2-5 幸せの兆し
結婚式以来、ノアは屋敷を留守がちにしていた。
「旦那様は今事業が過渡期なのでございますよ」
ヒマそうな若妻を老いた使用人頭が気遣うようにそう言った。アリスとしては気にしていなかったが、傍目から見ると妻に興味のない夫は異常に映るらしい。
「分かっていますわ」
にっこりと笑い返す。
寂しくないと言えば嘘になるが、好都合だった。
留守がちな夫では入れ替わりに気づかれる心配がない。おまけにこっそりと両親を探すこともできる。
しかし。
「あたしって、なんて馬鹿なの」
たった一つの手がかりである、指輪を修道院に残してきてしまった。
旅立ちの時、緊張と不安で確かめる余裕すらなく、今日までも生活に慣れるのに神経を割き、置いてきたことに気がつくのが遅くなってしまった。
「なんのために入れ替わりまでしたんだか」
両親の行方を知る、それ以外にアリスの目的はない。修道院に行くと怪しまれるかと思い、シェリーに手紙を書くことにした。返信の手紙に指輪を入れてもらうように。
家の事は一切任せると言われているが、修道院の狭い自室しか知らないアリスには途方もない大きさのこの屋敷をどう任されたらいいのか困り果てた。
まずは、と思い使用人頭に家の案内を頼む。
たくさんある部屋のほとんどは使われていないらしく埃を被っている。いくつかの部屋のカーテンも変色していて、照明にすら蜘蛛の巣が張っている始末。庭に至っては、かつては美しい庭園だったのだろう、しかし今は雑草だらけでさながらお化け屋敷だ。
これでは気分も沈んでくる。
「掃除をしようと申し出るのですが、必要のないことはしなくていいと。客人といえば、宮廷付き魔法使いのオスカー様くらいですから」
使用人頭の言葉に結婚式で早々に酔っ払い、大声で叫んでいた巻き毛の彼の姿を思い出す。ノアと性格は真反対のようだが、意外にも気が合うのか。
「幼なじみなのでございますよ。家族を失った幼いオスカー様の魔法の才能を先代様が見いだして、知り合いの魔法使い様にお預けになられたのです。以来の仲です」
アリスの疑問に答えるように説明がされる。
(じゃあ、これからもたまにオスカーさんに会うのかしら?)
その予想は、当たっていた。
ノアがいない時分、ふらりとオスカーが現れたのだ。夫は不在と告げると、
「へえ。こんなに美人な奥さんを放っておくなんて、あいつも馬鹿だな」
そう言って、にこりと笑みを見せられる。
「夜には帰ってくる? じゃ、待たせてもらうよ。あ、おかまいなくシェリーちゃん。酒の場所ならばっちりさ。この屋敷のことなら多分君よりも知ってるから」
そう言って、軽快に地下の貯蔵庫の方に向かって行く。軽い調子に本当にノアとは正反対だと思いながらその背を見送っていると、くるりと振り向かれる。
「噂に聞いていたシェリー嬢と君って、全然違うね。やっぱり、人の噂って当てにならないんだな。または、外側だけ似せた別人だったりしてね」
さっと、アリスの肝は冷える。
一方のオスカーは「なんて、冗談冗談」と大声で笑いながら再び歩き去っていった。
* * *
ノアは一人、深いため息をついた。
近頃領地内外の様子はあまりよくなかった。方々で疫病や不作の話を聞く。別の場所では反乱も起こっているという。だから、このところノアも塞ぎがちであった。
ノアが帰宅したのはとうに夕食の時間を過ぎた頃だった。
(シェリーはまだ起きているのだろうか)
前もって知っていた情報とノア自身の体験を合わせた事実にしては意外なことに、彼女は貞淑な妻であった。ノアが帰る日は夕食も食べずに待っているのだから。
高飛車で自分勝手、気が強いシェリーの印象からは考えられないほどだった。
屋敷に着くと、玄関口まで聞こえるほどの大きないびきが鳴っていた。
(ああ……来ているのか)
間違いない、あの幼なじみが来ているのだろうとすぐ分かる。使用人頭に尋ねると案の定、酒を飲み過ぎて応接間で伸びているとのことだ。
いつも彼を唯一清掃している客室のベッドに運び込むのがノアの役目だった。
応接間に行くとやはりでかでかとソファーで寝ているオスカーと、またしても意外なことに困った顔をしたシェリーがおろおろと彼を揺さぶっていた。
ノアに気づくと泣きそうな顔になる。
「ノア様、どうしましょう。オスカーさん寝てしまって何度揺さぶっても起きないのです。ここにいては風邪を引いてしまいますわ」
「オスカーの心配を? 君が?」
信じられずに思わず尋ねると妻はさらに悲しげな顔をする。
「ご、ごめんなさい。あたしのような女が心配するなんて差し出がましいですよね……」
そう言って、オスカーからぱっと体を離す。
(いや、君が想定外に優しいことを言うから驚いたんだ)
とはまさか口にはしない。
「気にするな。こいつはいつもこうなんだ。大抵、仕事で『嫌なこと』があった時は私の屋敷に来て、大酒を飲んで寝てしまう」
『嫌なこと』について、詳細を聞いたことはない。しかし後から検証すると多くの場合、魔女かまたは魔女に使い魔として操られていた人を殺した時だ。
オスカーは常に強くいるが、その実弱い人間だった。躁病患者のようにハイになっているのはそうしていなければ精神が潰れるからだと、長い付き合いのノアだけは知っている。
ノアは近くのコップの中身をオスカーの顔にぶちまけた。
「うわ、な、なんだぁ」
冷水を浴びせられてもまだ寝ぼけているオスカーを半ば無理矢理抱え、客室まで引きずっていき、ベッドに放り出した。乱暴に扱われたにも関わらずオスカーはまた寝息を立て始める。
「これでいい。明日には帰るだろう」
着いてきたシェリーにそう告げると、彼女は優しく微笑んだ。
「お優しいのですね。お友達思いですわ」
「こいつが? かなり自分勝手だぞ」
彼女は目を大きくしてからまた笑った。
「いいえ、あたしが言ったのはノア様のことです」
オスカーの相手が疲れたのかシェリーは早々に眠りにつき、まだ寝る気のないノアは一人で本でも読もうと応接間に向かう。
そして窓から見えた庭の景色に、はて、と疑問に思った。
起きていた使用人頭を呼び止めて、尋ねる。
「あの庭、どうしたんだ?」
庭は雑草だらけで長い間放置されていたはずだ。しかし今、そこには美しく咲く花々が見える。
「この屋敷、何かが変わったか? なんだか明るくなった気がするんだが」
使用人頭は頷く。
「ようやくお気づきになられましたか。シェリー様が庭園の手入れを……。わたくしはうれしゅうございます。先代様がそれはそれは大事にされてきたお庭でございますから……」
常に冷静な使用人頭にしては珍しく、目を赤くしている。よほど思い入れがあったらしい。
ノアにしても、幼少遊んだ庭にはそれなりの思い出はあったが。
「それに、屋敷の使用されていない部屋までも、シェリー様ご自分で掃除されたのですよ。わたくしどもが何度止めても『趣味ですから』と。カーテンや絨毯も明るい色のものに新調されて……」
驚いて、また屋敷中を見渡す。確かに、所々の暗い雰囲気は消え去り、カーテンも明るい色になっている。そのためか夜である今でさえ月の明かりを捉えそれが家の中まで届いていた。
「はあ、あのシェリーが……」
「旦那様。あの方はあなた様が考えておられるような方ではございません。こころ清らかで、使用人の名も覚え、いつも優しく声をかけてくださいます。旦那様の不在も、寂しく思われておりますよ。本当に素晴らしく純粋なお方です」
平素意見などしてこない使用人頭がいつになく強い調子で言うのだから、嘘ではないのだろう。
先ほどのシェリーにしても、優しくノアに微笑みかけた。その笑顔のどこにも邪気はない。
(『純粋なお方』か……)
確かに、そうかもしれない。
(意地を張り、高飛車な態度を取っていたのは私の方か)
先ほど彼女に笑みを向けられた瞬間、固く凍っていた心が解けていくようだった。
これからはシェリーときちんと向き合ってみよう、とノアは思った。
いくら双方打算的な結婚だとしても、夫婦として共に人生を歩んでいくのだから――。