The World Outside 1/1
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楓と時雨が立ち去った場所にイナバは立っていた。
その視線の先では飛び散ったはずの光が再び1箇所に集まり、強い光を留め、鮮血のような赤へと彩られ、要塞海月の情報が再集合したとは思えないほど小さな海月が姿を見せている。
宙に浮いており海月を模した形状なのは変わらないが、その大きさはイナバの身長よりも小さなもの。透明ではなく透き通った赤で満たされており、触手の数も遥かに少ない。
そして、イナバの手には刀が握られていた。それはイナバが持っていても違和感のない大きさだが、赤黒く染まっている。
「妖精海月か」
そんな場所に女性が1人。いや、2人。
「手出しをするつもりはなかったのですが、これは我らが国の驚異となりえます」
ショートの黒髪と同様の夜闇のような黒い瞳を、真っ赤な海月『妖精海月』へ向ける長門。
腰下まで伸びる黒髪と同色の黒曜のような瞳を、日本国の脅威『妖精海月』へ向ける仁淀。
しかし、その服装は普段、街で見られる姿とは異なっていた。
長門は和服。それも海色と、より色の深い深海色とした着物を纏っている。
仁淀は、まるで一昔前の将校を思わせるような服装。しかしながら色合いは長門のものと同様に海色と深海色としたものを纏っている。
そして雰囲気は引き締まっており、声音も女性の高いものでありながら重く感じられるものだった。
「私がこれを放置して、楓達のもとへ向かうと思いましたか?」
イナバは視線を妖精海月からそらすことなく、2人へ問いかける。しかし雰囲気も声音も、普段と同じく他の魔物と相対している時と変わらない。
「思わないから来たのだがな」
「あと恩を売りに」
しかし返す2人は軽い言葉には似合わない声音をしており、ピリピリと震えるような雰囲気を纏っている。
「別に行く必要はありませんでしたから。行ったところで何もできない、それならば後顧の憂い程度は無くしておこうかと」
「……最期を見届けなくていいのですか?」
「見捨てる選択をした私に、その資格があると?」
なおもイナバは普段と変わらない。ただ時計が針を進めるのを眺めるが如く、当然の出来事を眺めるように。
「どうだかな。まあ必要でないのならば、その妖精海月との戦闘を譲ってはくれないか? 流石に腕が鈍りそうだし、なにより情報が欲しい。ドロップアイテムはそのまま譲渡するが、どうだ?」
「私が少しつついてしまいましたが、それでもよければどうぞ。ドロップアイテムも今の私達には過ぎたるものです、そちらで管理してください」
そう言った直後、イナバの姿が消えた。直後には少し離れた位置、そこに生える大きめの木の枝の上へと腰掛けている。
「それでは遠慮なく」
そう言った仁淀は右手に刀がしまわれた鞘を展開し、地面に突く。本来は鳴るはずのない「コンッ」という音が響けば、仁淀の周囲にいくつもの金属人形が姿を現した。地面が光り魔法陣から這い出てくるのではなく、光の粒子が集まり姿を形作るのでもなく、まるでずっとそこにいたかのように一瞬で。
鉛色をしたマネキンのようなそれは、各々で装備が違う。刀を持っていたり、槍を持っていたり、銃を持っていたり、盾を持っていたり……ではなく、即座に展開された流線型をした装甲が違うのだ。
それはいつかの領土獲得戦、決勝戦で見られたものに似ている。竜人族2人を相手に"接待"していた時のものとはまったく違うもの。
「私は防御面を。長門は攻撃面を」
「承知した」
そう言った長門はその場から動かない。仁淀が展開したパペット達は即座に行動を開始し、1秒を待たずしてその手に持つ槍を妖精海月に突き刺していた。
いや、突き刺そうとした。しかし妖精海月の膜に触れた槍はそっと置かれたように動きを止める。同時に斬り込まれた刀も同様に動きを止める。
「要塞海月の膜程度なら貫けるものだったのですが……さすが変異種」
パペット達は止まったあとも力を込め続けている。背負ったブースターから推進力を得て突破しようとしている。しかし膜に触れた武器はピクリとも動かない。
代わりとでもいうように妖精海月の真っ赤な触手が振るわれた。それは何にも当たらない空を切るような軌道を描いていたが……何も起こらない。コンマ1秒にも満たぬ時間を経て、もとの位置に戻っただけだ。
「ほお、概念攻撃か。範囲も威力も驚異的で要塞海月が可愛く思えるな」
「水玉なら盾持ちが余裕をもって受けられるのですが、どうですか?」
「盾が折れ曲がり吹き飛ばされる程度で済むのではないか。まあ盾で受けられればの話だが」
問いかけた仁淀も答えた長門も1歩すら動いていない。周囲に展開されたパペット達は今もブースターから推進力を得て武器を先に進ませようとしている。
「汎用攻撃程度では穴がありませんし防御面も耐性がバッチリです。それに加えて概念攻撃となると、以前と同じくランク8は確定……もう少し試します」
「ああ」
その会話が行われている間にも妖精海月の触手は振るわれている。この場にいる"すべての脅威"に向けて。ただ長門の防御を通過できないだけだ。
パペット達が手に持つ武器から様々な色の光が放たれる。銃からは炎の玉は水の玉が放たれたり、銃口から妖精海月に雷が落ちたりと場が騒がしくなった。
「あの銃はユウバリのものか?」
「いえ、領土戦の時に見て真似てみたのですが……使った素材を考えると稚拙なものです。いったい何年の差を埋められたのか……笑ってしまいます」
「やはり片手間で学んだ加工でしかないということか。まあ私よりはマシなのだ、諦めろ」
長門は軽く手を振りながら、そう答えた。
「やはり、こちらに所属してもらいたかったですね」
「どうだか。あちらに所属していたからこそ、今の彼女があるのかもしれない。イナバを除いたとしても、日本における情報体加工、その頂点たる3人のうち2人。日本の旗印、その片割れから1つ欠け。世界の最高戦力から1つ欠け。才能を期待するには十分を超えて恐ろしくすら思えてくるメンバーだぞ?」
「しかも欠けているメンバーすら、どうせそのうち召喚されるでしょう。イチハだけでもこっちに来てくれませんかね」
「難しいだろうな。しかし今回でも出てこなかったとなると……どれほどの脅威を前にすれば出てくるのだ、残りの皆は」
「何を言っているのですか、長門。満身創痍ながらも突破できているのですから、出てこないのは当たり前でしょう? やはり楓ちゃんが引っ張りすぎているのかもしれませんね」
「いや、楓ちゃんよりもイナバのパートナーのユウくんだろうな。だから2人して離れたのかもしれないと考えている」
「大天狗はついでだと?」
「大天狗も同じなんだろう。やはり大天狗と金孤や刑部狸では差がありすぎる」
長門の言葉に考え込むような様子を見せる仁淀であったが、直後には驚いたような表情を浮かべる。
「……イナバ。つついたとは何をしたんだ?」
長門は呆れたような表情を浮かべて、離れた場所にいるイナバに問いかけた。声の届くような距離ではなかったが、しかしイナバは口を開く。
「いえ、とりあえず完全な情報体を確保しておこうかと思いまして。まだ余裕があると考えていた、にぃの落ち度では?」
「……それを言ってくれれば良かったのでは?」
仁淀は萎んで膜だけとなり、光の粒子となった妖精海月を見届けながらそう言った。そして振り向き、恨めしそうな表情をイナバへ向ける。
「しかしまあ、前回とはまったく別物ですね。姿形は同じで、出現するタイミングも同じだというのに……こうも違うとは」
仁淀は視線をイナバから妖精海月が居た場所へと戻し、そう言って「はぁ」と額に手を当てる。
「……まあ楓達の暮らしている国です、教えておきましょうか」
イナバが小さくそう呟けば、2人の視線がそちらを向いた。ここで聞き零すような2人ではない。
「完全な情報体を取得するための条件は同じでした」
その言葉に2人は唖然とする。輝夜が有していたデータベースへの登録漏れがなければ、この妖精海月は3体目である。それは姿を確認されたのが3体だけという意味であり、そのすべてを倒しているという意味でもある。
そして、完全な情報体を得る条件は数百を超える数を検証してようやく辿り着けるものだった。少なくとも仁淀にとってはそうだった。
「まあ、この魔物に関してあなた達と私では得ている情報が違いますから」
仁淀の記憶によれば登録されていた2体の発見者名はイナバと長門。両者ともにその場で対処を完了していたはずだ。
だからこそ、2体目と戦った長門は顔を悔しさに歪めた。長門が戦った妖精海月は何1つ、欠片すら情報体を残さなかったのだから。
「……長門。私はそんなあなたの友でいられて誇らしく思います」
小さな呟きが風に流れる。俯いたのは僅かな間だったというのに、長門の視界からイナバの姿は消えていた。
「……届かぬとは思いたくないものだな」
「まあ、すべての足を止めさせなかったイナバですから。あのスペックでできる以上、適性さえあれば誰でもできてしまう。それを見せつけられ、実際にできてしまっていた。ゆえに誰も足を止めることは許されなかった」
「怖いよな。届くという結果だけが見えていて、その道のりのすべては見えないのだから。それ以上に、あの状況にあったイナバに旗を強いてしまった事実が」
「だから日本という国は、あの7人が笑顔で暮らし続けられる場所にならなければいけません。それですら日本という国がしでかしたことを考えれば足りませんが……別に罪を消すための行為ではありませんから。どうせあの日本はもうありません、終わったのです」
きっぱりと別れを告げるようにそう言った仁淀は貴重な妖精海月の情報体を回収し終えたことを確認した。そして、2人揃ってその場から立ち去る。
それらを見ることができた眼は少しだけ。ただ1人の戦場を見られた眼は僅かだけ。