真夜中ゲーム 2/4
「ユウバリ?」
翠の声に意識を引き上げれば、既に対局は終わっていた。クッキーがあまりに美味しくて……? 時間の流れを忘れていたようなきがする。
だから当然、思考は纏まっていない。負けた原因などわかっていない。
「あ、ごめんなさい。クッキーが美味しくて……」
「おや、そんなにですか?」
と翠が手を伸ばしてクッキーを口に含めば、その動きが止まった。口以外は、だが。
幸せそうなその表情を見て、私もこんな表情をしていたのだろうかと考えるが、今は翠をどうするか検討しなければならない。私と同じ状況であれば声をかけるまではそのままなのだ。
「ユウバリ、翠が食べたものの隣のものを翠の口へ放り入れてください。そのあと、あなたはそのさらに隣のものを食べてみてください」
そんなイナバの言葉通りにクッキーを手にとって翠の口の前に運べば、口が勝手に開いたのでクッキーを咥えさせた。そして自分のものも手に取って口に含んでみれば……
「おいしくない」
自分の口からしわがれた声が出てきた。いや、正確にはしわがれたような、がっかりした声か。
そして先程、口にクッキーを咥えさせた翠も微妙な表情を浮かべ、口にはしないものの美味しくなかったことが明らかだった。
「やはり夢の1枚でしたか。邪魔をしましたね、失礼しました」
夢の1枚とはなんなのか。たしかに夢のような1枚のクッキーではあったが……そうなると、まだ並ぶクッキーの中にはあれほど美味しいものはないということだろうか。
惜しい、まことに惜しい。でもあれを食べ続ければ溺れてしまうような気がして……誘惑を断ち切れない。
「ユウ、早めに終わらなかったら明日は昼寝をしてくださいね」
「ダメだよ、明日はアリサさんが来るから」
「朝、寝ればいいでしょう。どうせ準備は終わっているはずです」
「……見てた?」
「そろそろ終えている頃かと思っただけです。それに終えていなければ、私が補って寝てもらいます」
やり取りを聞いていれば、このクッキーはユウくんが作ったということだろうか。夢の1枚とは、その名の通り夢の中で作ったような、とても眠たい状況で作れば1枚できるかどうかというクッキーなのだろうか。
そんなことを考えている間にも視界の端で翠がもう1枚クッキーを手に取り、口に運んで、残念そうな表情を浮かべていた。それを見れば次を手に取る気にはならない。あの美味しさを上書きしたくないから。
「朝。朝にイナバと一緒なら眠るよ。終わってるんでしょ?」
「それでいいです。楓と凛は今こそ起きているべきですし、四葉でも呼んでみますか?」
「2人でいいよ」
なぜ他の人を呼ぶ話になったかはわからないが、ちょっと加わってみたい気がした。傍から見れば美少女2人が抱きしめ合って眠っている絵が見れるのだから、ちょっと興味が湧いてもしかたがないと思う。
それにしても、翠から送られてきていた棋譜を見て首を傾げるしかない。流し見でしかないが、それでも"異常"だとわかる。私の棋譜に指摘できた翠の棋譜が、私以上におかしいのだ。
「それじゃあ次は、ユウバリさんとかな?」
「はい、お願いします。ただ次は仮想の方でお願いしたいのですが、いいでしょうか?」
「うん、問題ないよ。あなたが指しやすい方がいいと思って用意してもらっただけだから、ぼく側はどちらでもいいんだ」
笑顔を崩さずそう言われてしまえば、それが余裕の表れに見えてしまう。とはいっても、実際に2人とも負けてしまったのだから間違いではないのだ。
と、そんなことを考えている内に"イナバさんから"情報体が送られてきた。一応は確認したが、やはり問題のない情報体。将棋以外にも色々と機能が備わっているが、主目的は将棋だけのものだった。
さっそく起動してみれば意識が仮想世界にシフトして、視界に表示されたメニューから『公開ネットワーク:ユウ』を選択する。
もやもやっとした白い世界は切り替わり、畳が敷かれた和風の部屋へと移り変わる。座布団が2枚に、小物置きが2つに、"布団が2つに"、将棋盤が1つと駒入れが1つと、駒置きが2つ。そして30の時を示す時計が1つ。
「あれ、なんで布団が置いてあるの?」
「他のものを流用したので。必要なければ襖を開けて外に放り出せば、消えますよ」
2つの声にそちらを向いてみれば、白い少女と白い女性が立っていた。
1人は普段通りのパーカーセットを着ていて、もう1人は真っ白な着物を着ていた。目が痛くなるような純白のそれは一見、似合っているようにも見えるが、どこか違うようにも感じる。
しかし妙に着慣れているように見えるので、イナバさんや楓ちゃんの趣味かもしれない。
「ユウバリ、問題ありませんか?」
「え? 問題ないと思いますけど……なにかあるのですか?」
「いえ、あなたが問題を感じられなければ、これは完成でしょう。ながもんは問題を問題にしないので、あなたのような人に確認してもらいたかったのです」
ながもんとは長門さんのことだろうか。
それは置いておいて、どうやらテスターも兼ねていたらしい。当然、自分でもテストはしているだろうが、それでは見えてこない問題も多い。
「大丈夫です。問題は見当たりません」
「そうですか。それでは私は立ち去りますし、覗きません。外で翠と話しておきますから、ゆっくりとどうぞ」
「うん。ありがとうね、イナバ」
ユウくんが見送る中、イナバさんの姿がすっと消えた。
「持ち時間は8時間にしよっか。これで内緒話をしても、1時間以上の余裕があるはずだからね」
ユウくんはそう言いながらピッピッと時計を設定していく。
今から8時間といえば朝日を迎えそうな時間であり、合算した16時間であればお昼すら過ぎてしまう。
「ほらほら、座って。それともお布団で話したい?」
そう言ってニコっと微笑まれれば、思わず顔が熱くなってしまう。
……どうにも調子を崩されている感じしかしない。普段通りならば勝てたとは思わないが、部屋に入る時から調子を崩されっぱなしに思える。
これ以上、調子を崩されないようにと将棋盤の前の座布団へ移動し、ゆっくり気持ちを落ち着かせるように座った。
「あ、そうだそうだ。これを渡すのを忘れていたよ」
そう言ったユウくんは両手を開き胸の前で重ね、その上に輝くもやを出現させた。そしてそれをどうぞっと笑顔とともに差し出されれば、受け取らざるえない。
油断するつもりはないが、あれは知っている。仮想空間で情報体や情報片をやり取りする際の方法の1つであり、情報アクセサリー同士を繋げる仮想空間ならば必ず扱えるはずの方法だ。まあ仮想空間を構成する情報体しだいでは禁止することはできるのだが、できなくはない。
ただ……。
受け取ったそれを手のひらの上で留め、構成を覗く。機巧少女だけでなく、情報アクセサリーを通じて仮想空間に参加している誰もができる方法で。
まず視界に表示されたのは『安全』という文字。そして既知の言語で表示されていく構成要素達。
それらを見て、涙が出そうになった。違う、既に涙が流れていた。
悔しさや嬉しさや、誇らしさが織り交ざった感情が心地良い。心揺さぶるそれが、涙を止めることを許してくれない。
「ねえ、さん……」
つい口から溢れた一言。
憧れ競い合ったあの人が目指していた1つの完成。その形が目の前に、周りに満たされているのだからしかたがないと思う。
誰もが安全に扱える仮想空間であってほしいと。不幸な事故を境に入れ込んでいた機能の1つ。
私も手伝ってはいたが、あそこまで入れ込めなかった。ただ『受け取らない』で完結する対処を、より楽しめるようにと改良する気にはなれなかった。
この技術がどれだけ果てしないものか、"理解できる"人は少ないだろう。基礎構成を改良できたことが、どれだけ凄まじいか理解できる人は少ないだろう。
誰もが基礎構成のコピーから改良していっていたのだから当然だ。私でさえも基礎構成をコピーして扱っていたから、しかたがないと納得できてしまう。
それはそうとして、受け取った情報へと目を通す。
これ以上、感情が溢れるのは彼女を前にしてからでいい。今は目の前のこと、誰かの身体情報データについてだ。というか、ユウくんが渡してきたのだから、ここまで詳細なデータなのだから、彼自信のものだろう。
……、……、……。
……、……。
読み進めれば読み進めるだけ、吐き気がしてくる。要素を1つ見ていくたびに目眩がしてくる。
どうすれば、これで普通に生活できているのか理解できない。
この世界だけならば情報体で補強するという手段がとれるはずなのだが……この世界の身体が現実の身体を参考にしているというのは翠から聞いている。完全な一致だとは思っていないが、大きく離れてもいないはずだ。
「ユウバリさん、これを飲んで落ち着いて」
仮想ウィンドウの先に見えた透明なコップを受け取り、ゆっくりと喉を通していく。味などわからないが、その冷たさに少しだけ気分がマシになった。
「あはは、そんなに気分悪そうに見えましたか?」
「あなたが気づいているほどだよ?」
たしかにその通りだ。自分で気づけているのだから、周囲から見れば一目瞭然だろう。とくに相手の考えを読んだように動いていたこの子相手では。
「それがぼくの健康診断の結果。イナバが用意してくれたものだから、間違いはないはずだよ」
深呼吸をして、思考を落ち着かせて。立ったまま覗き込む少年へと視線を向けて、その眼をしっかりと見据えて。
「ねえ、聞いてもいいってことですよね?」
「イナバはあなたのことを気に入っているみたいだから、大丈夫。でも、ただで教えてほしいなんて言わないよね?」
"普段通りの"笑顔もなく、小悪魔的な笑顔もなく、ただただ真剣にそう告げられた。
だから必死に頭を回転させる。思考を巡らせる。この子の言葉に無意味なんてないと考えたほうがいい。無意味にすら意味をつけるのがこの子なのだから。
まず知る必要はないと破棄することは問題外。この子は……翠の恩人だ。たとえ昔の記憶を持っていないとしても、恩人であることに変わりはない。
なにより、あの笑顔が失われたことが気に入らない。
だから考える。考え抜いてみせる。
この子は"イナバは"と言ったのだから、イナバさんが納得するだけの何かを用意すればいい。ならば彼女が何を求めているか。"私に"何を求めているか。
技量や知識や、経験などは関係ないはずだ。今ここで辿り着けるかどうかだけを求められているはずだ。それ以外であったとしても切り捨てたほうが幾分かマシだろう。
そもそもこの世界でしか存在できない、AIのような私が現実のこの子を知る意味があるのかということ。この子の状況を知って、状態を知って、なにか手を出せるのかということ。
少なくともこちらの世界ではこの子を守る力があるかどうか、その決意があるかどうか……は違うだろう。イナバさん1人、長門さん1人で事足りる。私は現状、召喚されている"機巧少女"の中で一番弱いと考えたほうがいい。
それでは精神的な柱だろうか……いや、これも違うはずだ。阿吽の2人を見て、精神的に支えられるなんて思えない。なにより現実ですら傍にいられる楓ちゃんのうえに、すぐいけるとは思えない。
……、……。
総合評価があがっていて「なぜ!?」と思っていたら、評価を頂いていました。
今更になりますが、ブックマークや評価を頂きありがとうございます。4章の確認、頑張ります(*´ω`*)