現実:歴史 ゲルマン人とキリスト教が交差する時、蛮行(中世暗黒時代)が始まる - そして米帝へ -
アーリア人とは、
広義には中央アジアのステップ地帯を出自とし、
南はインド亜大陸、西は中央ヨーロッパ、東は中国西部まで拡大した遊牧民グループ
原アーリア人拡散の原動力は新兵器:馬曳き戦車【戦闘用馬車】の誕生、
(これは、馬の飼育術の確立、『軽量化車輪スポーク・金属器の車軸/馬具の発明』の集大成である。
もっとも乗馬技術の不確立、
いやそもそも当時の馬の体格的に人を乗せられなかった事による妥協の産物とも言えるのだが。
なお乗用馬以外の駄馬や農耕馬など馬を引いて歩く時にはハミは必要にならない。)
こうして奴らは向精神薬ソーマで酩酊しながら、
草原を荒野を馬曳き戦車で乗り回し、
戦士階級が地元農耕民を階級化し支配していったのだ。
周囲にいる馬曳き戦車を持たない荷車のみを持つ元同胞の先発移住者をも襲撃し
腐敗と自由と暴力が支配する弱肉強食の時代を築いていったのである。
……ただし彼らが崇めるのは馬ではなく、
なぜか地中海それも西アジアやアフリカ方面で飼育技術が確立された牛種である。
こうして遊牧生活を営んでいたアーリア人は中央アジアから広く四方に拡散し
細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していったが、
その北方グループの子孫であるゲルマン人拡散の原動力とは、
皮肉なことに、あるいは歴史の必然か、北アジアの遊牧騎馬民族フン族が多くのゲルマン民族を征服し、
他の多くの民族のローマ領土への逃亡を引き起こしたからである。
アッティラの時代になると、フン族社会の経済は遊牧ではなく、
略奪と従属部族からの搾取によって成り立っていたと考えられている。
このような異民族の侵入の他にも地力の衰退・人口の増加などもあり、
奴らゲルマンは難民やら傭兵やらで他国に移民し、やがて仲間を呼び寄せ数を増やしていき、
次第にその地を乗っ取ってついには各地に自分たちの国を築いていったという。
最近何処かで聞いた話である。
そういや現在その末裔はと言うと………
▼概要:
「ゲルマン人」とは、
現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯に居住していた
「印欧語族 - ゲルマン語派に属する言語を母語とする諸部族・民族」
の事である。
(ただし、実は「ゲルマン系」ないし「ゲルマン人」とは民族的な概念であるため、
直接的に生物学的な特徴は関連しない。)
なお先史時代、歴史時代初めの
ゲルマン語を話す部族および部族連合を
「原始ゲルマン人」、または「古ゲルマン人」と呼ぶ。
この「原始ゲルマン人(古ゲルマン人)」が中世初期に再編され
「ゲルマン民族」となるのだ。
そう「原始ゲルマン人(古ゲルマン人)」は
現在の「デンマーク人」、「スウェーデン人」、「ノルウェー人」、「アイスランド人」、
「アングロ・サクソン人」、「オランダ人」、「ドイツ人」などの祖先となったのだ。
中でも「アングロ・サクソン人」になったゲルマン人系部族には
「アングル人」、「サクソン人」、「ジュート人」、「フリース人」がいた。
▼ゲルマン人の血統的:Y染色体ハプログループ
・中部・南部ドイツ
単に「ゲルマン人」と呼ぶ場合は
一般に所謂「北方人種の白人」と結び付けられることが多いが、
現代では「北部ドイツ」を覗く地域において、
おおよそライン川の東-ドナウ川の北の地域である
(ライン川-ドナウ川はローマの最終防衛ライン)
古代ローマ時代の地名「ゲルマニア」と呼ばれた土地のうち、
「中部・南部ドイツ」は
むしろ「アルプス人種」や「東ヨーロッパ人種」などの影響が指摘されており、
遺伝子的にも
「スカンディナヴィア半島周辺の北欧」より
「イタリアやフランス、スペインなど南欧」との親和性が強い。
・北部ドイツ
反面、「北部ドイツ」の住人は周辺の「北欧人」と近く、
特にバルト海に面する地域は極めて近似しているが、
内陸部では「東ヨーロッパ人」との近隣性は無視できない。
これは要するに、4世紀以降のフン人の西進によって、
「ゲルマン民族大移動で外に出ていった連中」はその拡散により
イタリアやフランス、スペインなど「南欧」や
フランス中東部やスイス、ドイツ南部オーストリア、イタリア北部などの「中欧」
ドイツ北部からポーランド、ロシア北方の「東欧」で
その地の先住者と同化しているが、
「スカンディナヴィア半島南部に居残った連中」は
古代からの「北欧人」としての特色を色濃く残しているのだ。
また現在の「ゲルマン系民族」のY染色体ハプログループは
ハプログループ I1 (Y染色体) 、
ハプログループ R1a (Y染色体) 、
ハプログループ R1b (Y染色体)
に大別される。
・I1
Y染色体ハプログループ「I」は「欧州最古層のタイプ」であり、
「サブグループのI1」が「北欧」で高頻度である。
この「I1」系統が『金髪碧眼』の発祥であると考えられ、
ゲルマン人特有の外見的特徴をもたらした系統であると想定される。
そう、ハプログループ「I」(特に「I1」)は碧眼の分布と相関しており、
碧眼遺伝子の担い手であったようであり、また金髪の分布とも相関しているのだ。
ちなみに、バルカン半島に多い「I2」系統だが、
13,000年前のスイスのクロマニョン人を遺伝子調査したところ、
ハプログループ「I2a」 (Y染色体)に属すという結果が出た。
これによりハプログループIはクロマニョン人のハプロタイプであることが明らかとなったが
同時にヨーロッパ人ゲノムの1.5-2%がネアンデルタール由来であることもわかっている……
なお、Y染色体ハプログループ「I1a」の分布は
「北欧」、「イギリス」、「バルト海沿岸部」に広がっており、
「西欧」では北部ドイツやフランスの大西洋沿岸部より南にはあまり存在しない。
・R1a
ハプログループR1aはインド北部から中央アジアや東ヨーロッパに高頻度に分布して
印欧語族サテム語の担い手とする見方がある。後のインド・イラン語派である。
(対してハプログループR1b のヤムナ文化の人骨からはR1aは検出されていない。)
縄目文土器文化やアンドロノヴォ文化の主要な担い手がこのハプログループR1aである
・R1b(R1b-U106)18500年前に西アジアで発祥した。
ゲルマン語派本来の担い手は「R1b」の下位系統「R1b-U106」と想定され、
ヤムナ文化人で高頻度に見つかる印欧語族ケントゥム語の担い手である。
なお、ケントゥム語とサテム語は系統の違いを表すものではなく、
ケントゥム語とサテム語の発音の違いは人類学的基盤に基づく可能性がある。
また、ハプログループ「R1b」の分布は赤毛と相関しており、
『赤毛遺伝子』の担い手である。
赤毛のアンである。もしくはヴァイキング。
現生人類に最も近い近縁種とされるネアンデルタール人の外見は
白い肌で赤毛だった可能性があるのだ。
週十万年を掛けて広範囲に広がったネアンデルタール人も多様化しているのだ。
面白いのは、ネアンデルタール遺伝子が関係している性質の多くが、
皮膚や毛髪の色に関わる点だ。
と言っても、ネアンデルタール遺伝子=ブロンドではなく、
ネアンデルタール人にも多くの多型があり、
金髪から黒髪まで現代人の様々な多型にネアンデルタール人遺伝子が関わっている。
一つだけ面白い性質として、
夜型の人に多い遺伝子多型がネアンデルタール人由来である点だ。
しかも、この多型は緯度の高い地域ほど多くなる。
すなわち、冬の夜が長い地域ほど、ネアンデルタール人の夜型多型が多いという話だ。
ネアンデルタール人が暮らしていた地域から考えると納得の結果だ。
……お前もネアンデルタール人(引きニート)にしてやろうか?
▼ゲルマン人の血統的:その原住地
実は印欧語族は
ドイツ語圏ではインド・ゲルマン諸語
(ドイツ語: Indogermanische Sprachen)と呼ばれる。
これは、そもそも「ゲルマン人」は血統的には
印欧語族の第二の源郷
球状アンフォラ文化(BC3400-BC2800年)
(西はドイツ東部エルベ川西岸地方、東はドニエプル川中流域まで広がっていた銅器時代文化)
の担い手や
非印欧語系スカンディナヴィア原住民など
様々な混血であるとも言われ自らを欧州代表と見なしているためだ。
(印欧語族の第一の源郷は、はるか東の
アゾフ海(黒海北部の内海)とコーカサス山脈の北側に広がるステップ地帯)
ゲルマン語をもたらした集団の源流は
ウクライナを中心とした黒海東北岸からコーカサス山脈北麓にあった
銅器時代の文化圏:ヤムナ文化(BC3600-BC2200年)より分化し、
(北のヤムナ文化の系統と南のマイコープ文化)
バルカン半島、中央ヨーロッパを経由して
スカンディナヴィア半島南部にやってきた集団
(ケルト語やイタリック語の担い手と近縁)という説、
戦斧文化の担い手でありバルト・スラブ語派に近縁という説、
あるいはその混合であるとの説があるのだ。
ちなみに人類はヤギ・ブタ・ヒツジ(紀元前8000年頃に家畜化)や、
ウシ(紀元前6000年頃に家畜化)などの草食動物を家畜化していき、
さら遅れてウマ(紀元前4000年頃に家畜化)を家畜化したのだが、
中でも馬は主にステップ気候の寒冷な降雪地帯の草原に棲息しており、
馬の家畜化は現在のウクライナで始まったと考えられている為
おそらくゲルマン語をもたらした集団の源流にあたるであろう諸部族がなしたのではなかろか。
また家畜化の遅れた主要因は、
ウシ等の反芻動物に比べて消化能力や食性が低く太り難いため、
食肉用の家畜としては不適格だったためであるとされる。
しかし、ひとたび馬が家畜化されると人間は、
食用肉以上に『使役』としての高い利用価値を見出し、
軍事・物流・通信・農業労力といった役割を担わせ、
人類の歴史の構築に役立たせたのです。
やがて紀元前3500年ごろ轆轤から円盤状の板材の車輪が発明されると荷車が生まれた。
車輪が広く使われるようになるには、平坦な道路が必要だったが草原では不自由がなかったのであろう。
だが車輪付きの乗り物の真価は家畜に引かせて初めて威力を発揮する。
紀元前2000年ごろにスポークが発明され車輪が軽く頑丈になり、
疾走させることが出来きる馬車が広く普及した。
更に紀元前2000年頃の金属の発明と結びついて、
丈夫な金属製の車軸が生まれたことで複数の人間が乗れるような馬車が誕生し
インド・ヨーロッパ語族がその主力として馬が引く「古代戦闘馬車」を発明した。
当初はまだ馬の品種改良が進んでおらず、
小型であった馬に引かせるために、
できるだけ軽い乗り物として開発されたのがこの「馬曳き戦車」なのだ。
馬車は陸上輸送の要であるだけではなく、
馬曳き戦車として軍隊の主力となったのだ。
(青銅器時代中期に登場)
馬曳き戦車を開発したウラル川上流のアーリア人とは、
北西インドにいたインド・アーリア人と
カスピ海南部にいたイラン・アーリア人の
母体となる混合集団であると言われ、
その使用言語は後のインド・アーリア人のサンスクリット語を基調にしていた。
こうして彼らは馬曳き戦車を原動力として
東欧州-中央アジア地域から次々に文明地帯に襲来し始め、
「西に進んだ」のが「ヒッタイト人」など、
「東に進んだ」のが「イラン(インド)・アーリア人」
「北に進んだ」のが後の「ゲルマン人」である。
しかし次第にその主力は戦車軍団から騎馬軍団へと移行していった。
なぜなら北方の草原地帯でウマに直接に騎乗する技術の改良が進められ
やがてモンゴルに於いてまで様々な馬の背に跨る騎乗の技術が編み出され普及したのである。
紀元前1000年ごろ、
広い草原地帯をヒツジ、ヤギなどの家畜とともに移動する
遊牧という生活形態が著しく効率化し、
キンメリア人、スキタイ人などの騎馬遊牧民が
黒海北岸の南ロシア草原で活動したため
騎馬・遊牧という生活形態もまたたくまに広まり、
東ヨーロッパからモンゴル高原に至るまでの農耕に適さない広い地域で
行われるようになったからだ。
彼ら遊牧民は日常的にウマと接したため、
常にウマに乗ることで高い騎乗技術を発明し、
ウマの上から弓を射る騎射が発明されるに至って騎馬は戦車に勝るとも劣らない軍事力となった。
遊牧民ではないが、紀元前8世紀にアッシリアは、
騎射を行う弓騎兵を活用して世界帝国に発展した。
中国では紀元前4世紀に北で遊牧民と境を接していた趙の武霊王が胡服騎射を採用し、
騎馬の風習は定住農耕民の間にも広まっていった。
さらに騎乗者の足や腰を安定させるための
鐙や鞍が発明され、
蹄鉄が普及して、非遊牧民の間でも、
西ヨーロッパの騎士や
日本の武士のような
騎兵を専門とする戦士階級が生まれたのだ。
こうして内燃機関登場以前の世界でその武力としてだけではなく
最速の陸上移動手段としても発展を遂げた。
伝令や物資の運搬にと馬の機動性を取り入れ、生活様式を向上させていったのだ。
内燃機が普及し始めたのは19世紀になってからだが、
それまでの間、6000年以上ものあいだ、
馬は人類が利用できる最も早い交通手段であり続けたのだ。
(力の方は「馬力」という日本語として今も残っている)
なお、現在生息する馬はターパンを家畜化したもので
ヨーロッパ中・東部の森林にいた種と、南ロシアの草原にいた種があり
1900年頃まで野生で生き残っていたと言った報告がありますが、
今では、ほぼすべて家畜化されたものか、
家畜馬が再野生化したものといわれています。
ウシの原種のオーロックスの野生絶滅が1700年頃ですから
大きな視点で見ればウマもほとんど同じ頃野生種が絶滅しました。
ちなみに北アメリカ大陸原産とされる現代馬の祖先である野生種エクウスなどは、
北米で既に数千年前に絶滅している。
南北アメリカ大陸に残ったウマ科の動物は、氷河期に絶滅し、
ユーラシア大陸で生き残っていたウマ、ロバの家畜化が行われたのだ。
- 閑話休題 -
ゲルマン人は紀元前750年ごろから移動を始め、
紀元前5世紀頃にゲルマン祖語が成立、
その語西ゲルマン語群、東ゲルマン語群、北ゲルマン語群に分化した。
そして先史時代,歴史時代初めのゲルマン語を話す部族および部族連合を
原始ゲルマン人、または古ゲルマン人と呼び、
原住地は紀元前2000年紀中葉では
ユトランド半島、北ドイツ、スカンジナビア半島の中南部と言われるのだ。
▼琥珀の道:バルト海沿岸線起源
さて、このユトランド半島、北ドイツ、スカンジナビア半島の中南部だが
その海岸線は有史以前(青銅器時代)から琥珀の産地であった。
人類における琥珀の利用は旧石器時代(2万年前以上)にまでさかのぼり
主な産地はかつてのプロイセンに相当する地域で
バルト海沿岸で多く産出する琥珀は、古くから宝飾品として珍重され
古代ギリシアではエーレクトロンと呼ばれる。(意味は「太陽の輝き」)
ゆえに真珠や翡翠と並び「人類が最初に使用した宝石」とも言われる。
産地であるバルト海沿岸を中心に、琥珀の交易路が整備された。
この交易路は「琥珀の道(琥珀街道)」という名称が付けられ
水上交通と古代の交通路として活躍した。
「琥珀の道」はスカンディナヴィアでは
「北欧青銅器時代」の繁栄を引き起こし、
地中海からヨーロッパ北端の諸国へと影響をもたらした。
琥珀は装飾品に欠かせない構成材として、
北海とバルト海沿岸からヴィスワ川とドニエプル川の水運によって陸路を行き、
イタリア、ギリシャ、黒海、エジプト、メソポタミアへと何千年も前から輸送され、
それはその後も長い間続いた。
また琥珀は北海からデルポイのアポロン神殿へ供物として送られ
黒海からの通商ルートは、もう一つの古代の交易路シルクロードに沿ってアジアへと続いていた。
こうして数十世紀の間、ヨーロッパ=アジア間の往復路、
北ヨーロッパから地中海までの往復路となっていた。
琥珀の道は、琥珀の産地と取引先であるヨーロッパ、中東、極東地域とをつないでいたのだ。
そう、紀元前の昔より世界は、文明は交易によって繋がっていたのだ。
- 閑話休題 -
▼ゲルマンの歴史:ローマと接触後、新しい部族が形成、建国
そもそもゲルマン人とは
インド=ヨーロッパ系のゲルマン語を話す、諸々の部族の総称で、
もともとバルト海(スウェーデンやポーランドに面する海)を原住としていた連中のことである。
だが、4~6世紀のゲルマン人がヨーロッパ全域に拡大し
西ローマ帝国を滅亡させ、中世暗黒社会と言う大罪を成立させた。
バルト海沿岸周辺の「原始ゲルマン人」が
中世初期(AD4.5〜10世紀を指す)に再編され
「ゲルマン民族」となり、
紀元前1000年紀中葉ないし紀元前3世紀までには
西はオランダからライン川下流域、
東はヴィスワ川流域、ドナウ川北岸、ドニエプル川下流域まで広がり、
「北ゲルマン」、「西ゲルマン」、「東ゲルマン」の3つのグループを形成したのだ。
それがその後の4世紀以降
人口増加による土地不足、狩猟・牧畜・農耕生活の拡大に伴い
溢れた連中がバルト海沿岸から南下して、
またロシア南部から現れたアジア系フン人の西進によって、
(騎馬民族。中国を脅かした匈奴の残党、北匈奴と同一民族か?)
彼らの圧迫や恐怖感から原住地からの大移動を考えるようになった。
こうしてゲルマン系諸民族は大移動を開始し、
紀元前1世紀にはライン川・ドナウ川にまで広がり、このときローマと接触する。
もともとゲルマン人の農耕は肥料を使わず、
また後の三圃制などの耕地を休ませて交替に使うことも知らなかったので、
生産力が低く、毎年耕地を変えなければならない移動性の強いものであった。
(そもそもの母体が遊牧民族であるためか?)
そのため、耕地を獲得するには常に新しい土地を開拓する必要があり、
徐々に増えてくる人口を維持するには、耕地の不足が問題となっていた。
このような耕地不足の状況を解消する必要性が背景にあったものと思われる。
ゲルマン系のアレマン人は原住地のスカンジナヴィア半島およびユトランド半島から南下して、
エルベ川流域に在住していたが、
3世紀ごろにローマ帝国に侵入するために、
地形的に便利な西部ドイツのライン川の上・中流域に民族移住した。
また、スラヴ系(西スラヴ人)のソルブ人も先住民として在住していたが、
長い歴史のうちにドイツ人と同化した。
*ソルブ文化は、特にキリスト教の復活祭で芸術的なイースターエッグを作ることで有名
さらに北西ドイツ地域からゲルマン人の部族の一つザクセン人の一派も移住してきた。
彼らはそれほど古くから存在する部族ではなく、
紀元前1世紀に記されたカエサルの「ガリア戦記」や
1世紀に記されたタキトゥスの「ゲルマニア」には記録されていない。
2世紀中頃に初めて記録に登場し、7世紀末には多くの小部族を吸収して大部族としての成長を遂げ、
その間の4世紀後半から5世紀にかけてその一部が
アングル人やジュート人とともにブリテン島に渡ってアングロ・サクソン人となった。
ゲルマン諸族のうち、サクソン人やフランク人、アレマン人、バイエルン人のように
異なる小部族や異分子を多く吸収して成長したこうした新しい集団では、
部族集団の形成期に共通の髪型や武装を共通の帰属概念の指標とした。
サクソン人の場合には男性が前頭部を高く剃りあげた。
また、部族名の語源になっている片刃の直刀サクスもこうした指標として機能した共通武装と考えられる。
母体となった小部族はエルベ川とアイダー川の間、ユトランド半島の付け根
(現在のドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の南部地域)
ホルシュタイン地方南西部に居住していたと考えられるが、
大部族に成長したサクソン人はその西隣のエルベ川からエムス川にかけての北ドイツ一帯に広がって
フランク王国の東側で勢力を誇った。
4世紀から6世紀に及ぶ約200年に及ぶゲルマン人の大移動は、
一般に375年の西ゴート人のドナウ川越境から、
568年の北イタリアでのランゴバルド王国の建国までとされ、
これを第1次ゲルマン人大移動という。
そしてローマ領内の各地に建国して、
フランク、ヴァンダル、東ゴート・西ゴート、ランゴバルドなどの
新しい部族が形成されたのだ。
ただ西進してきたアジア系遊牧騎馬民族のフン人に
圧迫されたのを契機に始まったとされるが、
その本当の理由はまだ判らないことが多い。
ただ当初は交易をおこないつつも、傭兵や小作農
(傭兵は相手をぶっ殺ヌスだが)
さらには下級官吏としてローマ国内に移住するなど、
その侵入は実に巧妙……いや、平和だった。
……移民はいかに危険であるかと言うことを歴史から学ばなければならない。
(このとき、ローマに住むゲルマン人は、
当時キリスト教会で異端とされていたアリウス派キリスト教に改宗していることに注目)。
カエサルは『ガリア戦記』を、
タキトゥスは『ゲルマニア』をそれぞれ著して、
当時のゲルマン社会を記録している。
これらによれば、
1.ゲルマン人は定着農耕と牧畜を営んでいた。
2.階層的には自由人、半自由人、奴隷に分かれ、自由人の上層部は政治的特権と豪族層を形成した。
3.彼らはローマ人達がキーウィタースと見做した政治単位に分かれ、
それはさらにパーグス(村落共同体)に分かれていた。
4.キーウィタースの上にゲンス(部族)があったが、
タキトゥスの時代にはこれは祭祀団体であった。
5.世襲王制をとるキーウィタースと、
民会で選出されるプリンケップスに統治されるキーウィタースとがあり、
政治権力の集中化も相当進んでいた。
とある。
そもそもゲルマン民族は、
従士制(平民は主君に従い参戦し、かわりに保護恩恵を受けるという、
のちの西欧封建社会の根源となる制度)にもとづいた、部族制国家の性格があった。
広大な領域に点在し、部族ごとに王に率いられていたが、
そのゲルマン部族の中で、黒海北岸にいた東ゴート族が375年にフン族に征服され、
フン族は東ゴート族を従えて西進した。
これを恐れたゲルマン一派西ゴート族は同年、南下を開始し、
翌年ドナウ川を渡ってローマ領東部に大移動を始めた。
これがゲルマン民族の大移動の発端となったわけである。
これにより、他のゲルマン部族もあちこちに移動を開始しては、
戦って滅ぼされるなどの繰り返しが起こった。
主なゲルマン民族が建国した国を挙げると、
西ゴート人はイベリア半島、
東ゴート人はイタリア、
ブルグンド人は南西フランス、
フランク人は北西フランス、
アングロ=サクソン人はブリテン島に入ってそれぞれ建国した。
最も長距離を移動したヴァンダル人はイベリア半島から北アフリカに入り、
かつてのカルタゴの故地に建国した。
これらのゲルマン人の移動と建国によって、
西ローマ帝国は滅亡し、
フランク王国が成立するという古代から中世への大きな変化の導因となった。
なぜなら西ローマ帝国の版図の中に好戦的な蛮族の王国がいくつも登場し、
西ローマ帝国の最も重要な遺産であるカトリック教会に感化されて、
ついにはカトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用していったからだ。
こうして徐々にこれら蛮族は、
自らをローマの遺産の「真の相続者」とみなすようになっていった。
居直り強盗のような連中である。
しかしこれらの多くのゲルマン系国家は、
東ローマ帝国やイスラーム勢力、
そして唯一生き残ったフランク王国に征服されていく。
以後の西ヨーロッパ世界は、
ローマ帝国末期から次第に力を増してきたキリスト教と
ゲルマン人の文化に支配されることになった(中世の始まり)。
古典古代の文化的遺産は東ローマ(ビザンツ)に継承され、
8世紀以降はアラビア語への翻訳を通じてイスラーム世界に引き継がれたのだ。
次いで8世紀に始まり、
11世紀まで続いたゲルマン人の一派ノルマン人の移動を
第2次ゲルマン人大移動という。
なお、4世紀にゲルマン人の大移動が始まり、
ヨーロッパ世界が成立していった頃、
遠く東アジアでも五胡と言われる北方遊牧民の活動が活発となり、
盛んに中国内部に侵入して華北に五胡十六国を形成する。
東西のこのような動きには何らかの共通する要因があったかも知れない。
▼西ローマ帝国の崩壊:
さて、かつて栄華を誇ったローマ帝国ですが、
その片割れの西ローマ帝国のついに崩壊の時がやってきます。
476年にローマが雇用した傭兵のゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって
滅ぼされるのです。
オドアケルは、当初、東ローマの皇帝に擦り寄る様子を見せたが、
やがて東ローマの政治に介入しようとする。
すると、東ローマは、これに危機感を抱き、
フン族の衰退とともに自立しイタリア半島に移動していた
東ゴートの王にオドアケルの討伐を命じ、
時の東ゴート王テオドリック(王位473?~526)によってオドアケルは討たれ、
代わりに東ゴートはイタリアの地に東ゴート王国を建国することを
東ローマに認めてもらいます。
こうして先に入り476年に西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン傭兵隊長オドアケルを倒し、
東ローマ帝国に滅ぼされるまで東ゴート王国(493~555)を繁栄させたのでした。
西ゴート族もウマイヤ朝に滅ぼされるまで
西ゴート王国(415~711)なる国をおこしていた。
他にもヴァンダル族、ブルグント族、ロンバルド族、
アングロ・サクソン・ジュート、フランク族などが
自身の部族国家をおこしている。
その中でフランク族はライン川東岸に原住しながら
北ガリア地方にまで居住区域を広げフランク王国を建国。
5世紀後半にメロヴィング家のクローヴィスが、
キリスト教会で正統とされたアタナシウス派キリスト教に改宗したことで
ローマ人と親密になってローマ教会に接近していき、
西欧カトリックの発展へとつながり、
やがて、フランス・イタリア・ドイツの基礎が生まれていくのである。
では、ゲルマン民族を追い出したフン族は、その後どうなったのでしょうか?
5世紀の前半に大王アッティラら登場し、
彼はパンノニア平原(現在のハンガリー)に大帝国を築きました。
そして、されに西征しますが、
451年のカタラウヌムの戦いにて西ローマ帝国と西ゴート、
フランクの連合軍に敗れ去り、その後アッティラが急死すると帝国は崩壊しました。
▼ゲルマン民族の大移動その真実:
そもそも私たちは「ゲルマン民族の大移動」という表現を、
どうでもいいので何の疑いもなく使っている。
しかし、フランスではそうではなく「大侵入」といっているのだ。
ドイツでは「大移動」という。
つまり、ゲルマン人の視点から見れば「移動」であるが、
当時のフランスのガリア人からすれば、それは「侵入」であったわけだ。
ならばアメリカ大陸も発見ではなく侵略とわかりそうなものなのだが……
日本での世界史教育は常にドイツよりだったから、
「ゲルマン民族の大移動」という言い方が定着したのだろうが、
ちょっと安易に使いすぎているのではないだろうか。
その辺の事情は、ジャック=ル=ゴフが次のように説明している。
(引用)北方ヨーロッパと中央ヨーロッパからの民族の移住を、
フランス人は「大侵入」とよび、
ドイツ人は「民族大移動」とよびました。
ヨーロッパ人が自分たちの歴史について
いつも意見を同じにするとはかぎらないのがわかります。
EU統一などと言いながらその実多民族他文化なので
纏まり用などもともとないのですから。
事実、移住民族の大部分は同じ民族集団であるゲルマン人、
すなわちドイツ人の祖先に属し、
(侵入された側の)ガリア人はフランス人の先祖に属していたからです。
人びとはふつう新来者を「蛮族」としてあつかいました。
彼らの文明を劣っていると見なしたからです。
オメーのことだよアメリカ人!
ゲルマン人は文字を用いず、口承による文化を持っていました。
おまけに口は臭く足も臭く全身が臭かったのです。
そもそもゲルマン人のローマ帝国内への移住は
最終的には平和的なものとはなりませんでした。
結局は流血の戦闘による軍事的征服だったのです。
彼ら異民族はすすんだ製鉄技術をもち、
旺盛な戦闘……いや、破壊衝動を持ち
立派に武装していましたから、たいていは勝利しました。
特にゲルマン人の剣は両刃で長く丈夫で、威力抜群でした。
▼不可思議な宗教、キリスト教:
・教義のためなら教祖をも殺す:鍵信者
キリスト教というのは実に不可思議な宗教である。
実は教組とははイエス・・・ というより実はパウロである。
なんとパウロはイエスの直弟子ではない。
と言うか、そもそも彼はイエスと面識もなかった。
そう、会話どころか会ったことすらないのである。
正教会やカトリック教会などはパウロを使徒と呼んで崇敬するが、
イエス死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではなく、
故に「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない。
そもそも彼は元々は正当ユダヤ教徒パリサイ派(ファリサイ派)の人であり、
伝え聞くユダヤ教の異端であるイエス派を殺したいほど憎み、迫害していたが、
ある日地獄から悪魔の囁き ✕⇒
天からイエスの声を聴き、改心してイエス派に入った人である。
*「サウロ(パウロ)の変心」× ⇒「サウロ(パウロ)の 回心」
イエズス・キリストがゴルゴダの丘で十字架に磔けられ、
哀れな最後を遂げたその年の事である。
イエスの残党を捕縛処罰しようとサウロが旅をして
ダマスコに近づいたとき、突然、
イエス「エリ・エリ・レマ・サバクタニ
(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?)……
じゃなくて、ゴホン。
サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのかな? ちょっと言ってめろん」と、
天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いたその直後、彼は目が見えなくなった。
サウロ「俺の目を盗みやがったな!?」
だがアナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈ると
サウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。自演乙である。
- なおこれが「目から鱗が落ちた」という言葉の語源である。
この手口は先ごろイエス・キリストが磔になった際に生死を確かめるため
ローマ帝国の百卒長ロンギヌスがその左脇腹に槍を突き刺した際に
イエスの血が眼に入ると視力を取り戻すという奇跡によって彼が改心、
洗礼を受けた事に味をしめたのであろうか?
それはともかく、新約聖書の改竄……ゴホン、著者の1人だが、
言っていることがいちいちイエスの教えに反することも多く、
その利権からイエスの一番弟子のペテロに批判的な人であった。
ちなみにローマカトリックのバチカンでは、
初代教皇(法王)はペテロとし、
コンスタンティノープルの東方正教会はペテロとパウロが首座使徒となっている。
・信仰のためなら神をも捨てる:葉信者
ちなみにキリスト教がローマ帝国の国教になった直後、
なんと帝国は東西ローマ帝国に分裂する。
後に4世紀にローマ帝国はキリスト教を国教と定めた。
ご存じの通りローマ帝国は、
古代ギリシャの叡智を受け継いだ世界的にも先進国の一つであったが、
キリスト教が国教となってから、その哲学も科学も失ってしまうのだ。
なんと帝国はキリスト教を国境とした直後東西ローマ帝国に分裂してしまい、
しかもそれから100年もしないうちに、
北方の蛮族ゲルマン人がモンゴル系のフン族に追われて民族大移動で、
西ローマ帝国内にどんどん侵入してきたのだ。
なお大まかに言えばゲルマン人で、
イギリスに侵入したのがアングロサクソン族であり、
フランスに侵入したのがフランク族と現在の西ヨーロッパ諸国の人々である。
▼ゲルマン人とキリスト教が交差する時、蛮行(中世暗黒時代)が始まる:
このゲルマン人、いかに阿呆で野蛮であったか・・・、
たちまち野蛮な侵略者ゲルマン人によって西ローマ帝国は滅ぼされてしまう。
しかもこのゲルマン人たち、なんとキリスト教を受け入れるのだ。
つまり知性を否定する宗教と、元々知性を持たない野蛮人の相性が良かったのか?
こちらが西方教会(ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントほか)である。
*なお東西両教会は
395年にローマ帝国が東西に分割された後、
476年の西ローマ帝国滅亡を経て交流が薄くなり、
数百年の間に教義の解釈の違い(フィリオクェ問題等)、
礼拝方式の違い、
教会組織のあり方の違い(教皇権に対する考え方の違い、司祭の妻帯可否等)
などが増大し西方教会、東方教会の両者は11世紀頃に分立した。
ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教が相互に破門した1054年のことである。愚かぶ。
だが一方、東方正教会つまり東ローマ帝国は
別名をギリシャ帝国と言われるほど古代ギリシャ文明を残しており、
ゲルマン人の侵入を防ぎその後1000年近くも存続する。
日本人は、西ヨーロッパと西ヨーロッパ人が中心のアメリカからある種の洗脳を受けており、
世界でもっとも進んだ文明は西ヨーロッパであると思っている。
しかし、実のところ、このゲルマン人を祖先にもつ西ヨーロッパ人たちは
18世紀になるまで、実に野蛮人であった……後臭い!
獰猛なゲルマン人が、世界でも珍しい一神教を受け入れる。
旧約聖書には「異教徒を殺せ」と書かれている。
これは絶対神からの命令だからキリスト教徒は
「異教徒を殺さねばならない」ということなのだ。
だからフリードニヒ2世が率いた第6回十字軍がエルサレムの奪還に成功したとき、
フリード二ヒ2世は戦争ではなく、交渉でエルサレム奪還にしたのだが、
そのことにローマ教皇と教皇庁は大激怒!
ローマ教皇と教皇庁は成功したのになんで激怒したかというと、
「異教徒を殺さなかったから」である。
ちなみにイエス本人はキリスト教では無くユダヤ教徒であるのだが、
この際其のようなことなど関係ないもようである。
また十字軍は、同じキリスト教国である東ローマ帝国に攻め込んだりもしている
「異端は異教よりも悪い」とは西ヨーロッパとカトリックの理屈なのだ。
そんな西ヨーロッパだから中世の間は戦争ばかりしている。
そして異教徒であるユダヤ人やロマ人を殺しまくった。
魔女狩りや異端審問所は、
異教徒や人々が気に入らない人物に汚名を着せて殺すためのものだが、
これも「異教徒は殺さなければならない」という理屈からきている。
「いいですか?暴力を振るって良い相手は悪魔共と異教徒共だけです。」
こうしてカトリックは免罪符などあまりの腐敗ぶりから、
いわゆる宗教改革が起るが、
そうなるとカトリックとプロテスタントの戦争が起るのだ。
……安定のキリスト教徒同士の殺し合いである。
大航海時代になると西ヨーロッパ人は精力的に
アフリカやアジア、アメリカ大陸に植民地を求めていくが、
その土地土地の人々を有色人種であること、
異教徒であることを理由に殺しまくっている。
彼ら白人がネアンデルタール人を民族浄化したことと関係があるのであろうか?
北米では奴隷にするネイティブアメリカンを殺しすぎて奴隷に使えず、
アフリカから黒人奴隷を輸入するようになる。
これがのちの黒人問題を生むのであるが自業自得である。親の因果が子に報う。
◯入浴、トイレの否定:
・パリ、ロンドン
さらにキリスト教徒である西ヨーロッパ人は入浴の習慣がなく、不潔であった。
むしろキリスト教徒であることが不浄であった。
日本女性が憧れるかのベルサイユ宮殿には、
一応浴槽はあったがマリーアントワネットが来るまで使われることはなかったし、
トイレもなかった。
宮殿には4000人も暮らしていたのだが、腰掛式の便器は300くらいしかなく、
おまるで用を足し多くの人は庭や宮殿内の廊下や部屋の片隅で用を足した。
おまるに糞尿は庭に捨てるので、ベルサイユ宮殿は異臭まみれクソまみれであった。
もっとも宮殿だけではなく、
そもそもパリもロンドンの町も住宅にトイレはなくおまるに用を足し、外に捨てていた。
よっと町中に糞尿の匂いが溢れていたという。疫病も流行ろうというものだ。
風呂にも入らずトイレもない。これが中世西ヨーロッパ人の正体だったのである。
しかも、いまでもパリなどは犬の糞だらけだという。
パリースィイとは犬の糞のことなのだろうか?
イギリスのエリザベス一世女王も月に一度くらいしか入浴しなかったという。
(女王-月に一度)
・イスラム圏、中華
一方、我々が西ヨーロッパより文化が低いと勝手に思い込まされている
イスラム圏や中華はどうか?
実はイスラム教ではローマ帝国から入浴の習慣を受け継いでいたのだ。
何よりイスラム教は身体を清潔に保つことが義務付けられており、
沐浴や体を洗浄しなければならないのだ。
ちなみに西ローマ帝国や西ヨーロッパはキリスト教が国教になったあと、
入浴の習慣は無くなったが、東ローマ帝国ではその習慣はちゃんと残っていたという。
中華では『礼記』に5日に一度風呂を沸かし、3日に一度頭を洗い、
その間、顔の汚れは温めた米のとぎ汁で洗い、足の垢はお湯で洗い、
更に手は一日に5回洗うように書かれている。
日本人ほど清潔好きではなかったが、街には公衆浴場もあった。
実は日本にお風呂の習慣を伝えたのは中華からである。
当然宮殿にはトイレはあった。
実際のところ、18世紀くらいまで
イスラム圏や中華のほうが文化的に上であったのは間違いない。
・西ヨーロッパ人は凶暴です:鬼畜米英
西ヨーロッパ人が世界を席巻したのは、その凶暴さである。
戦争には「兵士と一般人の区別」という一般人を攻撃しないというルールがあった。
これはオランダの法学者グロチウスが17世紀に記した国際法の基本である。
しかしこれは白人同氏でのみ通用するルールであり、
彼らはこのルールを異教徒や白人以外の人間には使わなかった。
それがユダヤ人迫害であり黒人奴隷で中南米の民族虐殺である。
また日本は大東亜戦争のとき、
白人が支配するアメリカと戦争をしたが
奴ら毛唐がやったことは何か?
東京大空襲など非戦闘員が住んでいる町への無差別空爆であり、
広島長崎への原爆投下に見られる、非戦闘員への虐殺行為である。
あの条約無視の大量殺戮者どもめ。トランプをみればよく分かるであろう。
この行為は、ベトナム戦争でも中東への空爆でもいまだに続いているのだ。
ちなみに白人にとって日本もベトナムも中東も有色人種であり異教徒なのだ。
異教徒への無差別な殺人はいまだに絶えていないということなのだ。
第二次世界大戦後
西ヨーロッパがしかける戦争などは少なくなったが、
その流れのアメリカという国は、いまだに野蛮国といっていい。
共和制でありながら帝国主義を押し通すこの国を
米帝(アメリカ帝国)と呼ぶべきなのだ。
(ちなみにローマ帝国も本当は皇帝など存在せず、
侵略主義である帝国主義をつらぬき
また多くの重要な職位をたった一人が集中して兼任し独裁的に握ったため
ローマ帝国などと呼ばれるようになったのだが……ローマにも議会ならぬ元老院があったが。
・最高司令官 「インペラトル」の称号は「エンペラー」の語源。
・ユリウス・カエサルの正統な後継者であることを示す 「カエサル」の称号が
ドイツ語のカイザーやロシア語のツァーリの語源。)