真夜中ゲーム 3/4
差し出されたコップを受け取って、再び喉を潤す。思考を冷やす。
……少し昔のことを振り返ってみよう。行き詰った時は一気に視点を変えたほうがいい。
この子と出会ったのはいつだっただろうか。たしか四葉が開発室顧問に就任して、その後だった気がする。だから中学生以降で、"今と変わらぬ背丈"で。楓ちゃんと並んで双子のように見えていたことを覚えている。
それでも精神は翠どころか私すら飛び越えて大人だった。いや、正確には子供だったのだろうか。
無邪気な眼は心を見通すようで。事実、出会った当日に翠の抱える問題を1つ解決していった。まるでおばあさんの手を引いて横断歩道を渡るように迷うことなく。
住む場所が遠かったのであまり会う機会はなかったが、それでも年に数回は会っていた。四葉を尋ねたついでという感じだったが、それがちょうど良い距離のように思えた。
まあ、そのあたりは四葉に『世界最高のカウンセラー』と言わしめた人物だけある。近づけばそれがちょうど良い距離になるだろうし、離れれば少しだけ惜しむ程度になるのだろう。
特に心に残っているのは……ああ、そうか。何も残っていないのだ。すべてが日常を超えない程度の、同級生とカラオケに行く程度のできごとに思えるのだ。
なんのことはない。あの子にとって私は、その辺にいる凡百と同等だったのだ。ただ四葉と親しかったから接点があった。四葉と親しい女性、という認識しかされてなかったのだろう。
翠が抱える問題を解決したのは、大切な相手になるかもしれないからではない。少し接点があれば誰にでもそうするから、あの時も同じことをしただけ。
可哀想だからとも思わず、見返りも求めず、ただ手を差し伸べただけ。
違うだろうか、どうだろうか。
世界で1、2を争う機甲兵装を扱う会社の、開発室長と親しければそれなりの恩恵があるはずなのに、あの子は一切を求めなかった。それどころか振り払っていたように思える。
まるで『邪魔』を持ち込むなと言っているかのごとく。
ただ四葉と過ごしている姿が輝かしくて、遊んでいる姿に憧れて。とても"素直"に思えて。
翠も私も、そういう経験が乏しかったから、2人で眩しそうに眺めていたのを覚えている。翠に友達がいなかったわけではないし、私は機巧少女のネットワークがある。遊ぶことはいくらでもできたのだ。
ただ、『情報体』を上回る相手がいなかっただけ。打ち込めたそれを上回ってくれる相手がいなかっただけ。
……そうか、それを見つけられた四葉が羨ましかったのだ。
優旗と楓という2人を見つけられた四葉が、とてもとても羨ましかったのだ。
そっか、そうか。ようやく1つ理解できた。
私は四葉を好きだとばかり思っていたが、それは翠が好きな相手の傍にいるべきだという、そのほうが翠の笑顔が見えるということだったのだ。
たしかに翠の笑顔は代え難いものだが、同時に私の笑顔も翠にとって代え難いものだったのだろう。翠が一番嬉しそうな時は、一緒に笑っていたときだったのだから。
うん、考えが散らばっていて纏まってくれない。
……思い出した、何を求められているかだった。
そもそも私ができることなんて限られている。掃除も洗濯も料理も基準値でしかなく、結局は情報体の加工しか自慢できることがない。
それすら姉にボロ負けしているように思えて
『すべてで勝とうなんて傲慢だよ』
そう言われて心が晴れたのだ。
あれはいつだっただろうか、誰だっただろうか。
……思い出した。綺麗な黒髪を揺らし、一切の曇りが無い黒い瞳で見つめる、とても可愛らしい子供から告げられたのだ。翠と初めて喧嘩した日に、1人で向かった次元断層で。
思えばありえないことだったから、夢だと思ってしまっていたのだろう。次元断層の中を生身で動くことはできない、それが常識だったのだから。私が命を断ったその時すら、それが常識であり続けていたのだから。
あのあと翠のもとへ帰って、大泣きされて。というかプリンで喧嘩するなど、小学生かといわざる得ない。まあ私も当事者なのだが。
よくよく考えてみればとても危なかったのがわかる。機巧少女はマスターから離れ過ぎればそれだけエネルギーの消費が増え、もう少しでエネルギーが尽きていたかもしれないのだ。
それは翠が機甲兵装を展開できなくなるということであり、魔物と出会えば為す術なく殺されることを意味する。私の死にも繋がるが、それはどうでもいい。
私が死ぬのは身勝手の結果だが、翠が死んでしまうのは理不尽なのだから……なんて理由をつけたが、結局は自分が原因で大好きな人が死ぬなんてまっぴらごめんだ。
ということで機巧少女、パートナー側の気持ちになって考えた結果、イナバさんが求めているのはユウくんの安全となる。生きてくれていて、笑顔でいてくれて、微笑みかけてくれたらなお良い。
……なんだかしっくりこない。だからもう1度、視点を変えてみよう。
イナバさんが何かを求めているという前提を崩して、この子自身が何を求めているか。得られるのはこの子の現実での状況で、それを渡すことでこの子が得られるなにか……まさか。
それに辿り着いた瞬間、目の前の少年の肩に手をかけていた。もしかしたら、とても強く握りしめていたかも知れないが、そこまで気にしていられなかった。
「私に……私に嘘をつけというのですか! 翠や凛お嬢様、葵ちゃんに、健康診断の結果あなたが健康であったと、そう伝えろということですか!」
これは許すことができない。見逃すことができない。
「あなた1人が我慢することで、周りの皆を安堵させて、それで満足しろということですか!」
翠はこの子のことを気にしている節があった。
それもそのはず。とても仲の良い親友が、なぜか弟の存在を隠していたのだから。それでも出会ってみれば問題はなく、あちらからも仲良くしてくれて。楓ちゃんもそれを止めなくて。
それならばなぜ隠していたのか……それは、この子が動けないからではないのか。自由に遊び回る皆を見て、"妬み"を覚えないようにではないか。
それでも仮想世界での自由という光を見て、ここでなら問題ないと引き合わせ、その結果としてうまくいっただけではないのか。
「それはダメなことかな?」
「ダメとかじゃないです! 私が、気に入らないのです!」
イナバ"だけ"に笑顔を向ける理由がそこにあるとすれば、すべて辻褄が合ってしまう。
仮想世界だけでしか"活きられない"自分と重ねた、その相手だけに。
「……じゃあ、この身体を自由にしていいからってお願いしたら?」
するっと帯が解かれれば、それがとてもとても妖艶に見えて。悲しみを訴え、必死に笑顔を求める少女のように見えてしまって。
「じゃあ笑ってくださいよ! イナバに向けている本当の笑顔を、私や翠達にも向けてくださいよ!」
イナバさんが見ていなくて、本当によかった。こんな場面を見せてしまって、イナバさんに向けられる笑顔すら消えてしまったら……。
だから、ここで解決しないと――
「あはは、優しいね」
と、イナバに向けていたのと同様の笑顔を向けられてしまえばドキッとしてしまう。
直前までの爆情はどこえやら。はてなだけを浮かべる頭は、目の前で笑ってくれた少年を見つめることしかしない。
「ありがとう、たしかに対価は受け取ったよ。とはいっても、ぼくの現実での生活なんて聞いても面白くないと思うよ?」
ユウくんはそこでいったん言葉を止め、私の思考が沈静化するのを待つように着物を整えてくれた。
「え、対価? え、え?」
それでも頭がついていかない。
手慣れていて絵になるなと、そんなことしか思い浮かばない。
「別に特別なことはなくて、普通に動き回ってるよ。ただある事情から姉さんと離れて暮らしている期間が多いから、翠さん達とは遭遇していなかっただけ。今は参加していないみたいだけど、姉さんと共通の友達もいるからね」
そう言って穏やかに微笑まれれば、納得するしかないのだろうか。ここで嘘を言っているという可能性も、この子の演技力を考慮すれば検討すべきであるのではないか。
「まあ信じられないだろうから、姉さんに聞いてみるといいかな。ちょっとはおとなしくしてろって言われるし」
そして「あはは」と小さく笑う。
その光景は簡単に想像できてしまって、これ以上、追求する気が削がれてしまった。
「でもね、あなたの予想通り普通ではないよ。でもそれが最善だって思ってしまったから、それを姉さんが認めてしまったから、今は大丈夫だって信じてくれると、嬉しいかな?」
ここで再びダメかなと、上目遣いで言われれば陥落してしまいそうになった。
色々と曖昧な内容ばかりだが、楓ちゃんに聞いてもいいという許可があるので信じてかまわないと結論を出す。本人が喋ってくれたと言えば、楓ちゃんなら巻き込んでくれるからと。
それを予想できる程度の交友はあったつもりだから。
「と、ところでさ。中から外に連絡がとれたしはしないかな?」
そう問いてきたユウくんからはやや焦った様子が窺える。
「知っているものと同じなら連絡機能が……あれ、接続先がないですね」
機能自体は備わっているのだが、接続可能な相手がいない。しかし試験的な仮想空間だろうから、それもしかたがないだろう。
「そうなんだ」
「じゃあ、感覚をずらして外と中を同時に見るようにすれば、外の身体も動かせますよ」
「……あはは、ちょっと無理かな」
僅かに試した間が窺えたが、すぐに諦めたのかそう言ってきた。
別にユウくんが特別不器用ということはなく、すぐにできる人を天才と呼ぶべきなのだ。翠だって数年かかったし、機巧少女の私ですら1年を要した。
最初からできたとか言っていた四葉や、イチハちゃんがおかしいのだ。
「あとはログアウトしかないです」
「……諦めるよ」
ユウくんはそう言って肩をガックシと落としたが、その際に白い肌がチラリと覗けば
「へ?」
飛び起きて肩を曝け出させていた。
「肩は大丈夫ですか!?」
今更ながら、とても強く握っていたことを思い出す。
あの身体情報を見たあとであれば、それが強い痛みを与えていたことも、現実ならば骨折に至っていたかもしれないこともわかってしまう。
予想通り、掴んでいた部分は赤くなっていたが……これならば僅かに痛い程度で済んでいるだろう。それでももう少しどうにかできただろうと思ってしまう。
「肩のことなら気にしないで。あれはぼくがそうなるように煽ったんだから」
宥めるような声音でそう言われたが、それでも解決とは思えない。翠や楓ちゃん相手ならこの程度はプリンを用意すれば解決、でいいのだが、与えた痛みが違いすぎる。
「それよりもさ」
召喚直後かつ色々あって平常時よりもパニックになっているとはいえ、激昂して相手に大きな痛みを与えるなどいけない。そうなるように誘導したとはいったが、それは結論のことであり、行動ではないはずだ。
「イナバもなんだけど……ぼくが恥ずかしさを感じないと思ってないよね?」
羞恥が覗く声を聞いて頭が真っ白になる。視線は頬が朱に染まった顔から自然と下がっていき、胸の高さで服を抱えるように抱きしめる両手を映して。
しゅばっと飛び退る。
「いや、心配してくれたことはとても嬉しいからいいんだけどさ……」
言葉通りの嬉しそうな声が聞こえてきて、同時に衣擦れの音も聞こえてきて……もう両手で顔を覆うしかなかった。
今回、この子がいたずらなどしていないことは理解している。至極真剣だったのだ。そんな子を相手に、この体たらく。ちょっと大人として情けなさすぎはしないか。
「というか、この着物が良くないんだね。イナバに負けちゃったから着てたけど、もう有効時間切れってことにして着替えよっと」
そんな声を聞いても両手という蓋を開けられない。実は切り替わる直後でとか、今は裸でしたとかだったら恥ずかしさで明日1日、布団にくるまっていそうだから。
「あ、さすがイナバ。これこれ。もうこっち見ても大丈夫だよ」
その言葉に恐る恐る両手を退け……ることはなく、指の隙間からユウくんの姿を確認する。
そこにあったのは空色のジャージを着た姿だった。まるで部屋で寛ぐ時のように馴染んでいて、こちらが本来の姿なのかと思ってしまう。
真っ白な髪が雲のようで、赤い瞳が陽のようで、ジャージが空のようで。目の前に空を仰いでいるような気分になってきた。
「う~ん、やっぱりこれが楽だよね」
そんな空はそう言いながら腕を振り上げて背伸びをして。その姿は一緒に自宅に帰ってきた幼馴染のようにも思えて。
「やっぱりあっち系統の服って……イナバちゃんや楓ちゃんの趣味なのですか?」
「それもあるけど、便利だから着てるだけだよ」
気になって聞いてみれば、特に気にした様子もなく答えてくれた。
可愛いものが好きなのは機巧少女共通の感覚みたいだから、イナバはしかたがない。私も翠に色々と着てもらったことはあるから。
ただ楓ちゃんはどうなのだろうか。四葉は『理由があると思う』と言っていたが、確実に趣味は入っていると思っていた。そのうえ、こうして弟の口からそうだと言われれば、そういう趣味なのだろうと納得しておこうと思う。
「必要ならどんなものでも着るし、なんなら裸にもなる。そこに躊躇はないけど……まあ、好きな人が好んでくれる服装が一番、かな?」
ユウくんはそう言ってはにかんだ。ちょっと恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに。頬をほんのすこしだけ朱に染めて。
そう、これだ。この子はどれだけ大人びて見えても、大人顔負けの精神をしていても、絶対に子供の部分を捨てない。多くの人が捨ててしまった、"価値のあるそれ"を保有している。
「まあ、そんなことは置いておいて将棋を指そうか。このあと翠さんと夜のおしゃべりもするのだろうから、あまり長引いてはいけない」
ユウくんはそう言い、子供らしさがないゆったりとした動作で座布団へと座った。ジャージだが。