要塞海月 2/3
大規模な森の中、その一箇所に開けた場所があった。周囲は緑が生い茂っているのに、そこだけはおたまで掬ったかのように緑が少ない。その緑も周囲のものとはまったく違っていて、ゆらゆらと踊るようなそれはまるで、あの海藻を思わせる。
そして上空。見上げた空には透明な傘が1つ。いや、1体。
大地から空を眺められるほど透明で、ひとめ見ただけでは見逃してしまうだろうその魔物。しっかりと見てもすべての境界線を見分けられないかもしれない、その魔物。
逆さにした金魚鉢を思わせる形をした膜はアルファ世界のどの生物をも丸呑みにしても有り余る容量をしていて、下に広がる口からは大きな触手を何十本も漂わせている。しかしそれは幻であり、現実であり。戦闘になれば増やしたりもするのだから数に意味などないのかもしれない。
ある世界の伝承にはこうあった。幾数多の触手を避け辿り着けど、その先では動きが鈍り世界が潰そうとしてくる、と。
透明なその魔物には唯一、色に染まっているものがある。中央に浮かんでいるようにみえる、暖かな光をばらまく太陽のような球体が。
周囲の空間を考えれば存在するはずのないたとえなのだが、それでもその核にはそれだけの魅力があった。だから幾千人も挑み、怒らせ、1人の戦士が討伐するまでにいくつもの村や町が消えていった。
それゆえに与えられたランクは8。国すら食らうとされる、下から数えて8番目の驚異。
だから平和な国で暮らしていた少女達が敵うはずはないのだ。それでも少女達は挑むのだ。
『まだだ!』
黒髪の少女は刀を振り抜き、目の前に飛来した水の玉を両断する。それは2つに割れ、少女を避けるように左右に別れて地上に向かった。
小さな触手から放たれたそれは次々と飛来する。少女を飲み込もうと殺到する。
『厄介な!』
両手に小型の銃を持つ緑髪の女性は、踊るように狙いを変えてそれらの引き金を引く。放たれた弾は水の玉とぶつかり、1つの固体となって地面に落ち消えていった。
放たれた別の弾は同様に水の玉とぶつかり、取り込まれ、その水の弾は軌道を僅かに曲げた。
『っ!』
曲線が多く見られる、まるで機械のような装甲を纏った女性が力を込めた1歩を進める。しかし直後に振るわれた透明な触手の軌道から避けるために1歩を下がった。そして触手が通ったあとには大きな水の玉が残っていて、その女性と、女性の後ろにいる似た装甲を纏った少年へと向かい進み始める。
女性はなんなく避け、少年は高度を変えることで通り道から離れた。
『くっ!』
2人から離れた森の中、そこにいた緑髪の少女は迫る水の玉に大槌を振り下ろす。ドンッという音とともに水の玉は急落下して、地面には窪みが刻まれた。周囲を見ればそれはいくつもある。
『行って!』
魔物から見て緑髪の少女のさらに後ろ。青い髪の少女は身の丈に似合わない大きな弓を握り、同様に大きな矢をつがえ、それを飛ばす。矢は風を切り音すら置き去りにする勢いで進むが、ある境界線から先で急に減速し、膜に辿り着くこともなく透明な触手に払われた。
魔物が侵入者を発見してから1時間は経過しているが、それらのものを排除できない。しかし、それでいい。
魔物は真下にある門に近づくものを排除するだけで、近づけないのならばどうでもいい。このまま繰り返していても無尽蔵に同様の行動を行える魔物にとって、突破できる力がないものは驚異ではない。
そんな様子を千里眼で見ていた楓は焦っていた。勝てる勝てないではない、時間がないのだ。
1人減れば時間的猶予も減ってしまうが、安全を考えすぎれば突破できない。それどころか危険に足を踏み入れても突破できるかどうか。勝てる道筋が見えていれば『行って』と指示を出せるが、それは見えていない。
思えば第3陣だけでここまで戦えている今の状況すら上出来なのだ。第2陣の集団であっても手を焼くどころか、ぼろぼろになってログアウト寸前で敗走するような相手なのだから。
しかし、それでも……足りない。上出来で満足するつもりはないし、止まるつもりもない。最高には届かなくとも、最善までは掴み取るつもりでこの場に立っている。
だから楓は考えなければならなかった。
倒す必要はないはずだが、倒さなければならないような気がして。通り抜けた先、深海の情報に包まれたその場所でも行動はできるが、そこで行う開門の儀を終えられるかどうか。近づくほど激しさを増す攻撃を見て、それが可能だとは考えられない。
倒すには核に干渉して、破壊できるだけの手段がいる。近づけば干渉はできるが、近づけない。破壊できる手段はあるが、干渉できない。最初の1歩がことごとく足りない。
迫りくる水玉を縮地の法で避けるが、だんだんと可能な距離が狭まってきている。相手の領域がより強まっている証拠だ。それでも考え事をしながら避ける余裕はあり、逆にいえば考え事をするならここが限界だともいえる。
『……四葉。今のままで間に合うと思う?』
楓は思考の合間を埋めるように、なぜか四葉へと問いかけた。
『戦闘開始から今までの進行具合から考えて、まず無理。むしろ体力や精神力の損耗を考えれば、ここから先は後退になると思う』
その答えを聞いて、楓はなぜ聞いてしまったのかと後悔した。そして、そこでようやく何を求めて問いかけたか理解する。戦い慣れているであろうユウバリやイロハに聞かなかったのは的確な答えを求めていなかったから。だから、その2人を除いて最も魔物と戦っている四葉に問いかけた。
『今のペースなら可能性はある』、求めていた言葉はこれだったのだろう。
その言葉が皆に伝わった直後、皆はさらに1歩を踏み込んだ。今までは後退して避けるという選択をしていた攻撃に対して、踏み込んで避けきるという選択をするようになった。身体が悲鳴をあげるほど引き絞っていたはずなのに、それは1段階、強められた。
だから、ただ待つしか無い1人が涙する。それでも敵を向き、強き意志を秘めた視線で貫く。
皆、無茶はしないで。楓はそう言いたかったが、それは許されない。皆の覚悟を、決意を侮辱する言葉だからだ。
なにより――楓が最も踏み込んでいた。皆が1歩踏み込む間に2歩どころか10歩の距離を進んでいる。周囲を飛び回っている水の飛沫に意識を回すのをやめた。致命傷となる水玉と触手は避け、腕が吹き飛ぶ程度の飛沫は受ける。それでも重要な場面での回復に魔力を使いすぎないように、直撃だけは可能な限り避けるように。
その結果、体中に赤い線を刻みながらも、時には赤い液体を振りまきながらも、先程までよりも早く近づくことができていた。
だから実感してしまう、足りないと。
今もまた踏み込み体中に痛みを走らているが、それでも足りないものは足りない。より激しくなる攻撃を考慮しなくとも、今の攻撃を続けられていれば辿り着く前に身体が無くなっている。
『楓ちゃん、出すぎです!』『楓、止まりなさい!』
その様子は戦い慣れているであろう2人が思わず制止するほど酷いものであった。原因となって発言をした四葉に至っては何も言えず、顔を青くしている。
しかし付き合いの差か。最後の1人は違うことを言葉にした。
『それでこそ楓だよな。私も臆病になっていたようだ』
刀を持った黒髪の少女『凛』だけはさらにもう1歩と、踏み込んだ。飛沫により刻まれる裂傷が一気に増えるが、止まらない。次の瞬間にはもう1歩と進み続ける。
そして楓はそんな彼女を見ても止めない。彼女に回復の手段が無いのを知っているはずなのに、自分と同じく身体を無くす運命をたどると予想しているはずなのに、止めない。
致命傷を与えてくる水飛沫から致命傷を避け、死を与えてくる水玉から死を消し去り、魂を掴む触手に魂を触れさせず。2人の少女は戦闘中に急成長したかの如く進み続ける。
気づけば最も近づいていたユウバリは3番目になっていた。
『あ、あはは。さすが日本の旗印、その片割れ。それが本当の強さってことでしたか』
とても小さく呆れたような声の呟き。しかし、それを言ったユウバリは笑っていた。
そして、それを聞いた1番目は
『っ! ユウバリさん、守って!』
気づけばユウバリの隣に存在していた。
あまりの行動に1歩だけ反応を遅らせたユウバリは、それでも飛沫を少し通すだけで結界を展開してみせる。この進行具合であっても飛沫を完全に遮断する結界を。さすがに水玉と触手は対応しなければならないが、最も先を進んでいたはずのユウバリはこの情報体を作り上げていたのだ。
周囲の警戒を忘れず、足を止めたユウバリは楓に顔を向ける。千里眼は周囲を見ているので肉眼しか余っていない。そして口を開き問いかけようとして……ぞっとした。
楓は今、すべての防御手段を展開していないのだ。魔法による防御も、情報体による防御も、ユウバリが把握できるものは何1つ。
当然、ユウバリが知らない防御方法などいくつもある。しかし、楓が今まで使っていた防御方法はすべてユウバリが知っているもの。これだけをここまで温存しておく意味はない。
思わず結界の出力を無駄に1段階、引き上げてしまったユウバリは別の問いをしようとして、口を閉じる。楓のあまりに真剣な表情が問いという雑音を入れることを止めさせたのだ。
そのまま数十分が経過して、進み続けていた凛すらもついに歩みを止め、四葉とイロハは後退すらしていて、翠は疲れ果てながらも大地に槌の杖をつくことでなんとか立っていて。
ユウバリはその間、すべての攻撃から楓を守りきっていた。自らは血まみれになりながらも、楓には衝撃の1つすら通さなかった。
『ありがとう、ユウバリさん。そしてお待たせ』
とても綺麗に響いた声は疲れ切った皆に勝利を予感させる。
『私は今ここに、輝夜の旗を掲げる。諦めきれずも胸に沈め、夜な夜な恐怖に目覚めてしまう少女に最高を届けるという理想を語る』
皆が楓の言葉に耳を奪われる。敵前だというのに貴重な聴覚すべてを傾ける。
『明けない夜はない。ただ、時計の針を1つ進めてみせよう』
死という終着点を乗り越えて、続く時間へと。
言葉が紡ぎ終えられた瞬間、皆の身体に力が漲った。疲れはて今にも倒れてしまいたいと思わせる身体が、先へ先へ進もうと願ってくる。
楓がユウバリの呟きから思い浮かべた勝利の1手。旗という所属による共有記号を基礎とした全体強化。
刻まれた名は『輝夜の旗印』。
なんのことはない。勝てないならばより強い人ならどうするか想像すればよかったのだ。ちょうどつい最近、護りにおいてほぼ最高ともいえる情報体の端を知ったではないか。
そのすべてを再現できずとも、欠片程度は再現できる。そして本来ならば足りない部分を万能の適性で補えば問題なかった。
輝夜の防御方面総隊長『長門』の力の一部を、今ここに。日本に所属するすべての民へ自らの『絶対防御』を与える到達点たる力を、輝夜に所属するすべての者へ自らの適性を与えるものへと変えて。
変化は顕著だった。
四葉が展開する障壁は水玉すら押し返す。イロハが振るうエネルギーブレードは触手を斬り裂いた。
葵が弓を引き絞る力は減り、ただ放たれる矢の威力だけが増した。翠が展開している矢はより強力になった。
倒れたユウバリの傷が癒えていく。気を失いそうになっても障壁は展開し続けている。
そして、何より違いが見られたのは凛だった。今、凛の刀が要塞海月の膜に届いたのだ。
凛はもとより、一切の魔法を使わず戦っていた。さすがに身体強化の情報体は常用していたが、それだけだった。そこに楓の強化魔法が加わったのだから……戦闘力が倍では終わらない。
魔法は距離により減衰するというのは有名な話であり、知らなかったのは実際に使っていなかったアルファとアルファ2の面々だけである。だから今回のような場合、自分の身体に支援魔法をかけるだけが普通であり、楓達もそれに倣っていた。
凛1人に支援を行えば、その1人よりも戦力が上がるとわかっていたが、距離の問題から支援を続けられない。1度かければ一定時間、継続するものが存在すればそれで良かったのだが、そんな魔法は存在しない。だから魔法が得意ではない凛は常に効力を発揮できる情報体という強化方法しか採れなかった。無理をすれば強化魔法も使用できたが、そちらに意識を割けば弱くなってしまうという欠点を抱えていたのだ。
そもそも楓のように強化魔法をいくつも展開しながら戦っている事が異常なのだ。エルフ族ですら今回のような戦闘中は強化魔法を諦め、放出系の魔法に専念したことからもその難しさがわかる。
それが"種族として"行えるのは3種族だけ。天翼族と竜人族と、精霊族だけ。
一部の天才であればどの種族であってもできる者が存在するが、種族の多くが扱えるのはその3種族だけ。
『わ、なにこれ。凛お嬢様がやばいですね』
「でも凛ちゃんじゃあ核に辿り着けない」
どれだけ速かろうと、攻撃を避けられようと、刀1本という攻撃手段ではランク8を冠する魔物の膜を突破できない。口から入ることはできても、その先の海底に適応することはできない。
ではどうするか。予定通りに進めるだけだ。