静かな朝に 1/1
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山の傍の小さな館。その一室。部屋に鼻をくすぐる良い匂いを漂わせていれば、ドアからノックの音が聞こえてきました。
「どうぞ」
「調理中にすまぬな。"昼食を"あと1人分、追加してはもらえぬか?」
音すら立てずに入ってきた大天狗は軽い雰囲気でそう言ってきました。その様子は断られても問題ないように見えて、きっと準備ができなければ街にでも食べに出かけるのでしょう。
「イナリの天狐ですね。問題ありません、あなたがサリアをからかっている間に追加し終えています」
「……ぬし、この館の中で千里眼を使えるのか?」
せっかく用意した料理を指差したのですが、大天狗はそちらを見ずに訝しげな目を向けてきました。
「秘密の通路を除く廊下や、客が足を踏み入れるような大部屋と個室は覗けるようになっています。自室やトイレ、お風呂などは覗けませんので安心してください」
「……覗けるのぅ」
そう呟いた大天狗の顔は少しだけ赤く染まります。そしてコホンと音だけの咳払いをして、料理へと目を向けました。
「あともう1組、来客があるようです。鉢合わせを防ぐのでしたら、3時までに部屋にこもるか街に行ってください」
仮想ウィンドウに表示されている時計を確認すれば、現時刻は午前11時ちょうど。相手は親しい間柄のようですから、来客用の部屋でだらだらとはしないでしょう。
「まあ、その時間までには自室に行くか、街に行くかするがの。ところで来客とは誰か聞いてもよいか?」
「私もまだ聞いていませんし、きっとあの子は明かしませんよ。なので来ても問題ない相手……まあ蜂かイザナミでしょう。楓やアリサならば私にも連絡がくるでしょうから」
そう答えれば大天狗は顎に手を当てて何かを考える様子を見せます。
「……居合わせてもよいか?」
「私の客人ではないので。まあユウが何も言わなければ大丈夫です」
「助かる。ではそのように動こうか」
そう答えた大天狗はくるっと身体をドアへ向けつつ、器用に風を操り幻影まで使ってお皿に並べていなかったおかずを1つ持っていきました。そしておかずを身体で隠し、そのままドアの外へと足を進めて姿を消します。
「なかなかいたずら好きなようで。まあ大昔もよくつまみ食いをしていたようですし、あれが本来の姿なのでしょうね」
そう思えば自然と笑ってしまいました。
それにしてもエビフライが神隠しのようにすっと空気に溶け込むような光景は、私のような眼ではなく肉眼でだけ見ていれば楽しいものだったでしょう。
「さて、来客が11時30分頃だとして……12時に並べればいいでしょう」
出来上がった料理達を魔法のアイテムボックスへとしまい、キッチンを綺麗に片付ければ暇ができてしまいました。
「ユウはサリアの抱きまくらになっているかもしれませんし……暇ですね」
あそこは覗けないので実際にどうなっているかは知りませんが……大天狗のような強い相手に勝ってしまったのは影響するでしょう。言葉にはしていませんが夜な夜な飛び起きていることは知っていますし、楓達を見る目が変わってきているのも知っています。
それでもあの子は意地っ張りで優しいので、妥協案として誰かに少しでも自分を覚えていてほしくなって……年頃の少年に胸を押しつけるのです。……いえ、抱きしめ密着して無意識下に魔力を覚えてもらうのですか。
まあ実際のところ、そのどちらの意味であっても望んだ結果は得られないでしょう。その程度であの子の心に残れるのなら、楓は苦労していません。
あの子にとって楓以外は……いえ、加えて私や姉さんと四葉以外は外側でしかないのです。凛も翠も葵も、イザナミも大天狗も救い蜂ですら手を差し伸べるべき相手にしかなれませんでした。
それはサリアも同じで、唯一の例外が時雨でしょうか……と、そんなことを考えながらドアを開け部屋から外に出ます。私も人のことは言えないのでユウの在り方に口出しする気はありませんが、楓は違うのですよね。
ユウも私も"おかしい"……いえ、"個性的"ですが、楓や姉さんは普通を教えてくれますから。教えるには普通を知っていなくてはいけなくて、その普通はとてもとても甘く優しいのです。
たとえば友達が、たとえゲームの中で知り合った付き合いも短い友が"死んでしまう"と知れば動かずにはいられないでしょう。そこでどこまで線引を超えるか……まあ凛や翠、葵しだいかもしれませんね。
静かで短い廊下で立ち止まり、さあどこへ行きましょうか。