3-2 苦しい心
シェリーへの手紙で両親の指輪を送ってもらうように頼んだが、まだ彼女からの返事はなかった。
アリスは待つ。ただ、ひたすらに。
手紙を待つ間、ノアの態度は急速に軟化していった。使用人はいれど、大きすぎる屋敷での一人での生活を覚悟していたアリスにとって優しい夫は嬉しくあった。
「君が我が家に来てから随分屋敷が明るくなった」
度々ノアはそう口にした。
「この庭は、両親が丁寧に手入れをしていた庭なんだ。我が家にとっても大事な庭だ。私はそのことを、随分長い間忘れていたように思う」
アリスが手入れした庭園は季節の花であふれかえっている。日の光が差し、柔らかくそこを包んだ。
二人で薔薇の庭園を歩きながら、ノアはアリスの手を取る。
「これからは、二人で生きていこう。初めからそうすべきだったが、私は小心者の上に臆病で。君を遠ざけてしまった。本当にすまない」
「ノア様……」
ノアの唇が、アリスの唇に触れる。結婚式以来、二度目のキスだった。心臓が鼓動する。
アリスはいつかシスターから庇ってもらってからというもの、密かにノアに憧れていた。だから彼がそばにいると満たされたし、心から恋をしていた。
しかし、彼が歩み寄れば歩み寄るほどに、一方では苦しさが募っていった。
(あたしは、嘘を付いている。本当はここにいるべきお方は本物のシェリー様だもの。あたしはその権利を奪って、ノア様を騙して愛を搾取しているんだわ……まるで人を欺く魔女のように)
ノアが見ているのはアリス自身ではない。その向こうにいるシェリーだ。自分は代わりでしかない。たとえ彼が気がついていなくても。
「シェリーがいると、家に帰るのが憂鬱ではなくなるよ」
心苦しさなど知らないノアが端正な顔を微笑ませる。アリスは思わず目を伏せた。
近頃、領地に関するあまりよくない噂を聞く。だからかノアもひどく疲れていることが多かった。
たびたび家に来るオスカーによると、どうやら魔女がからんでいるという話だ。
一人の強大な力を持つ魔女が領地付近に潜伏しており、その魔力にあてられた他の魔女も集まってきているという。それが悪さをしているらしいのだ。強大な力を持つ魔女自体はかつてから存在していたらしいが、十数年前にピタリと消息不明になり、それがこのところどうやら活動を再開したらしい。
アリスにとってはぴんとこない話だが、魔法使い達にとっては大変な問題らしく、昼夜なく働いてもまだ人手が足りず、魔法の才能がある人間を見つけるやいなや即座弟子にしなければ間に合わないほどだと言う。
そんな状況を知っているから、余計にノアには負担をかけられなかった。わずかでも、自分の存在で彼が癒やされるのであれば、“シェリー”として、これからも彼の隣にいようとアリスは思った。
だが。
(ノア様が優しいのは、あたしをシェリー様だと思っているから……)
その暗い気持ちだけは、いつまで経っても拭い去れなかった。
* * *
目の前の友人に、ノアは酒を注いでやる。
「よう、中々上手くいってるみたいじゃないか」
からかうようにオスカーは言う。もちろん結婚生活についてだ。
ふらりと屋敷を訪れたオスカーは当然のように夕食の席に付き、それからノアと二人で酒を飲んでいる。ふてぶてしい、という言葉がぴったりだが、それを許しているのはノアだった。
「おかげさまで」
「シェリーちゃんは先に休んでる?」
「ああ、お前の相手に疲れたんだろう」
嫌味のつもりだったが、屋敷に来る前から既に酔っていたオスカーはケラケラと愉快そうに笑っただけだ。
ノアも笑う。幼い頃からよく知っている彼を、実のところ弟のように思っていた。
軽さは相変わらずだったが、以前よりも幾分かやつれたように思う。激務がたたっているのだろう。さすがに心配になる。
「仕事は忙しいのか」
「おかげさまで」
先ほどのノアの言葉を返される。
(言う気はないということか)
オスカーは仕事の話を嫌っている。ノアも無理に聞き出すことはしない。
と、オスカーが珍しく赤いタイをしているのに気がついた。
「最近できた弟子が、作ってくれたんだ」
尋ねると、彼にしてはやや照れくさそうにタイをいじる。
「弟子は女か」
「ああ? ……ああ。そうだけど、なんで」
「なんとなくだ」
男から貰ったものを身につける奴ではない。
ノアは内心苦笑した。
もしかすると、恋人か、それに近い関係なのか。
しかしオスカーはそれから真剣な顔になった。
「……なあ、ノア。
もし正義を成すことで、自分の大切な人が傷つくとする。そんなとき、お前ならどうする?」
オスカーの言葉は思いがけず切実で、ノアは言葉に詰まる。するとすぐに「いや」と否定された。
「なんでもない、忘れてくれ」
「もしどういう状況になっても――」
空になった自分のグラスに酒を注ぎながらノアは言う。
「私は少なくともお前の味方だよ」