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一般向けのエッセイ

神聖かまってちゃん 新アルバム「幼さを入院させて」 レビュー

  村の僕らはアコーディオンをただジャンジャカならして可愛くおどるのさ

  流れ星が美しさに

  願い事を叶えましょ      

            「僕はぬいぐるみ」 (「幼さを入院させて」より)



 神聖かまってちゃんというバンドは最初、いじめられた経験、抗うつ薬、底辺の叫び、鬱病、といった極めて現代的な、底辺の個人をそのまま曲に載せるという事で出てきた。他のアーティストが現実を見ないようにして、綺麗でおしゃれな歌を歌っている時に、あえて自分の傷口に手を突っ込んで、血と肉塊を世の中に晒してみせた。そんな存在だった。


 だが、そんな神聖かまってちゃんにはもう一つの側面があって、それはバンド名の中の「神聖」という言葉にあらわれていた。神聖かまってちゃんファンはきっと、神聖かまってちゃんに現実の辛さ、苦しさへの抵抗を聞き取る一方で、神聖なものへのあこがれ、現実とは逆の、全てが救われるような美しく、ホーリーなものへの上昇も感じ取っていた。つまり、神聖かまってちゃんは辛い現実を満身に負い、抵抗したり、時に押しつぶされたり、といった経験から逃げ出さず、なおかつその実感はそのまま、現実とは違う神聖なものへの憧れへとつながっていた。


 そういう意味では、天国に入る事ができるのは現実の悲惨さから逃げ出さなかった者に限られる、と言う事ができるかもしれない。


 本アルバムでは、過去の、現実からの傷を洗い流し、いよいよ神聖さへと上昇していく神聖かまってちゃんの姿が見られる。このアルバムはの子にとって「聖地」であって、現実から上昇した人間が長い苦行の後にようやく辿り着いた領域に見える。


 最初にあげた歌詞はそんな空間の体現だ。


 「村の僕らはアコーディオンをただジャンジャカならして可愛くおどるのさ」


 これはただ、そういう風景を描いたものではなく、の子と仲間が、聖地にて「可愛く」踊る姿と言って良いだろう。現実の悲惨から始めた詩人はここでようやく、休息地に辿り着いたようだ。


 だから、ここがゴール地点だと言っても良いが、まだまだ天邪鬼たるの子には、走っていってもらいたい。(生きていってもらいたい) どこから見ても短距離ランナーだったの子には、長距離ランナーになって欲しい。その為の道筋は彼自ら用意している。


  1人じゃにゃいよと

  旅立ちの声が聞こえる

  声が聞こえる

  世界に捨てられたような

  鳴き声が聞こえる

  声が聞こえる

  駅の向こうから

  旅立ちの声が


                        「ねこねこレスキュー隊」



 「駅の向こう」から聞こえる声はまだの子を呼んでいる。そのはずだ。「聖地」はまだ、の子にとって通過点のはずだ。駅の向こうからは声がする。丘の向こうには何かがある。旅はまだ続く。まだまだ神聖かまってちゃんは歩いていかなければならない。聖地を越えて、山の向こうへと旅しなければならない。そうする事がきっとーー選ばれた者の宿命なんだと思う。



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