一人でいることが多いように紀佐からは見えた。
あまり自分から活発に意見を言う方ではないが、かといって頼りなくふわふわしている印象はない。ただ口や態度に出さずにいるだけで、ひとつのことを強く胸に抱いてあたためているように見えた。
志帆と竜世とが出会ったのは、志帆が前に通っていた学校の学園祭でだった。
そこは全寮制でこそなかったが、他は聖葉と同じように持ち上がり式の女子校で、やはりお嬢様学校だった。
そこで竜世は仲間何人かと、こともあろうに『学園祭ゲリラ』を実行した。
友達の恋を応援するためという名目ではあったものの、なんのかの言って本人も相当楽しんでいたことは間違いない。
もちろん、招待券を入手するという正攻法ではなく、体力と度胸にものを言わせて塀を乗り越えるという荒っぽいやり方だったので竜世たちはたちまち見つかって追われることになったのだが。
竜世はそこで志帆と出会い、ひどく体が弱いくせに強い意思を持つ志帆に恋をした。
志帆のほうも同じだったのだろう。その後すぐに二人は付き合いはじめたのだが、これには志帆の両親が大反対だった。
もちろん外で会うことは許さなかったのだが、そこは竜世のこと。三沢家の外壁をよじ登って窓から顔をのぞかせては、志帆を喜ばせた。
そんなことをしているうちにそれがばれて、志帆は聖葉に入れられることになる。
ていのいい、虫よけ措置だった。
とそこまで紀佐が話したところで、晶が片手をあげて話を中断させた。
「どうしてそんなに詳しいんです」
「あなたのお父さまから直接聞いたからです」
えええっ、と晶は座布団の上に座り直して身を乗り出した。
「先生、父に会ったことあるんですか!」
「ありますよ」
「なんで、どうして……あっ、学園祭の一般公開とかですか?」
紀佐は目を細め、当時のことを思い出すように宙を見上げた。
「三沢志帆さんがここへ来たのは秋の終わりのことでした。三沢さんは確か、次の年の学園祭を待たずにここを去ったはずです」
紀佐の言葉に、晶はひとつ納得した。なるほど、だから卒業アルバムをいくら探しても見つからなかったのか。
「大体あの子が、大人しく招かれるのを待ってるようなタマですか」
「は……我が父のことながら、ごもっともです」
お言葉遣いはともかくとして言っていることは正しかったので、晶は神妙に同意を示したが、同時にこうも思った。
一体、なにをしたのだ、父。
紀佐先生に『タマ』だの『あの子』だの言われるような、なにを。
「今あなたが座っている、ちょうど同じところにあの子も座りました」
言われて晶は花柄の座布団を見下ろした。
ここに、父も。
ドンドン、ドンドンドン。
舎監室の窓が外からいくぶん乱暴に叩かれて、紀佐はびくっと読んでいた本から顔をあげた。
今日か明日には初雪が降ろうかという寒い夜のことだった。
「先生えぇ、あけてえぇ」
紀佐は眉をひそめた。窓の外で聞こえた声は、尾崎竜世のものではないか。
聞き間違いかと耳を澄ませたが、重ねて呼んでいるのはやはり竜世だった。
「ここ、あけてくれえぇ」
確かに竜世の声だ。
なにごとだ、一体。そう思って紀佐は立ち上がり、カーテンを開けた。
志帆が入寮してからひと月足らずの間に、竜世は三度、紀佐に見つかってつまみ出されている。そのおかげで彼の存在はこの女の園でたいそう知れ渡り、今となっては彼を知らぬものがないほどの有名人となっていた。
「先生こんばんは」
窓をあけると案の定、竜世の日に焼けた笑顔があった。
おどけて片手を顔の横まであげて挨拶しているが、その笑顔は寒さにこわばっている。
ふと見ると、彼の背後の闇に白いものがちらついていた。
初雪だ。降ってきたのだ。
竜世は、傷だらけの革ジャンにジーンズという軽装である。今日も寮の外壁を登る気満々だったらしく、手には黄色いゴム粒付きの軍手をはめているが防寒の役には立たなかったらしい。彼はその場で落ち着きなく足踏みして、歯を小さく鳴らしていた。
「助けて、先生。死ぬ」
紀佐がなにか言うより早く、竜世は窓の桟に両手をかけて、勢いよく室内へ転がり込んできた。
「うお助かった、先生サンキュ」
挨拶のつもりか、紀佐の手をとってその甲に素早くちゅっと音を立てて口づける。紀佐はキスよりも、竜世の唇の冷たさの方にぎょっとした。
彼が徒歩で山をのぼって来ているらしい、というのは過去三回で知っていた。
ふもとからの距離をものともせずに毎度毎度のぼって会いに来る姿はロミオとジュリエットのようだと、寮の女生徒たちにはおおむね好評である。だが、彼女たちよりも大分年を重ねた紀佐には、素敵だロマンチックだと単純には思えなかった。
見つかれば、未成年だから警察とまではいわないが家庭に連絡されるのをわかっていながら、なぜこんな大変な思いをしてまでのぼってくるのか聞いてみたかった。
「あったけー」
竜世は律儀に履いていた靴を脱いで、泥が落ちないようにそっと、紀佐が差し出した古新聞の上に置いた。そして花柄の座布団の上に自分からにじり寄っていってあぐらをかくと、やっとほっとしたように軍手を脱いで両手をこすり合わせる。
「コーヒーを入れますけど、飲みますか」
「ご馳走になりまーす。いやあ寒かった。いきなり降ってくんだもん」
「山の上ですからね。街より二度は気温低いですよ」
紀佐がお湯を沸かすために立ち上がりながら言うと、竜世はなるほどねえとうなずいた。
「ひとつ利口になった。だめな、俺もまだまだ考えが甘いわ」
そうですね、と相槌をうちかけて、紀佐はあわてて思いとどまった。侵入を後押しするようなことを言ってどうするのだ。
「いや今日はほんと参ったね。志帆に会うより先に凍死するかと思ったよ。さすがに今日は壁のぼりやったら落ちて死ぬわ」
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「はいはいどうぞ」
悪びれずに返す竜世に、紀佐は訊ねてみた。
「ここまで来るの、大変でしょう」
「大変だよ?」
「それなのに、なぜ来るんです。そんな思いまでして。見つかれば追い返されることもわかっていながら」
うーん、と竜世は首をかしげた。
紀佐が粉にゆっくりお湯を落としながら、横目で竜世の様子を観察していると、ややして竜世は言った。
「大変なことだからあきらめるのが当たり前、ってニュアンスで質問されることが、俺にはわからないんだけど」
紀佐が大きく首をまわして竜世を振り返ると、彼は少し考え考え、だがしっかりした口調で続けた。
「他に方法があるならそうするけど、そうしないと会えないから、必要なことをしてるだけ。あ、どーも」
紀佐からコーヒーを受け取って、一口飲むなり竜世は両目をきゅっとつぶって身をよじった。
「染み渡るー」
そしてそれをあっという間に飲み干してしまってから、
「おかわり」
とソーサーごと出して寄こしたから、紀佐は呆れた。
「ずうずうしい」
「だってうまいすもん。あっあっその粉捨てないで」
「薄くなりますよ」
「いいからそのままでもう一杯入れてっ」
言う通り二杯目を入れてやると、竜世は今度はさっきよりもゆっくりと一口すすった。
それからふと、付け加えるように言う。
「人がつくった枠は、人が壊せるもんだよ、先生」
「……」
紀佐は黙って自分の分のコーヒーをすすった。
なにか言ったら、竜世に同調してしまいそうで、言えなかった。
紀佐もこの学校のOBで、ご多分に漏れずわけありの生徒だったから、しがらみでがんじがらめになっていた部分はやはりあった。それを自分なりに切り開いて、今、聖葉の舎監としてここにいるつもりでいるから、竜世の言ったことはよく理解できた。むしろ、それはそのまま、自分の気持ちだったと言ってもいい。
だが強く共感できたとしても、自分の立場はあくまで舎監、それを口にするわけにはいかない。
竜世は二杯目のコーヒーを大きく飲み干すと、言った。
「ごっそさん。そんじゃ俺帰るわ」
「は?」
思わず紀佐は聞き返してしまった。そんなに苦労してここまで来たのに志帆に会わずに帰るというのだろうか。それを言うと、竜世は靴に伸ばした手を止めて意外そうに聞き返した。
「会ってっていいの?」
「もちろんだめです」
「だよね。わかってますよ。助けを求めた以上そこはけじめでしょう。先生に迷惑かかることはしない。また来るから、今日はいいわ。次はもっと重装備して来ますよ」
「来ちゃいけません」
「あ、そうね。そうだった。そんじゃ先生お邪魔しました。また」
「またなどありません」
今度は幾分強く言ったが、竜世は陽気に手を振ってもときた窓から去って行った。
志帆に会わずに帰ると言った言葉通り、ざくざくと、湿った落ち葉を踏みしめて。
まっすぐにふもとへ。
「ですから、ここでコーヒーをご馳走したのは、あなたで親子二代目です」
「うそーっ」
紀佐が言うのを聞いて晶はのけぞった。が、またすぐテーブルに肘をついて前のめりになる。
「じゃあひょっとして、父が母のことここから略奪する時に、先生協力したり……」
「まさか」
紀佐はばっさり切り捨てるように否定した。
「そんなことするはずないでしょう。わたくしは舎監ですよ」
「……ですよね」
晶はそれで納得したようだったが、紀佐は別のことを考えていた。
もし竜世が相談していたら、自分は手助けしていたかもしれない。
紀佐は自らのしがらみに悩み、その中でもがいた経験があったから、そうした枠をぶち壊そうとする人間が好きだった。好ましいと思うし、応援したくもなる。だが。
「あの子は、わたくしに協力を頼んだりはしませんでしたよ」
「じゃあ、どうやってここから母を連れ出したんですか」
「尾崎さん、コーヒーは美味しかったですか?」
「え、あ、はい」
突然話を変えられて戸惑う晶に、紀佐はにっこり微笑んで見せた。
「それでは、お部屋にお戻りなさい」
「ええーっ」
晶は不満そうに言ったが、紀佐にじろりとにらまれて引き下がった。
「……ごちそうさまでした」