月夜に兎と酒を 1/1
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人気の無い、山の奥深くに建てられた小さな小屋。上出来あり稚拙なそこで、微笑みを向けられた。
目の前にある木製のテーブルの上にはささやかながらも種類豊富な料理が並んでおり、先にある女性の微笑みには『どうだ』と『どうだろうか』が共存しているようにも思えた。
その中には貴重な卵を火で炙ったものも存在していて、まずはそれを口に運ぶ。次の瞬間には『美味しい』と目を見張り、しっかり味わってから飲み込んで、感想を口に出す前には相手はより微笑んでいた。
そこには『どうだ』というものしか見受けられず、こちらもつい微笑んでしまった。
……。
目を開ければ椅子の上、夜風が身体を撫でていた。暗い室内には自分1人で、夜闇が身体を蝕んでくるようにも感じられる。
直前まで何をしていたか……思い出した。昼食を食べ終えた後、金弧とくじを引きに行き……帰ってきてからはふて寝していたのだ。
別に金弧が4等を引き当てたことが不満なのではない。むしろ、あの子に幸せが訪れたことは喜ばしく思う。それでも私はスカで、どうにもこれからの結果を示しているようで。
それを睡眠の水底に鎮めるために眠りについたのだった。
「う~ん……」
背を伸ばせば気持ちよく、睡眠は間違っていなかったと思えた。
こんな日は酒呑と、月を肴に酒を飲みたくなる。あんな昔の夢を見たから、なおさら。それでも互いに長になって、3人目の長が加わればそれも難しくなった。
私と天狐ならまだいいが、私と酒呑が手を組めば妖界すべてを相手にしても勝ててしまう。互いのストッパーが互いであれと、大昔に笑いあったものだ。
でも、まあ……最期くらいは禁を破っても許してもらえるだろう。
そう思い立ち上がり、風以外の妖術を行使する。私が風以外の妖術で"扱えると認める"数少ない中の1つであり、妖界でただ1人だけ扱える秘術。
次の瞬間には綺麗な月と果てなき草原だけで満たされた場所にいた。
そこには当然、誰もいない。ただ酒呑と私だけが入ることを許可されている場所なのだから、酒呑がいる可能性だけはあったのだ。
万に一つ、楽しい酒があれば思い留まれるかもしれないと思った。しかし運命は私に突き進むことを望んだまま。おそらく長く生きすぎたのだろう。
「大天狗、少し飲みませんか?」
それはありえない声だった。
儚き女性のような声は当然、酒呑ではない。あれは、そのような器用な真似は"しない"。
まるで夢のようだと思いながらも振り返ってみれば、月を背に浮かべた女性が立っていた。真っ白な髪は夜風に揺れて冬の雪山を思わせて、こちらを捉える真っ赤な瞳は雨粒が輝く紅葉のようで。頭頂から覗く2つの耳は天を指し、それがアルファの者ではないことを示している。
そして闇色の着物を纏うその姿は、まさに月の姫を連想させた。
「無粋なことは聞かん。最期の宴、ともに過ごしてもらおうかの」
ここは私と酒呑の領土のちょうど中間。入れるのは領土主の2人だけ……であるはずが、この者は存在している。世界の主から遣わされた何者かとも思ったが、あるいは悲しき幽霊かもしれない。
しかし、そんなことはどうでもよかった。最期の夜をともに明かしてくれるのなら、誰でもよかった。
「それでは失礼して」
白き女性は私の隣へと腰を下ろす。そして何もない空間から1本の瓶と、2つの盃を取り出した。
「どうぞ」
「用意が良いの」
差し出された盃を受け取れば、すぐに瓶から液体を注がれた。それは純粋のように透明で、秘境の滝のように綺麗な音を奏でる。
そして女性が自分のものにも注げば、宴の始まりだ。静かな静かな、最期を看取るような宴の始まりだ。
ちびちびと酒を口に運び、自分以外は誰もいないような静けさの中で月を見上げる。それでも隣には確かな暖かさと存在があって……。
盃が空けば何も言わずとも次が注がれ、再び音が消える。満たされるのは風と、それが通り抜け草を撫でる音だけ。
「うまい酒だの」
そう呟けば
「あなたのための酒ですから」
そう返されて。
静かな夜闇を揺らすことなく陽を迎えれば、いつの間にかその姿は消えていた。僅か数刻だったのか、あるいは長き数刻だったのか……起きた後からは時を見ていないのでわからない。
しかし手に残された盃だけが、夢でなかったと伝えてくれる。そこに残された最後の雫を飲みきれば、向かう覚悟が整った。
最期の夜をこのような奇跡で飾ってくれるとは、世界は私を嫌っていないらしい。人を超え、扉を越え、その先を駆け抜けられれば……また会えるだろうか。
その時はもっと楽しく賑やかに飲みたいものだ。
"真っ黒な翼を"広げ、風に立ち、自室へと渡る。
陽が最も高まれば最期の時。白装束を纏て、その時を待っていよう。このささやかな奇跡を噛み締めながら。