嵐の前の 1/3
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人気の無い、山の奥深くに建てられた小さな小屋。上出来であり稚拙なそこで、笑顔を向けられた。
満面の笑みではない。咲き誇るような笑みではない。
何かを秘め、押し隠し、それでも相手に笑顔を伝えようとするような、必死な笑顔だった。
……。
目を開ければ、長年、見てきた天井とは違う、最近は見慣れた天井が見えた。
たった1人の部屋で目を覚ます。それが私の日常の始まりだった。
領土戦は間近に迫っているというのに、最近は気分が優れない。それもそのはずと納得はできるのだが、そんな気持ちで挑むようなことではないのだ。
ぐぅ~とお腹が鳴れば、時計の針を見る。既に昼前であり、朝食を逃してしまっていた。用意されていただろう朝食を思えば、それを作ったものの顔を思い浮かべれば、申し訳なかったと思う。しかし規定時間までに食べなければ処理をしてくれと頼んであるので問題はない。
ぐぅ~と再びお腹が鳴った。
昼食は基本的に外で摂ることが多いため用意されてはいないので、どこかに出かけることになるのだが……この腹の虫を治めてからでなければ威厳が損なわれるだろうか。
そう思い妖術を操り、壁際に備わった棚の1つからせんべいを取り出す。風で戸を開け、中にあった木製の容器ごと風で運び……それはすぐさま手元に来てくれた。
中から1枚を手に取り、パリッと口にする。慣れ親しんだ醤油の味が舌に広がれば、ここが異界であると忘れそうになることもあったか。
「……美味いの」
あの子とこれを……と妄想を進めかけ、首を振って断ち切る。あのような夢を見たものだから、この程度はしかたがない。
パリッ、パリッ、と何度か、何枚か食べ進めれば、お腹の音は鳴らなくなった。いや、1枚の時点で鳴らなかったはずだが、稀に迷い込んで店を選ぶのに3時間などということがある。それを見越しての量だ。
布団から起き上がり、立ち上がり、別の棚へと足を進める。その棚から何着もある黒を貴重とした着物を取り出そうとして……白い着物が視界に入った。
余すことななく白い、帯すらも白い着物。それは皆と別れを告げるべき日に着るべきものであり、間近に迫っている日でもある。
「はぁ……馬鹿なのだろうな」
別に自分が向かう必要はないのだ。しかし必要がないからといって見過ごしたくはない。
あほ狐に話を聞いた後、存分に悩んだ結果としていくことに決めた。そこに後悔はないが……あれらを残すには少し心配があるのだ。
他2人に託したとはいえ、やはり自らが見守ってきた子達。最期までとはいかずとも、一人立ち程度までは見守りたかった。遠くからでもいいから、見守りたかった。
それに優秀な2人は……そのうち長に届くだろうと思っている。それを祝って……そこから……どうしたかったのだろうか。
まあいいと思考に区切りをつけ、黒い着物を手に取る。慣れ親しんだ着替えもあと数回。妖術で補助すればもっと手軽にできるのだが、やはり人と同じ方法で着替えたい。
身を包む衣を替え終えて姿見へと身体を映せば、そこには黒を貴重とした着物に身を包んだ、幼い少女の姿があった。
肩上で揃えている黒髪も、綺麗と褒められた黒い瞳も……黙っていれば背伸びした小童として見られるのだろうか。少なくとも異界の精霊には小童と見られていたと思い出し、くすっと笑ってしまう。
姿に汚れがないことを確認して入り口へと向かい、1段下がった場所に置いてある真っ赤な下駄へと足を通す。そして戸を開ければ誰もいない。
ここに姿を見せるのは2人だけ。この廊下に踏み入っていいのは3人だけ。そういう決まりなのだ。
先に空を描く窓を開け放ち、軽く跳び上がる。そしてそのまま風に乗り、街中へと移動していく。情報アクセサリーで外出を伝えておこうかとも思ったが、いない時間にも慣れて貰いたい。
誰であろうと、いずれは消えるのだ。その時の予行演習とでも思ってもらおう。まあ……あの2人ならば慌てず対処してみせるのだろうと思えば、つまらないものか。
後方の館が遠く離れていき、森を山を通り過ぎ、神秘的な木造の建物へと辿り着いた。番の者が頭を下げるのを横に足を進め、いくつかの扉と結界を通り抜け、大きな魔法陣が描かれた部屋へ。
「起動、サカフィ」
始まりの街へしか行けないくせに、なぜ場所まで指定させるのかと疑問には思っている。当然、他の場所へ飛べないか調べもしたが、やはりサカフィだけであった。
美波のところならばなにか知っているかもしれないが……別に聞く理由はない。あそこと友好的なわけではないのだから、対価を払ってまで知りたいとは思えない。
足元の魔法陣がいつも通り輝けば、次の瞬間には似たような別の場所へと転移していた。幾度かドアを開けて外に出れば、そこは多種族が共存する異界が広がっている。
耳を澄まさずとも風が街の賑わいを届けてくれる。最近、参加し始めた人々が夢を描き、夢の中に生きているのがわかる。
「さて、どこで食べるかの」
ここで空を駆けることはしない。道のすべてが彩りで、ゆるりと歩くのに最適なのだから。
明闇強弱、様々な声を聞きながら足を進め、そういえばと思い出す。そしてちょうどよい、と目指す場所を定めた。
「挨拶くらいはしておかねばな」
邪魔をするなと、見ないふりをしろと。
「ついでに昼食でも作ってくれんかの……いや、無理か」
あそこの子達は理想の1つだ。世界があのような者達で埋まっていれば、構成されていれば……と思わずにいられない程に好んでいる。しかし、それが叶わぬことも知っている。
善で満たされることはなく、悪で満たされることはない。善に出会えば運が良かったと、悪に出会えば運が悪かったと。矮小な個では運命を呪うことしかできないのだ。
そんなことを考えながら領土『輝夜』の領土館へと足を進める。
最近、生まれた期待の新星達が集う場所。第3陣で初めての領土。領土長の名は『楓』。
……。
今ならまだ、引き返すことはできようか。
そうは思えど心が引き返すことを許さない。英雄を殺す世界を許すことはできない。それを続けた先にあるのは、英雄が生まれない世界でしかないのだから。
結局、足は躊躇しなかった。あの輝き達だけでは止まるに値しなかった。
街の中心近く、それなりの大きさの館を前にして足を止める。
怖気づいたのではないが……よくよく考えてみれば連絡するのが当たり前だった。ただ気が向いたから来ただけなので居なければいないでいいのだが……それは恥ずかしい気がしてならない。
「領土長は在宅だよ」
ふいにそのような声が聞こえたが、そちらを向けど誰の姿もない。
声を伝えるのは風、それでも私は発生源を読み違えた。つまり驚異となりえる存在であるわけだが……不思議と悪意は感じない。まあ誰もいない位置に世界を超えて声を届ける魔法もあるというのだから、あまり気にしすぎてはいけないのだろう。
……いや、知っていた声に聞こえたから信じたかっただけだ。
だからこそ、迷っていてもしかたがないと領土へ足を踏み入れる。普通は結界が敷いてあるものだが、そのような抵抗はなく受け入れられた。
この期間でこの場所に、これだけの館を有しているという時点で常識の外なのだ。ここは運良く手に入れた館で、まだ対策が整っていないだけかもしれない。
さて、これで領土の中へとやって来られた。声を出して呼ぶことができる。
『領土『妖族の里』の長、大天狗様が、うちのような弱小領土に何か御用ですか?』
そう思っていれば、なにもない空間に『かそううぃんどう』が出現して真っ黒な世界を映したまま、声だけを伝えてきた。この声は領土長『楓』の声で間違いないだろう。
「連絡すら行わず失礼する。ちゅうこ……いや、頼みがあってきた」
『……どうぞお入りください。どうせ暴れられれば、私だけでは止められませんからね』
僅かに間を置いて、不機嫌そうな声が帰ってきた。時刻は昼食に最適な時間、準備をしていて邪魔をされたから……などということはないだろう。
大きくなりすぎた領土の長というのも面倒くさいものだ。
「そのつもりはない、と言っても信じてもらえないだろうな」
『あなたの噂は聞いていますから。あの子がいれば追い返していましたよ』
大天狗は人族が、アルファ世界の人族が大嫌いだ。それが世間で噂されているものであり、私はそれを否定する気はない。
「運が良かったのか、悪かったのか。話の場を設けてくれたこと、感謝するぞ」
そう言い終えてから、館の入り口へと足を進める。
"このような"胸を締め付けられるような感覚は、いつ以来だろうか。