2-1 去ったアリス、残るシェリー
屋敷と修道院。
交互に舞台は回転していく。
“シェリー”の花嫁修業は半年ほどの予定であり、半年が経つとその通りに彼女は去って行った。結婚式を挙げ、そしてノアの屋敷で暮らすために。彼女のこれからの幸せを疑う人間はいない。
それがシェリーに扮したアリスである、ということはシェリーだけが知っている。
この半年間、二人でしっかりと準備をした。好みの食べ物、立ち振る舞い、家族構成、全て話した。お互いのことなら空でも言える。
時に入れ替わり、時に元のままで二人は過ごした。性格が度々変わる彼女らを不思議に思う人はいたようだが、よもや入れ替わっているなどとは誰も思わなかったようだ。アリスの長い前髪とひどく自信なさげな猫背に、あえてその顔を確認しようという物好きがいなかったためである。
去る間際、アリスは何度もシェリーに心からの感謝を言って、必ず手紙を書く、と約束した。シェリーもそんな彼女を思い切り抱き締める。シェリーはアリスに深い友情を感じていたし、彼女の慎み深い性格がとても好きだと思っていたからだ。
こうして二人は互いの人生を歩み始めた。
ローラはあれ以来恐れをなしたのか絡んで来なくなった。そのためシェリーがシスターに叱られることは今や皆無だ。
だからシェリーは、悠々自適にだれからも縛られることのない生活を楽しむことができた。
言いつけられた仕事を淡々とこなしながらも、一方で与えられている小さな物置同然の部屋で、せっせとあることをしていた。
ご令嬢達のほつれてしまった洋服やハンカチの直しを頼まれていたが、そこに小さく刺繍をあつらえていたのだ。刺繍はその時によって違う。草木や幾何学模様、蝶など多岐にわたったが、どれも彼女たちにぴったりの模様を考え、似合うようにと念じなが作った。
これが中々かわいらしいと噂になり、シェリーのする刺繍は修道院で暮らすご令嬢達の間でちょっとした評判となった。
「アリス、あなたがしてくれた刺繍のハンカチのおかげで、婚約者と上手くいきそうよ。ありがとう」
全く予期せぬことに、シェリーが施した刺繍は「恋が叶う」と噂されてるらしい。
もちろん恋愛成就の御利益などないただの刺繍で、結婚目前の婚約者のいるご令嬢達は彼らと上手いって然るべきなので、まず間違いなく勘違いなのだろうが、幸せそうな少女達の笑顔と喜びの声を聞くと嬉しくなった。
アリスから手紙が届いたのはそんな折りだ。
“拝啓 『アリス』様
いかがお過ごしですか?
こちらは結婚式を無事に終え、ノア様のお屋敷で生活しています。お屋敷はとても大きくて、立派なシャンデリアもあるし、素敵な家具がたくさんあります。でもちょっと、重苦しい雰囲気です。壁の色と家具とカーテンが合っていないような気もします。ノア様は、好きに代えていいと言います。アリスなら、何色にしますか?
夫となったノア様は留守がちで、あたしは話し相手がいないので一日中本を読んで過ごしています。一度、修道院時代がなつかしてく家事をしていたら使用人達に慌てて止められてしまいました。貴族の奥様は自分で家事をなさらないのですね……。
使用人の皆さんはすごく親切で、生活に困ることもつらい思いをすることもありません。だけどまだ両親を探す手立てはありません。
もうしばらくはこの生活に慣れるのを第一課題としようと思います。
愛を込めて。
あなたの一番の友達の『シェリー』より”
勤勉な彼女らしい几帳面な文字で書かれていた。
手紙の最後にはこう記されていた。
“『アリス』、あなたとの日々はとても楽しかったです。会いたいわ。返事を待っています”
シェリーは思わず顔が綻び、手紙ぎゅっと抱き締めた。一番の友達、の文字が輝いて見えた。
返信に刺繍のハンカチを添えた。彼女の瞳の色と同じ、青い糸を使った薔薇にどうかアリスが幸せになりますように、と願いを込めて。
また、別の変化もあった。手紙を送った直後辺りから、ある人物が頻繁に修道院に出入りするようになったのだ。
初めて彼に気がついたのは、窓の拭き掃除をしていたときだ。廊下の奥から彼が歩いてきた。
その長めのくせ毛、着崩した遊び人風の服装。へらへらと歩く姿。はてどこかで見た顔だったと思った。
シェリーの視線に気がついたのか、軽そうな態度で片手をあげ「やあ」と言った声を聞いた瞬間に思い出した。
「あらあなた、あの痴漢じゃないの」
たしか、アリスと入れ替わりを画策していた頃、何の前触れもなく着替えを覗いてきたので神父に突き出したのだ。
声をかけると、その痴漢はぎょっとしてシェリーを凝視した。
「はあ? あ、君あの時の女の子か!」
合点がいったような表情の後、「あれは誤解だ!」と彼は頭をかいた。それから、不思議そうにシェリーの顔をじっと見る。そうされるとシェリーとしても居心地が悪い。
と、彼が急に一歩歩み寄る。思わず後ずさったため、自然壁際に追い詰められる形になる。そのまま彼は壁に手をつき、そっとシェリーの顔に触れた。
「や、やだ!」
これほどの至近距離で男の人に会ったことなどない。顔は自然と赤らむ。迷惑際なりない不躾なその男は、アリスに似せようと伸ばしたシェリーのすだれのような長すぎる前髪をそっと上にあげる。
「君、ノアの嫁じゃないか?」
(こいつ、勘がいいわね……!)
都合が悪いことにこの男はノアの知り合いらしい。シェリーとアリスが似ていることに気がついてしまった。
ぱっとその男の手を払うと、睨み付けた。
「あんたどこに目玉ついてんの!? わたしはア・リ・ス。ここで世話になってる美少女の孤児よ!」
「はあ」
男は気の抜けた返事をする。
「しかしよく似ているな。他人の空似か?」
なおも彼は疑うようにシェリーを見る。
しかし、この男は何者だろうか。初めてここに来たときはきっとノアの付き添いだったのだろう。
では今日はなんのためにこの修道院へ? もしよくここに出入りするようになれば、顔を見られては何かと都合が悪い。シェリーとアリスの繋がりを知られては不味いのだ。
「あなたは誰? 急に女の子の体に触れるなんて失礼じゃなくて?」
「おっと、そりゃ確かに失礼」
男は一歩シェリーから離れると恭しくその手をとり、そっと口づけをする素振りをした。
「俺は宮廷付き魔法使いのオスカー。以後お見知りおきを、美少女孤児のアリスちゃん」
なんだか軽そうな奴だと思っていると、オスカーは「こうしちゃいられん」と笑う。
「これから修道院長に会うんだった。じゃ、またな」
そういって去って行く彼の背中に、(二度と会いたくないわ)とシェリーは毒づいた。