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「なにをしているんですか、尾崎さん」
「ふぎゃあっ」
夜の資料室でいきなり声をかけられて尾崎晶は飛び上がった。
聖葉ではみんな寝静まっているはずの深夜一時。
もちろん消灯時間はとうに過ぎている。
「あ、あ、明かりをつけずに見回りするの、やめていただけませんか先生!」
なにかを隠すように左手を握り締めて後ずさりする晶に、舎監の紀佐珠子は動じることなくもう一度聞いた。
「なにをしているんですか、尾崎さん」
晶は携帯のライトをつけて棚のファイルを漁っていた最中だったし、そもそも資料室に入り込んでいる時点でどのような言い訳もできない。
紀佐は晶の固く握りこんだ手をじっと見つめながら言った。
「手の中のものを出しなさい、尾崎さん」
「できません」
晶は逃げ場を探すように落ち着きなくあたりを見回しながら言ったが、紀佐は追求をやめなかった。
「手の中にあるのは、ここの鍵ですね。どうやって手に入れたのか知りませんが没収します。お出しなさい」
「すみません先生。それはできません。……じゃなかった、鍵なんて持ってません。ここの扉はたまたま開いてて、えっとあたしは寝ぼけてまして」
おそろしく見え透いた言い訳に、紀佐は浅くため息をついて晶のほうへ踏み出した。
と、晶が窓に手をかけてロックをはずす。
「な……」
紀佐が言うより先に晶は大きく窓を開け、勢いをつけて窓のさんに飛び乗った。
その真剣な目つきは脅しやポーズではない。本当にそこから飛び降りるつもりで晶は地面までの距離をはかり、ためらいなく窓枠から手をはなそうとした。それを見て取って紀佐はあわてて言う。
「お待ちなさい!」
焦ったような厳しい声に晶の背中が止まる。
紀佐はショールをかきあわせる手に力をこめた。ここは二階だ。落ちたらただではすまなかろう。
内心の動揺を隠して紀佐は静かな声で続けた。
「……そこまですることないでしょうに。もうわかりましたからお戻りなさい」
そうですか?と晶はきょとんと首をかしげ、素直に窓から降りてきた。
「……では、おことばに甘えて」
「何階だと思っているんですか。ほんとに無茶をするにも程がありますよ」
「え、何階って、二階でしょう?」
だが晶は落ち着いた動作で窓を閉めながら、なんでもないことのように言う。
「木にでも飛び移るつもりだったんですか。落ちたらどうします」
「どうもないです。これくらいの高さなら」
全然平気、と晶は真顔で親指を立てて見せた。
やんちゃだこと、と紀佐は内心で肩をすくめた。やんちゃな娘は決して嫌いではない。
だが勤続45年の面子にかけてもそんなことは表に出さず、冷静に毛糸のショールを羽織りなおした。
5月とはいえ、聖葉は北国の更に山の中に建っている。
夜ともなれば、見回りにショールが必要なくらい冷え込むのだった。
紀佐は話をもとへ戻す。
「その鍵は、どこで?」
「言えません」
晶は即答してしまってからあわてて言い直した。
「鍵なんて持ってませんたら」
そんな言い訳はまるで無視して紀佐は続ける。
「その鍵は誰から手に入れました?」
「言えません。あーまた……」
またしても口を滑らせてしまってから片手で目を覆う晶を見て、紀佐は思った。
ああ、基本的に、嘘をつくという回路がないのだ、この子は。
よくこんな無防備で今までやってこれたこと。
そんな晶を紀佐はますます好もしく思ったが、好悪の情と規則違反はまったく別のものだ。それはそれ、これはこれ。
ややしばらく追求したが頑として口を開かない晶に、紀佐はため息をついた。
「資料室の鍵は、桐生さんは決して高橋さんの手には渡さないでしょうに。高橋さんの友人であるあなたがよく手に入れましたね」
それを聞いて晶は目を丸くした。
「先生。よくご存知ですね」
学園内の鍵のスペアをいくつ所有するかで寮内の地位を競う『鍵バトル』。
これは何年かに一度、誰が言い出すともなく行われるゲームだが、今は高橋妃穂と桐生園子がほぼ同数でトップに君臨している。
それはあくまで生徒たちの間だけで秘密裏に行われるゲームだと晶は聞いていたので、紀佐がバトルについて知っているだけでなく、その内情まで知っていることに驚いた顔をしたが紀佐は淡々と答えた。
「わたくしはOBですからね。鍵バトルは、大昔からあったゲームですし」
「なるほどぉ」
「ところで、一体なにを調べていたんですか」
「死んだ母のことです」
口ごもる様子も見せずに、晶はまっすぐ答える。
鍵を手に入れた経緯については話さないが、自分個人の事情については隠さないのだな、訊ねれば答えるのだなと紀佐は思った。
「お母様のことを、なぜ」
「母は聖葉の生徒だったらしいんですよね。はじめは図書館で卒業アルバムを見たんですけど、それらしいのがどこを探してもなくて。でもここならなにかあるでしょ。入学時の書類とか」
それはあるだろうが、と紀佐は不審な顔をした。
なぜそこまでして実母のことを調べたいのか、紀佐にはわからない。
資料室に忍び込むような大仰な真似をしなくても、まわりの大人、親戚に聞けばすむことではないか。そう思っていると、晶が続けた。
「父と母は駆け落ちして一緒になったそうです。父は母の実家に出入り禁止状態で、近づくこともできなかったようだし、自分の方の実家からも勘当同然だったので、あたしはどちら側の親戚にも会ったことがないんですよ。一度も」
もちろん連絡先も知らないし、どこに住んでいるのか、どんな人たちなのかもわからないのだと言って晶はちょっと笑った。
「でもね。父は確かにどちらの家とも没交渉だったかもしれないけど、なんと言っても自分は孫だし、父も今はもう死んでいないし、会ってもいいんじゃないかと思って」
さばさばした口調と言っている内容とのギャップに、紀佐はとっさになんと返してよいか言葉に詰まった。
紀佐は学生時代も含めれば50年以上聖葉にいる。
ここは何かしらわけありの子女が入る学校であるから、それだけの長さここにいれば世の中で起き得る大抵のことは見聞きする。だが、多少のことでは驚かないはずの紀佐が驚いたのは、晶の歪みのない明るさだった。
「そんなに、なにも知らなかったのですか」
言葉を選びながら言った紀佐に、晶は憤慨する口調で言った。
「だってうちの父、写真もないんですよっ、母の!」
あの子は……。
と紀佐は思わず声に出してつぶやいてしまいそうになって、寸前で思いとどまった。かわりに深いため息をつく。
「探しても探しても探しても一枚もなくて。だから母の写真がどうしても欲しくて。あと実家の住所ですね。そのためにあたし、ここに入学したんです」
母のいた学校で母と同じように生活してみたかった、っていうのもありましたけどね、と言って晶はひとつ大きなくしゃみをした。
「舎監室にいらっしゃい、尾崎さん」
「ほえ」
「そのままでは風邪をひきます。コーヒーを入れてあげますから、一緒にいらっしゃい」
はじめて入る舎監室は思ったより小さな部屋だったが、こざっぱりとしていて温かかった。
出された座布団の上にちょこんと正座して晶は部屋を見回す。
ベッドがあってその隣には小さな本棚がある。何度も繰り返し読んでいるのだろう、本はどれも大切に扱われている気配があり、感じよく古びていた。
「お砂糖とミルクは入れますか」
そうこうしているうちにキッチンでは湯が沸いて、コーヒーのいい香りがしはじめたので晶は答えた。
「あ、いえ。ブラックで」
紀佐は一回分の粉をはかると、残りをすぐに冷凍庫にしまいなおした。
晶は壁にかかっている時計を見上げる。深夜一時半。
思っていたよりずいぶん手間取ってしまった。先に寝ていてとは言ったものの、妃穂と茨木は多分起きて待っているだろう。
心配しているだろうか、と晶が思ったときに紀佐がコーヒーを運んできた。
「どうも。いただきます」
その香りにつられて早速口をつけた晶が、ひとくち飲むなり言う。
「なんですかこれ、うまいっ!」
「そうですか。それはよかったですね」
紀佐は自分の分も小さめのカップ&ソーサーに入れて持ってくると、小振りのテーブルを挟んで晶の正面に座った。
「なんつーか、濃いのに喉にするっと通りますね!」
「それは、雑味がないと表現するのです」
へえ、と晶は感心したようにうなずいた。
「先生なんかこれ、お菓子が欲しくなります」
クッキーとかクッキーとかクッキーとか。あ、ケーキでも喜んでいただきますがと言う晶に、紀佐は呆れて目を細めた。
「図々しいですよ、尾崎さん」
「だってすごく美味しいですもん。単品で飲むのがもったいなくて」
屈託なく笑う晶を見て、紀佐はゆっくり立ち上がりながらつぶやいた。
「血筋でしょうか」
「は?」
晶が聞き返したのには答えず、紀佐は戸棚を開いて中からバタークッキーの缶を取り出した。それを小皿に出してくれながら、紀佐は言う。
「あなたのお父様は、画家の尾崎竜世氏でしょう?」
それについては入学一ヶ月で既に学内では有名な話だったので、晶はさして不思議にも思わず答えた。
「はい、そうです」
「ということは、おかあさまのお名前は、志帆かしらね」
「……はい」
晶はやはりうなずいたが、今度はいぶかしむようだった。
「旧姓は、三沢志帆?」
「そこまでは知りません」
晶は首を横に振る。
ただ名前は確かに志帆です。父が寝言で名前呼んでましたから。そう言う晶に紀佐はまたしても深いため息をついた。
尾崎竜世。口が堅いにもほどがある。
娘なのだから、それくらい普通に教えてやったらいいのに。
「そこまで何ひとつ知らなかったのですね……旧姓三沢志帆。多分、それで間違いないと思いますよ」
そこでやっと晶は膝を叩いた。
「あ、そうか! 先生ここ長くていらっしゃるから! 母がいた当時のこと、もしかしてご存知なんですね!」
「そうですよ。三沢さんがここにいた時、わたくしは既に舎監としてここにいましたからね」
「うわあっ、そっか」
晶は両手で勢いよく膝を叩いたり、その手で口元を覆ったりして嬉しそうに興奮していたが、そのうちテーブルをぐるりと迂回して紀佐の隣に移動してくるや、感極まった様子で紀佐にひしと抱きついた。
「嬉しい、ここに生き神様がっ」
「……」
沈黙が落ちた。
あれ不穏な気配がするなあ、と思って晶は抱きついたまま紀佐の顔を見上げて言い直す。
「えっと、えー、生き字引き?」
かな、と首を傾げた晶だったが、沈黙は続く。
紀佐は表情を大きくは変えないが、微妙に機嫌を損ねているようなのは晶にもわかった。
あっそっか、とめどもなく年をとってる風の言い回しが気に入らなかったのかなと晶は思って、少々ご機嫌をとってみることにする。
「えっと、失礼しました訂正します。女神様?」
「女王様でしょうそれを言うなら」
間髪入れずに言い返されて、晶は肩をすくめた。
「か……かしこまりました女王陛下」
ひょっとして笑うところなのかと思わないでもなかったのだが、紀佐があんまり真顔のままなので冗談なのか本気なのか区別がつかなかった。
でも『寮母さん』というより、『女王陛下』の方が確かに先生にはぴったりかもと晶が考えた時、呆れたように紀佐が言った。
「気軽にスキンシップとるところも、あなたたち親子はほんとにそっくりです」