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現実:食 石鹸(鯨油からココナッツ・オイルへ)からフィッシュ&チップスへ

食べられる石鹸……アクシズ教徒め

▼日本開国の真実:その実情


 幕末の1854年にペリー率いる黒船がやってきましたが。

その目的は開国そのものではありません。

開国によって『捕鯨船』に水や食糧が補給できるようにする事でした。

『捕鯨船』に水や食糧が補給できるようにする事でした。(大事なことなので2回言いました)



 そう、アメ公こそ鯨を壊滅寸前に追いやった犯人なのです。

それが証拠に歴史の浅いアメリカの博物館では捕鯨関連の資料が山積みです。


 例えば石油の採掘が始まるまで鯨油げいゆ

ランプの燃料と潤滑油として大量の需要がありました。

理由は温度が下がっても固まらない、

粘結度があまり変わらないので引っ張りだこでした。


 更に細かく言えば、マッコウクジラに代表されるハクジラから採取されるマッコウ油と、

シロナガスクジラに代表されるヒゲクジラから採取されるナガス油(狭義の鯨油)に大別され、

両者は成分に大きな違いがあり、

ハクジラの油は人間には消化できない成分ワックス・エステルを含むため主に工業用途に、

後者は食用を含め幅広く利用されたのです。


 西洋では、当初鯨油はランプの燃料以外には使われませんでしたが、

髭や骨は女性のコルセットやペチコートの材料として使われました。


 一方、日本では、鯨油は薬や調理油以外に、

農業の必需品としても扱われていました。


 田んぼの水に鯨油を張って、稲についたイナゴを落として殺したのです。

鯨油がなければ、蝗害によって凶作がはるかに増えただろうと言われます。


 クジラは、肉・軟骨・内臓は食用、歯やヒゲは工芸品、筋は弓の弦、

さらに血も脂も薬用に重宝されました

(シーボルト『江戸参府紀行』によれば、

 ヒゲはサラダにすると美味しく、便秘薬としても有効だったそうです)。


 こうして日本では、欧米諸国とは違って

石油が登場しても捕鯨は終わることはなく長く続いていくのです。


 欧米において、

過去に行われた捕鯨の重要かつ最大の目的は、

食用としての鯨肉確保ではなく、

鯨肉から採れる鯨油の採取であったのです。


 それ故19世紀のアメリカ式捕鯨の船員は、

クジラの大きさを採取できる鯨油の量で

「40バレルのクジラ」というように表現していました。


 そうこの当時、世界中の捕鯨業者が、鯨を捕っては鯨油を生産していましたが

それらは全てただただランプの明かりの燃料にするためだけなのです。



▼鯨油の取り方、作り方:


 では、いったいどうやって鯨油を作るのか。


 それはクジラ肉の中でもクジラの分厚い皮下脂肪層からの採取が中心で、

他に骨や内臓も原料となるのですが、他方筋肉などは脂肪分が一般に乏しいため、

鯨油原料としては非効率で歓迎されなかったのです。


 それ故通常は原料となる部位を細かくした後に、

釜に入れて煮るなどして加熱する融出法で採油されました。


 なので帆船時代の捕鯨船で遠洋に出るものには、

船上で採油ができるように薪や煉瓦を搭載して出航し、

鯨の捕獲後に煉瓦で炉を組みたてていた例があり、

その炉の使用が終われば炉を解体し、煉瓦は投棄していました。


 なお、近代の捕鯨母船では、「クワナーボイラー」に代表される

専用の採油設備が搭載されていました。



 実際に鯨油を取る具体的な例として『蕃談』という本によれば、

三陸海岸沖で漂流し1838年アメリカの捕鯨船に救助された

「長者丸」という船に乗っていた水夫の次郎吉は、

救助後の5カ月にわたってアメリカの捕鯨の現場を見ることになります。


 そう、船上でのマッコウクジラの鯨油製造は


(1)頭部の皮をはぎとり、頭に穴を開けて脳みそをくみ出す

(2)下あごと頭を切り落とす

(3)皮と肉の間にサスベリという刃物を当て、

   船上のろくろで鯨を回転させ、果物の皮をむくように鯨の皮を剥ぐ

(4)鯨の肉と骨は海に捨て、皮と脳みそを煮立てる

(5)油こしで、不純物を除いて、油を手に入れる


と言った感じです。


 10mちょっとの鯨1頭で、150樽もの油を採ることができました。

マッコウクジラの脳天には油が大量につまっており、

この油をひしゃくで汲み取っておくと、自然に固まって良質のロウが採れました。

 

 鯨の好都合な点は、鯨油を採った残りかすを、

油を煮るための薪として代用できたことです。

無駄な薪を船に積む必要がなく、効率よく油が採れました。


 結局のところ当初は採算がいいという理由だけで捕鯨により鯨油が取られていき、

その乱獲によって、17世紀半ばには大西洋の鯨は取り尽くされ、

まもなく主要な捕鯨ポイントは太平洋に移っていきます。


 その流れのなかで、

当時カメハメハ3世の統治下にあったハワイ(サンドイッチ諸島)が

捕鯨の主力基地になっていくのです。


 そこには各国の船舶が集まり、船の修理や補給、

鯨油の商船への搬入などが大々的に行われていました。


 また鯨油を積んだ商船の行き先は、ヨーロッパとアメリカで、

ロンドンでは特に鯨油が高く売れることで有名でした。


 次郎吉を救助した船では、水夫の給料が14〜15ドルのところ、

ロンドンに行けば1人500ドルのボーナスが出るだろうという水夫の会話もありました。



▼世界最大の捕鯨国アメリカ(笑):


 こうして19世紀になると、アメリカは世界最大の捕鯨国になりました。

アメリカは、1万8000人が乗り込む7000隻以上の大船団を持っていました。

そして毎年400万ドルを使って700万ドルの利益を上げるのです。


 やがてクジラの豊かな漁場がある日本近海に目をつけて、

毎年700隻あまりの外国船がやって来ましたが、

その3分の2はあのアメリカ船だったといわれています。

身勝手なアメリカの立場に立てば、

ハワイの先の捕鯨基地として日本に開国を要求するのも、当然の話でした。


 小説『白鯨』には、

《もしあの二重にかんぬきをかけた国、日本が外国に門戸を開くことがあるとすれば、

 その功績は捕鯨船にのみ帰せられるべきだろう。事実、日本の開国は目前に迫っている》

 と書かれています。

『白鯨』が出版されたのが1851年、

 そしてペリー艦隊が最初に日本にやってくるのがその2年後です。


 日本近海に外国船があふれたことで、

漂流した日本人漁民が救助される事態も急増しました。

そのなかで最も有名なのがジョン万次郎です。

ジョン万次郎は1841年、アメリカの捕鯨船「ジョン・ホーランド」号に救助され、

ハワイ経由でニューベッドフォードに行きます。


 そして彼はアメリカで捕鯨技術を学び、その後、日本に帰国。

開国後の1859年、幕府の「鯨漁御用」となり、

日本にアメリカ式の遠洋漁法のやり方を広めます。


 それまで日本では沿岸の鯨に網をかけて殺す漁が主流でした。

一方、アメリカ式は、母船から手こぎボートに乗ってクジラを追い込み、

銛や槍で殺します。遠洋漁業の導入で、日本の捕鯨量も徐々に増加していくのです。



▼鯨油の工業的な価値:マーガリンから石鹸まで……そしてニトログリセリンへ


 鯨油が工業的な価値を持ち始めたのは、20世紀初頭のことです。

鯨油は、ヒゲクジラ類から採れるナガス鯨油と、

ハクジラ類から採れるマッコウ鯨油に分かれますが、

厳密な違いはおいておくとして、いかに工業化されていったかを見ておきます。


 ほかの魚の脂に比べると、鯨の脂はそこまで臭いはきつくありませんが、

長く置くと不飽和脂肪酸によって悪臭を放ちます。


 しかし、この臭いは固体化すると消えることがわかり、

1909年、イギリスで初めて「鯨油石鹸」が登場します。

同年、ドイツでは「鯨油マーガリン」が登場しています。


 さらにロウソク、塗料、シントレッキス(界面活性剤)、

グリセリン、ポマード、化粧品の材料となっていくのです。

こうした鯨油の活用は、圧倒的にドイツが抜きんでていました。


 20世紀初期には、ダイナマイトの原料であるニトログリセリンの製造に用いられ

同時期に水素化による硬化技術が開発されマーガリン原料として多用され

第一次世界大戦後のドイツにおいて特に重要な用途で、

第二次世界大戦後のイギリスや日本でも広く使用され、

同様にショートニング原料にもなった。


 ですがアメリカでは、1859年に石油採掘が始まり、

ゆっくりと捕鯨が下火になっていきます。


 実は、19世紀も終わりになると、

日本沿岸のマッコウクジラとセミクジラはアメ公によってほぼ捕り尽くされており、

費用対効果が著しく悪くなっていたのです。


 そう、結局採算が悪くなれば容易くやめてしまう程度のものだったのです。



 また、鯨油は石鹸にも使われていて、

当事の石鹸の包装に鯨の絵が使われている事からもうかがえます。


 しかし、1800年代半ばから値上がりし(理由はお察し)

やがて鯨油に取って代わって

ココナッツ・オイルが石鹸の材料に使用されていきます。

……そう、ココナッツ・オイルでも良かったのです。


 また石鹸が変わっていくのは材料だけでなく、

当事は糸で切り分けていたのが現代の石鹸のように使いやすいサイズへと変わり

有名な画家を使って広告にも力を入れた石鹸が洗練されていくと同時に

1851年の万国博覧会には727ものメーカーが出品していましたが。


 この頃石鹸のシェアはナイト、ギブス、ヤードリー。

それと新規参入したサンライトとペアーズに半数以上占められました。


 この際、競争に敗れた凡百の石鹸メーカーは

石鹸を作るための銅鍋をフライパンに、

ココナッツオイルを揚げ油に転用する事によって

ホット・パイ・ショップから始まったフィッシュ&チップス屋に転業していきます。


 まるでチキン屋になるしか無い亡国⇒某国のようです。



▼イギリス料理マズメシの誕生:


 さてそんな事はともかく、ここからが本題です。


 ヨーロッパの他の国々におけるのと同様、

イギリスの食文化には

穀類を主食としているという自覚は概してとぼしく、

ジャガイモを揚げる(チップス)、

焼く(ベイクドポテト)、

あるいは茹でる(粉吹芋)

などしたものが主菜の付け合わせとして

大量に添えられることが多い。


 この様にイギリス料理が不味く貧しいのは、

イギリス人自身が認めるところなのである。



 なぜこれほどにまで不味い、マズメシだと言われるのかというと、

それは産業革命時の文化破壊により

野菜は本来の食感がわからなくなるほど茹でる、

油で食材が黒くなるまで揚げる、

麺を必要以上にゆでる

などといった行為がイギリスでよく行われたからである。


 この食材本来の味や食感を残さないほど加熱する調理法が

他国人には好まれないからである。(自国民にもだが)


 しかも時間経過とともに

冷たい肉、火を通しすぎた肉、

あるいはかなり味が落ちた肉を誤魔化して食べることが前提化した為、

これにより個人が好みで味付けするのが当然という食習慣が成立してしまったので

料理人が厨房から出す料理とは完成形として提供するのではなく

食べる人の好みに応じて塩や酢などで味付けされることを前提としているのだ。


 故に調理の段階で味付けらしい味付けがされないことも多く、

不慣れな旅行者はこの味のない料理に困惑することになるのだ。


 実際、現在においてもイギリスのレストランの多くにおいては、

高級店であっても、塩や酢などの調味料がテーブルに並び

「客が好みで味付けすべし」という状態であり、

他国では考えられない状態である。



▼フィッシュ&チップスの誕生:冷凍装置搭載の蒸気船と鉄道網


 さて、多くの石鹸メーカーが

パイや魚のフライとチップスを売るホット・パイ・ショップから始まった

フィッシュ&チップス屋へと転業していたちょうどその頃、

この料理にとって重大な発明や設備が次々とされていきます。


 なんと1856年にオーストラリアのジェームズ・ハリスンによって

実用的な冷凍装置が発明されるのでした。


 更に産業革命前は新鮮な生魚を遠方に輸送する手段は存在していなかったが、

海上の蒸気船の登場と地上の鉄道網の整備により、

ロンドンなどの大都市に迅速に鮮魚を輸送することが可能となったのです。


 こうして1864年以降、冷凍装置が蒸気トロール漁船にて使われた結果、

氷詰めで輸送されたタラがイギリスで安く出回るようになりました。


 これにより1860年代以降にはロンドンとランカシャーで

このタラのフライとポテトのフライが組み合わされた二つのフライが

「フィッシュ・アンド・チップス」として一緒に販売される形態が普及するのである。


 この、タラなどの白身魚のフライに棒状のポテトフライを添えたものが

フィッシュ&チップスとして売り出されるとイギリス国内で爆発的に広まり、

1870年代にはイギリスの他の地方でも労働者の食べ物として広まっていきました。


 なぜなら産業革命期の労働者は安価ですぐに食べられ、

さらに腹持ちの良い食事を求めており、

イギリスの工業化の進行とともに魚のフライとチップスの組み合わせは、

労働者の食事の主体として広く浸透し普及するのでした。


 こうして20世紀の初頭、1900年前後にはフィッシュ&チップスが

イギリスでポピュラーな庶民の味として普及していき 

ロンドンには約1200軒のフィッシュ・アンド・チップス屋が存在していた。


 フィッシュ・アンド・チップス屋は庶民にとっての最初の外食産業となり、

やがて、「庶民の憩いの場」として広く親しまれ

1930年代になると中流階級もフィッシュ・アンド・チップス屋を利用するようになるのです。


 パブの衰退と同時期に若者のたまり場として、

パブよりも健全なたまり場であるフィッシュ・アンド・チップスの台頭が始まり、

フィッシュ・アンド・チップスは都会の労働者階級の社交場としての地位を確立するのでした。



▼フィッシュ&チップス第一号店の誕生:その歴史


 このようにフィッシュ&チップスはイギリス国民のソウルフードであり、

イギリスの伝統的ファストフードとなった「フィッシュ&チップス」ですが、

その第一号店が誕生したのは19世紀中ごろ、

1860年のロンドンの下町イーストエンドにあった

「ジョセフ・マリン」のお店と言われ

最古のフィッシュ・アンド・チップス専門店とされています。


 既に他の店でも魚のフライやポテト・チップスが店舗で販売されていましたが、

「ジョセフ・マリン」こそ、その2つをドッキングさせ、

「フィッシュ&チップス」として一纏めに売り出しました。



 やがて1913年には英国国際フィッシュ・アンド・チップス協会

(The British National Federation of Fish Friers) が設立され、

フィッシュ&チップスのレシピや調理法が確立されました。


 第二次世界大戦下でも数少ない配給食糧として市民に提供され、

戦後もイギリス国民のソウルフードとして根強い人気を得ています。


 1970年代のロンドンにはフィッシュ・アンド・チップスの店が多く現れ、

町中に屋台が建ち並んでいた。


 70年代の初頭には夕方になると新聞紙に包まれたフィッシュ・アンド・チップスを手に

労働者たちが帰宅する光景が見られた。


 また、70年代から80年代のロンドンでは、

地下鉄やバスの乗務員として多く雇用されたカリブ系黒人女性が

夕食にフィッシュ・アンド・チップスを持ち帰る姿がしばしば見られた。


 だが現在、外資系のファーストフードチェーンに押され、屋台の数は減少している。




 現代においてイギリスはロンドンのヒースロー空港に降りたつやいなや、

フィッシュ&チップスが漂ってきます。


 なぜなら空港内に”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”

というキャッチフレーズで知られる、

「ハリー・ラムズデン」が迎えてくれるからです。

ただ創業者のハリー・ラムズデンは石鹸業者ではないらしく

ブラッドフォードの下町マンチェスター・ロードで店を開きましたが。



▼食べ方:


 イギリスでは、伝統的にフィッシュ・アンド・チップスには酢と塩をかけて食べる。

酢はモルトビネガー(Malt vinegar麦芽を原料とする酢)やオニオンビネガーが使用され、

醸造されていない安価な調味料がかけられることもある。


 付け合せにはマッシィピー(Mushy peas、潰した緑色の豆)が一般的であり、

テーブルが置かれたフィッシュ・アンド・チップスの店とパブでは

通常料理と一緒に輪切りのレモン、酢と塩とソース類が出され、客は好みで味付けができる。


 アイルランド、ウェールズ、イングランド北部では、

多くのテイク・アウェイ店ではグレイビーソース、カレーソースなどのソースや

マッシイピーがトッピングとして用意され、

これらのソースは通常フライの上に直接かけられた状態で提供される。



 フィッシュ・アンド・チップスを持ち帰る場合、

フライは白紙で包まれ、白紙の外側に油分を吸収する新聞紙が巻かれた状態で提供される。

あるいは、円錐状に丸められた新聞紙かわら半紙に入れられて渡されることも多かった。


 だがかつては新聞紙に包んで客に出すのが半ば常識になっていたが、

今日では衛生面の問題で新聞紙を包装に使用することは禁止されている。


 新聞紙の印刷に使用されるインクに含まれる鉛の中毒性が指摘されたためであるが、

印刷業者は現在新聞の印刷に使用されるインクに健康上の害は無いと述べている。


 禁止された新聞紙の代用としては、新聞紙の柄を印刷した用紙を用いることが多い。

またイギリスの都市伝説として、

『タイムズ』よりも『ザ・サン』で包んだほうがフライが美味になるという俗説も存在する。


 包装紙に包まれたフィッシュ・アンド・チップスを渡された客は歩きながら、

あるいはどこかに腰かけてフライを指でつまんで食べるのが一般的である。


 なお、パブやイスとテーブルが置かれたフィッシュ・アンド・チップスの店では、

皿に載せて供される。



▼乱獲により絶滅寸前に:


 フィッシュ・アンド・チップスの原料である大西洋北東部・北海のタラは、

イギリスをはじめとするヨーロッパの国々の乱獲により2000年前後には枯渇寸前になっており、

回復が試みられている。


 2003年度は、EU水産担当相会議により北海のタラの漁獲量を前年度より45%削減し、

漁船団の出港日を月15日以内に制限する取り決めがされた。


 2012年5月、イギリスのチャールズ皇太子がスコットランドで開催された世界水産学会議に出席。

講演の中で、ゴードンストウン校に通っていた学生時代、

フィッシュ・アンド・チップスを買って食べたことを引き合いに出しつつ、

今後も伝統食を守ることができるよう持続可能な漁業の重要性を訴えた。


 ……奴ら捕鯨について日本に対してどんな文句を言ってきたのか

覚えているのだろうか?

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