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【♢】
「………るちゃん………! ………薫ちゃん!」
パパがわたしの名前を呼んでいるのに気が付きハッとする。
「―――秀くん。………なに?」
テーブルを挟んで座っている五十代にしては若いおじさんの顔が映る。
ここは都内でも有数の海鮮料理屋の中にある個室だ。
目の間の彼―――パパがよく連れて来てくれる行きつけの店でもある。
「どうしたの? 食事、もしかして口に合わなかった?」
パパは、テーブルを彩る豪華な海鮮料理の殆どに手を付けていないわたしを見て、心配してくれているようだった。
―――新鮮な伊勢海老の活造りに、国産牛フィレの石板焼。どれも大好物だ。
「ううん。ごめん。ちょっと、ぼーっとしちゃって………」
「そっか。今日はいつもと違うもんね」
そう言って私の着ている制服を見る。
いつもはお互いに学校や仕事がない休日を選んで会っているのだが、何故か今日は、パパが「直接会って話したい」などと言い出したので、こうやって学校帰りで制服を着たまま、ここまでやって来たのだ。
正直、こうやって改まって話しをしたいと言われた時点で、わたしは「そろそろかな」と、直感したが、今のパパは有名企業の幹部ともあって羽振りがいい。
他のパパと別れて半年くらい一筋だったのもあって、今日会うのを断りきることができなかった。
わたしは嫌な予感を胸に抱きつつも、いつものように笑顔を顔に張り付けて食事を再開する。
「おいしい?」
「うん! いつもこんな美味しいところに連れて来てくれてありがとう、秀くん」
わたしがいつもの調子に戻ったのを見て、パパも安心して自分の食事に戻った。
黙々と二人の食事の時間が進んでいく―――。
食後のデザートがテーブルに運ばれてきた後、パパは温かいお茶を一口だけ含んでから、話を切り出した。
「―――薫ちゃん。実は昨日、嫁に離婚届を渡してきた」
突然襲い掛かってきた言葉に、わたしは耳を疑う。
「………え? 嘘でしょ?」
思わず聞き返すが、パパは頭を振る。
「嘘じゃないよ。この前、俺が嫁と別れようと思ってるって話をしたとき、薫ちゃん、冗談だと思ってまともに取り合ってもらえなかったから。先に離婚して、あの話が本気だって分かってもらいたかった」
胸の中にあった不安が見事的中して、わたしの視界がどんどんと遠のいていく。
―――やらかした………。
後悔が波のように押し寄せる。
神パパだと思って依存した結果、このざまだ。
奥さんがいて、もうすぐ二十歳になる子供もいるから大丈夫、なんてたかをくくっていた過去の自分が恥ずかしい。
そんな環境に身を置きながら、パパ活に手を出している時点で常識人なはずがないのに。
「―――薫ちゃん、それでどうかな? 結婚は卒業まで待つから、その二年の間、俺と付き合ってほしい。俺は、君とずっと一緒にいたいんだ」
年甲斐もないキザな告白に、わたしの身体は寒気で震えた。
人間、四十五十を過ぎると、頭がお花畑になる連中がいるというのは間違いじゃなかったみたいだ。
神パパから豹変した地雷パパは、これから起こり得るであろう奥さんからの復讐など全く頭に無いような呑気なことを口にしている。
「どうって………そんなの無理に決まってるじゃん! 付き合うとかは無しって最初に決めてたのに、なんで急に………!」
「もちろん、卒業まではこれまで以上に援助できるし、結婚すればそんなこと気にしなくていいんだ。なんの問題もないでしょ?」
あまりにも能天気な発言に本気で呆れる。
「卒業までって、奥さんは代表の娘さんでしょ⁉ そのまま会社を続けられるわけないじゃん!」
もし相手の奥さんが探偵でも雇ってわたしの事が周りにでもバレたら、わたしだって今までの生活が送れなくなる。
おそらく学校は変えなきゃいけなくなるだろうし、なにより、この稼ぎができなくなるのが一番辛い。
今すぐ、こいつとは縁を切るべきだろう。
そう考えたわたしは鞄を持って帰る準備を始めて地雷パパは驚く。
「どこ行くの薫ちゃん?」
「―――さよなら。今までの事は全部忘れて」
ここから去るために、わたしは短い挨拶だけ残して席を立つ。
このまま個室から出ようと歩き出したのを見た地雷パパは、突然すれ違いざまにわたしの鞄を掴んで声を荒げる。
「―――待てよ! 俺は家庭を捨ててきたんだぞ! 今すぐ席に戻れ!」
地雷パパは自分が振られたのを受け入れられず、急に表情を一変させて席へ戻るよう力ずくで鞄を引っ張った。
「知らない! 放して!」
わたしも貧弱な力を振り絞って全力で抵抗する。
「この―――ふざけんなよッ!」
パァン! という乾いた音が響く。
「―――ッ⁉」
右頬の衝撃が走り驚愕する。
なかなか言うことを聞かないわたしに痺れを切らし、地雷パパが平手打ちをかましたのだ。
「―――え………?」
初めて男性から振るわれた直接的な暴力に、わたしは激痛が走る右頬を抑えながら呆然とする。
「おら! こっちにこい!」
それを見てチャンスだと感じた地雷パパは、わたしの肩を掴もうと腕を伸ばす。
「………っ‼」
地雷パパの浮かべる鬼気迫った表情にわたしは命の危険を感じ、素早く鞄から手を放し、一刻も早くここから逃げ出すことを選択した。
勢いよく個室から出てきたわたしを見て、お店の従業員や他のお客さんがなにごとかと視線を向ける。
普段ならここでたじろいで足が止まってしまうところだが、早くこの場から逃げ出したいわたしは、降り注がれる視線の数々を全力疾走で掻き分けながら、雨が降るしきる都心の夜へと逃げ込む。