現実:食−紅茶 ティータイム
▼紅茶文化の誕生:日本からオランダへ
ヨーロッパで最初に飲茶の風習を広めたのは17世紀初頭のオランダで1610年のことです。
オランダ商人は日本との交易を通じて侍の茶と茶の文化に接し、
緑茶をオランダ本国に伝えたのだ。
この飲茶の風習はさらにオランダからフランス・ドイツ・そしてイギリスと欧州各国へ伝えられた。
▼イギリス王宮からイギリス貴族社会へ:
イギリスでは、1660年代から茶の飲用が宮廷で始まった。
当時薬だった茶が飲み物に変わるきっかけは、
チャールズ2世時代の宮廷における東洋趣味であった。
更に言えばイングランドにおいて最初に紅茶がもたらされたのは、
ポルトガルの王女キャサリンが嫁いできた1662年前後のことである。
飲み物といえばほとんどアルコール飲料だった宮廷に彼女がお茶を持ち込みました。
当時の中国の茶は大変な高級品で、
よほど身分が高くなければ手に入れることはかなわなかった。
しかし、これを毎日のように飲んでいたのがキャサリンであった。
これは、当時貿易先進国として繁栄していた
ポルトガルの王女だったからこそできた贅沢である。
この「チャールズ二世」に嫁いできた「ポルトガルの王女キャサリン」が
訪問者にもお茶をふるまい人気を呼んだことで
やがて上流貴族の女性は王妃に倣ってお茶を飲むようになったのです。
またキャサリンは、見知らぬ異国で身を守るために
「万病に効く東洋の神秘薬」である茶の他、
7隻の船に満載させた砂糖を持参して嫁いできました。
実はヨーロッパではサトウキビが栽培できなかったので、
砂糖は銀と同等の貴重品でしたが、
ポルトガルは当時領土であったブラジルでサトウキビを栽培させていたので、
比較的容易に砂糖を入手できたのでした。
こうしてキャサリンは、
持参した貴重な砂糖を茶に入れて飲むという贅沢な飲み方も始めました。
それまで薬用として飲まれていた茶も、
甘い砂糖を加えることで別のものへと変わったのです。
こうして彼女が生活していたサマーセット・ハウスのサロンでは、
訪問者である宮廷関係の貴婦人たちに甘〜い砂糖入りの緑茶が
毎日ふるまわれ貴族階級で人気を呼んでいたといわれます。
そしてそこから、イングランドにおける喫茶の習慣が確立していくこととなるのです。
この時、キャサリンは茶だけではなく、
中国や日本の茶道具や磁器の茶碗を王室に紹介し、
王宮に茶を“楽しむために飲む”という習慣を広めました。
当時のヨーロッパでは、まだ乳白色の磁器を焼く技術がなかったので、
彼女が持参した東洋の磁器は、
茶同様、美術や工芸品に関心の高い王侯貴族の注目を集めたことでしょう。
茶を飲むと同時に茶道具を集めたり、眺めたり、
または自慢したりといった美術的な要素が楽しみとして加わりました。
こうしてイギリスの地主・貴族を中心とする上流階級の間でのお茶文化が浸透し
徐々にイギリス貴族社会にも広がっていったのです。
これまでは、男性が社交場でのみ「薬」として飲んでいた茶が、
この頃から「飲み物」として貴族の家庭で飲まれるようになったのでした。
こうした東洋趣味は、イギリスの食生活の変化である「生活革命」の一因となったとされるのです。
しかし王妃が世継ぎを産まなかったことによって、
1685年2月6日にチャールズ2世が死去すると、
王位は弟のジェームズ2世が継承し、未亡人となったキャサリンは、
同じくカトリック教徒であったジェームズ2世の治世中はイングランドに留まっていました。
ですが名誉革命(1688年 - 1689)でジェームズ2世が王位を逐われ、フランスに再亡命し
プロテスタントのウィリアム3世とメアリー2世が即位したことを受けて1693年、
31年ぶりに故国ポルトガルに帰国したのでした。
この名誉革命でキャサリンと入れ替わりになる形で
イングランド・スコットランド・アイルランドの女王である王妃メアリが
オランダから夫であるオランダ総督だったウィリアムと共に
イングランドの共同統治者としてのイギリス国王として迎えられましたが、
この方も大のお茶好きで、ますますイギリスの富裕層に影響を与えます。
そうこのお茶好きのメアリの影響は大きく、
イギリスの上流階級のお嬢さまの間にまたたく間に飲茶の風習が広まったのでした。
斯くして国内での茶の需要が増大したため、
17世紀、東インド会社による中国からの茶の直輸入が1689年に始まりました。
こうした安定した茶の供給ルートが確立したため、
イギリス国内の貴族・ジェントルマン階級では茶が爆発的ブームとなり
イギリスの対中国貿易は従来の絹ではなく茶が主力となり、
貿易額の80%をしめることとなったのです。
また貴族社会では男性女性を問わず、茶を飲む習慣が一般化しましたが、
大衆にはまだまだ手が出ない贅沢品でありました。
なぜなら、茶も砂糖も当時は高価な輸入品であったためです。
なお、当時のお茶は緑茶でした。
それが紅茶となった経緯については定説はありませんが、
中国のウーロン茶系のお茶がヨーロッパ人の人気を呼び
製造業者が買い手の嗜好に合わせてその発酵を進めているうちに、
強く発酵した紅茶が誕生したといわれています。
また、中国の緑茶をイギリスへ運ぶ途中に発酵して紅茶が出来たというのは俗説である。
▼緑茶から紅茶へ:砂糖入り紅茶
東インド会社は中国の茶以外にも、
アラビアのコーヒーの輸入を開始し、
それとともに砂糖の需要が増大したので、
西インド諸島での砂糖栽培を開始しました。
砂糖が大量にイギリスにもたらされるようになると、
やがてイギリスでは茶の飲み方も緑茶ではなく、
緑茶よりも発酵の進んだ紅茶が主となりました。
そうして渋みの強い発酵茶(紅茶)が輸入されるようになって、
茶に砂糖やミルクを入れる習慣は定着していくのです。
こうして紅茶の風習が広まり、
中国産の紅茶に西インド諸島産の砂糖を入れて中国製の磁器で飲むことこそが
貴族階級の社会的地位の象徴、上流階級へのステータス・シンボルになりました。
そう当時砂糖が高級品だった時代においては、他でもない砂糖を入れた紅茶こそ、
庶民の憧れ、上流階級のステータス・シンボルなのでした。
当時の砂糖は、ごく一部の上流階級しか所有できない、
まさにステイタスシンボルでした。
宴会や結婚式などでは、砂糖細工が見せ物として披露され、
今日のウェディングケーキはその名残とも言われています。
やがて、庶民にも手が届くようになっても、薬として薬局で購入するような品でした。
当時、庶民にとってお茶を飲むということは、二重の意味で高価なものだったのです。
▼上流階級から中流階級へ:ミルクティー
ですがやがて18世紀後半になりイギリスが産業革命に成功していくと、
かつて上流階級のステータス・シンボルであった紅茶は
購買力を高めた労働者階級の中でも事業に成功した中産階級に愛飲されるようになり、
(注:この時代の中流階級は非貴族以外の医者や弁護士など含む金持ちで、貴族は上流階級)
昼休憩時に手軽に飲める砂糖の入った紅茶は
彼らの重要なエネルギー源として欠かせないものになるのでした。
こうして紅茶はイギリスの実業家・専門職などの
中流階級の人々の生活の中にも溶け込んで行ったのです。
なおミルクティーはいつ始まったのか?
歴史を遡ると、紅茶にミルクを入れるようになる前に
砂糖を入れる方が先だったと言われています。
なのでヨーロッパ人の間で紅茶にミルクを入れる習慣が始まったのは比較的新しく、
近世以降のことといわれています。
記録によると、1655年、オランダの東インド会社の大使が
中国皇帝の晩餐会に招待された際、ボーヒー茶にミルクを入れて飲んだとあります。
これがオランダを経てイギリスに伝わった可能性が高いようです。
イギリスには茶が入る前から、
茶に変わる薬用茶にミルクを入れて飲む習慣があったようですが、
渋みの成分であるタンニンが強い紅茶を飲むようになることで、
自然とそれを和らげるタンパク質が豊富なミルクを入れて飲むというスタイルが
定着していったのでしょう。
また市民に紅茶が普及する以前に、
お茶にミルクを入れた事例は欧州に少数ですが存在しています。
例えばフランス文芸サロンの元締めであったラ・サブリエール夫人は
1680年にミルクを温めるために熱いお茶を混入した事があったそうですが、
この当時はウーロン茶であり、用途も温めでしたので、
急場しのぎの応急処置だったに過ぎません。
従って、何時頃ミルクティーが発明されたのか、正直確定していないのが現状なのです。
ただ、考えられる中で一番有力なのが、名もなき一般市民だったという説です。
19世紀に英国で爆発的に普及した紅茶の品質は、
一般市民向けにはお世辞にもあまり良くない茶葉から抽出した紅茶だったと言われており、
(寧ろ食品偽装で出がらしや混ぜモノが横行していた)
そこに調味料的な意味合いと容量を増やす意味合いでミルクを混入するという発想が生まれ、
これが予想外に相乗効果を発揮して、気が付けば上流階級に逆輸入されたという話です。
当時のイギリスには、
茶が登場するまで、エール(ビール)が飲まれていましたが、
フランスのワイン、ドイツのビールのような国民的飲料でなかったことも、
紅茶人気に拍車をかけました。
もちろん、コーヒーやココアも飲まれてはいたが、
高価で庶民には手が届かなかったのである。
しかし紅茶はいよいよ一般民衆の間にも広まっていき、
需要の増大により供給もまた増加し、
それにともなって茶価はしだいに下がっていきました。
こうしてイギリスの国民的飲料になっていくのです。
18世紀の初め、トワイニングはロンドンに女性でも入れる喫茶店をつくり、
また家庭でも飲茶できるよう茶葉の小売りを初め、飲茶の大衆化が進んだのでした。
▼産業革命で一般大衆化し世界に広まる:簡便食として
産業革命(1760年代から1830年代)の進展の中で、
栄養はあるが作るのに時間がかかるスープやポタージュに代わって、
安易にカロリー摂取を行う方法として庶民の間に
ジャム付きのパンと砂糖・ミルク入り紅茶が「簡便食」としてもてはやされた。
これら長時間労働の合間の短い食事時間や休憩時間にとる、
甘くて温かい紅茶は、労働者になくてはならないものとなっていたのです。
▼重い朝食、間に合わせの昼食:そしていい加減な調理の夕食
なぜなら当時の食事習慣ではイギリス以外でもそうでしたが、
かつては朝夕の一日二食が普通であり(一日三食が普及するのは近年のこと)、
イギリスにおいて労働者階級の「ティータイム」とは優雅な趣味などではなく
過酷な労働中における「夕食までの間に合わせ」の「昼食代わり」であったのです。
また同時に、総じて素朴でシンプルなイギリス料理でであったが、
産業革命により労働者の労働が過酷かし始めたこの頃から
「イギリス式の朝食」はソーセージやベーコン、卵料理がつくなど
「元来の軽食」とは一線を画し充実してきています。
これら卵やベーコンは現代ならともかくとして、
20世紀初頭以前において他国では
庶民が朝食メニューとして食することは到底考えられないぜいたくな食材であり、
これらは産業革命による労働現場が如何に過酷であるかの表れであろう。
同時にただ焼く、茹でるだけの調理方法しか普及しえなかった現れでもあるのであろうが。
なにしろまず労働者の家にキッチンがない。
あったとしても今の一口コンロよりはるかにひどいし、
燃料代ももったないので凝った料理ができない。
何と言っても田舎から少年少女のうちに出てくるから、
母親から郷土料理を習うこと無く、よって今まで培ってきた伝統料理を知らないのである。
そもそも市街において、まともな食材も調達できないのであるのだが。
ここにマズメシのイギリス料理文化が完成したのであった。
▼紅茶文化は犠牲の文化:奴隷の血と汗と涙の結晶
こうして人々は熱狂して安価な砂糖を求め、
より効率的な生産のため植民地を作るようになっていく。
こうした植民地支配によって元いた先住民がほぼ全滅してしまったことも、
労働力としての奴隷交易がアフリカに今も暗い影を落としている
そう、イギリスの明るい家族団欒を演出した紅茶文化の背後には、
中国に代わる茶の栽培地・供給地となった
インドやスリランカ(セイロン)に対する過酷な統治
(植民地人の低賃金の使役・茶のモノカルチャーの強制による飢饉)が
あったことも忘れてはならないだろう。
紅茶文化はイギリス大衆の飲み物として広まると同時に、
世界に紅茶文化として広まっていったが、
これは人々がたった一杯の砂糖入り紅茶を飲むために、
茶葉はインドの奴隷を酷使して、
砂糖はカリブの奴隷を磨り潰し、
そして陶磁器はアヘンを対価として中国から巻き上げていたのである。
こうして紅茶文化とは、世界を巡ってはるばる運ばれてくる
「世界がひとつに繋がって出来上がる食卓」
となったのだった。
斯くしてイギリスが植民地のインドやスリランカ(当時はセイロン)で
お茶の栽培に成功すると19世紀末迄には中国紅茶をすっかり凌駕するようになりました。
このようにしてイギリスの紅茶文化はますます広がっていきました。
▼中流階級から下流階級へ:紅茶の大衆化
19世紀にはようやく東インド会社の紅茶の独占輸入権が解除され
輸入が自由化したため価格が下がり
そのうえ更にこの時期、
植民地であったインドで紅茶の栽培に成功した為、
安価で大量の紅茶が手に入るようになり大衆の飲み物として広まると同時に
世界に紅茶文化を広めていきました。
イギリスの植民地であったインドのアッサム地方で1823年に自生の茶樹が発見されました。
これにより当時のイギリスの植民地であったインドやスリランカなどイギリス勢力下において
今まで輸入に頼ってきた茶の木の自国領内での栽培化に成功したのです。
そうしたことから大規模な紅茶の製造が始められるようになり、1853年に関税が撤廃し
ようやく安価に大量の紅茶が低所得層にあたる労働者階級にまで手に入るようになると
これが庶民の紅茶文化の発展を促すことになりました。
コレと同時に新たなる市場の開拓のために世界に紅茶文化を広めていったのです。
▼植民地での紅茶文化:反紅茶は独立の象徴:
また以前から政府・産業資本家にとって、ミルクティーとジャム付きパンは、
労働者をジンやアルコールから遠ざけ、安価で勤勉な労働者づくりの武器でもあり
18世紀に、北米植民地にも本国から紅茶文化が広まっていました。
しかし植民地戦争のため財政難となったイギリス本国は、この茶の需要に目をつけ、
東インド会社に茶の独占販売権を与える茶条令を出していましたが、
これに対してボストン茶会事件が起こったのは、1773年のことであった。
これを契機に植民地と本国の対立は決定的なものとなり、
独立戦争を必至のものとしました。
そして、植民地人の茶に対する不買運動が広がるとともに、
茶の代わりにコーヒーをより多く飲むようになり、紅茶の代わりに
紅茶のように薄い色合いの浅煎りのアメリカン=コーヒーを生んだのである。
▼中国茶からセイロン茶へ:
この様にイギリスの重要な植民地アメリカが独立したことで、
イギリスと東インド会社は打撃を受けました。
中国からの茶の輸入に支払う銀の増大に苦しんだ東インド会社は、
獲得したベンガル地方の農民にケシを強制的に栽培させ、
ケシからアヘンをつくってこれを中国に持ち込んだ。
このアヘン貿易から、アヘン戦争が勃発するのである。
どうせなら茶の代わりに自国で販売すればいいものを……
19世紀後半、イギリスは全インドをほぼ手中に収めていた。
イギリスは、上記の如く中国よりも近いインドで茶を栽培することを試みた。
1830年代に北部のアッサム州で野生の茶樹が発見され、
それが広められてダージリンをはじめ北インドで茶園が拡大していった。
一方、セイロンも一大産地に成長していった。
リプトンが「茶園から直接ティーポットへ」を宣伝文句に、
セイロン茶を産地直送したのはこのころである。
こうしてイギリスは、茶の自給体制をほぼ完成させた。
その為インドの茶園では、
半奴隷的農民による茶のモノカルチャー(単一栽培)が強制されたので
食料不足が深刻化し、
わずかの天候不順や不作が大飢饉を生むインド的現象が形成されていった。
また、セイロンの茶園でも多数のインド=タミール人が
強制連行されて働かされた。
のちにセイロンが独立した後も、
彼ら労働者はセイロンからもインドからも市民権を与えられず、
約100万人が無国籍状態となった。
現在、スリランカで争われているシンハリ人とタミール人の対立の原因もまた、
この邪悪な毛唐イギリスの政策に起因しているのである。
▼食品偽装:
一方のイギリス本国では
インドで大量生産され、1853年に関税を撤廃したこともあって、
労働者にも紅茶が広く普及していました。
しかし、この当時使用人初め労働者には、まだまだ高価な嗜好品。
そのため出がらしを集めた廉価紅茶や、偽物を飲みます。
粗悪な偽物は、高級な緑茶に似せるため、
緑青(毒)で色付をしたものもありました。
ちなみに出がらしは、メイドや執事たちが売りました。
もちろん、主人たちの飲んだあとの茶葉です。
▼角砂糖の誕生:
ですがやがて、庶民の怠惰で紅茶には砂糖とミルク
(高級になるとクリーム)を入れるようになります。
18世紀、砂糖は贅沢品でしたが、
19世紀に砂糖の関税が撤廃されると紅茶には必需品となります。
最初は固い棒状のものを砕いていたのが、角砂糖が登場して手軽になり、
普及に輪をかけました。
▼資本家階級のアフタヌーン・ティー vs. 労働者階級のハイ・ティー
1日2食の労働者階級とは違い
1日3食の上流階級~中流階級では夜遅くまで起きている事もあり
昼食は軽くで済ませました。
本番は夜からなのです。
故に晩餐は遅く(だいたい20~21時ぐらい)
それまでの空腹を満たすために始まったのが、
アフタヌーン・ティー(午後のお茶)です。
アフタヌーン・ティーはだいたい15時~18時ごろで、主流は17時です。
紅茶とともに軽食と菓子が出されました。
お茶会は「家庭招待会」とも呼ばれ、
社交界の噂やパーティの計画等、女性たちの交流場でもありました。
一切を取り仕切るのは当家の女主人であり
暖炉のまえで行われ、女主人が紅茶を注ぎます。
主な軽食にサンドウィッチがあります。
19世紀前半は冷肉やハムが挟まれたものが好まれ、
1870年以降になるとキュウリとミントが人気になります。
当時イギリスでは、キュウリは温室でしか栽培できないため、高級な野菜でした。
決して貧乏臭くなどありません。
絶望はお弁当と称して薄塗りジャムのサンドイッチや
ウサギの餌のようなまるごと1本の人参が出て来ることから始まります。
ほかに主流だったのが、薄いバタートーストです。
バターは贅沢品。鏡の国のアリスに登場する、
透けるほど薄いバタートーストの羽を持った蝶は、
ケチな奥さま連中への皮肉ともいわれます。
菓子には、ケーキ、スコーン、ビスケット、タルト、
アイスクリーム、果物がありました。
ヴィクトリア女王の好物は、苺ジャムと、
泡だったクリームが塗られたスポンジケーキだったとか。
赤ワインやシャンペン、コーヒーがついてくることもあります。
紅茶以外の飲み物も飲まれました。
豪華なお茶会はたくさんの菓子が供されますが、
家庭的になるとサーディンやマフィン、クランペット(ホットケーキ)がついてきます。
これに対しハイ・ティーは労働者階級のお茶の時間で、
肉料理付きの夕食を兼ねています。
労働者も1日3食の食事が普及すると
労働者階級にとっては昼食がもっともボリュームのある食事で、
日が暮れる夜は就寝直前なので軽めにすませました。
なぜなら午後からの労働のために昼食はしっかり食べてましたが、
夕食はその後寝るだけだし料理や食事のためにランプやろうそく使うのは勿体無いので
献立も簡素でした。
また家事使用人も労働者なので、午餐である昼食がメインでした。
▼そして伝統としてのティータイムへ:
こうしてイギリス人はとても紅茶好きになったのです。
どれくらい紅茶が好きかというと、1人あたりの年間消費量が約2.6kgなんです。
これは平均して1日に4~5杯の紅茶を飲んでいる計算になります。
4~5杯というのは平均したらということなので、
紅茶が好きな人はもっと紅茶を飲んでいるということですよね。
それを象徴するかのように、
イギリスでは日に何度もティータイムがあって
「イギリス人は日に7回紅茶を飲む」という言葉があるくらいなんです。
時代や地方によってさまざまなティータイムがあり、
ティータイムにはそれぞれ名前がついていて
ティータイムの代表的なものとして
◆アーリーモーニングティー
◆ブレックファストティー
◆イレブンジズ
◆ランチティー
◆ミッディ・ティーブレーク
◆アフタヌーンティー
◆ハイティー
◆ファイブオクロック
◆アフターディナーティー
◆ナイトキャップティー
などがあります。
上記の歴史を鑑みながらその内容を紐解いていきましょう。
◆アーリーモーニングティー
朝、目覚めてすぐにベッドでいただく紅茶。
早朝出かける前のティータイムでベッドで飲む事からベッドティーとも呼ぶ。
もともとはヴィクトリア時代の貴族の習慣でした。
18世紀ごろにはフランスの上流階級で流行していたティータイムが
イギリスに伝わり始まったそうです。
ご主人様の目覚めの時間に、
召使いがご主人さまのベッドまで暖かい紅茶を運びます。
ご主人様はアツアツの紅茶で目を覚ますのです。
まるで要介護老人のようでもあるが……
このアーリーモーニングティーは女主人だけの特権だったそうです。
現在では、週末に奥さまのために旦那さまが紅茶を淹れて
ベッドに持って行くというかたちで残っているそうです。
◆ブレックファストティー (朝食)
朝食時と一緒にいただく紅茶。
この習慣はアン女王が始めたと言われています。
アン女王は美食家で有名でブランデーが大好きだったそうですが、
朝食には必ず紅茶を飲んでいたそうです。
いろいろな紅茶メーカーから出ているブレンドティーにもこの名前はよく使われています。
イギリス人はミルクティーが大好きで、
朝の紅茶は決まってミルクティーというのが定番なので、
ブレックファストブレンドの紅茶はミルクティー用にブレンドされたものがほとんどです。
◆イレブンジズ (午前中)
午前11時頃にいただく紅茶。
もともとはヴィクトリア朝時代のメイドたちが仕事の合間に楽しんだティータイムだそうです。
18世紀の産業革命以降に労働者階級に定着したもので、
当時のヴィクトリア女王が工場での生産効率をあげるために奨励しました。
また、この頃インドでの植民地支配によって
イギリスでは紅茶が安く手に入れられるようになっていました。
数十年前のイギリスではどこのオフィスや工場でも11時になると
一斉に紅茶が配られて15分くらいの短いティーブレイクを楽しんでいました。
現在では、勤め人や主婦が朝の一仕事を終えて
午前中のティーブレイクとして楽しんでいます。
このイレブンジズはお茶菓子と一緒に紅茶をいただくのが普通で、
イレブンジズの伝統的なお茶菓子は「バタつきパン」だそうです。
また「くまのプーさん」は、このイレブンジズが大好きだそうで、
「プーはいつも午前11時には、なにか一口やるのが、すきでした。」
というくだりがあるのですが、これはもちろんイレブンジズティーのことです。
◆ランチティー (昼食)
ランチと一緒にいただく紅茶。
イギリス人のランチはだいたい13時頃。
そのランチの時ももちろん紅茶をただきます。
イギリス人はとてもボリュームのある朝食をいただくので
ランチは軽めにとる人が多いそうです。
サンドウィッチとミルクティーというのがランチの定番メニューだそうです。
◆ミッディ・ティーブレーク (おやつ)
午後のおやつ時、4時に飲む紅茶。
親しい近所の方などと、気楽なおしゃべりを楽しんだりもします。
この場合は、クッキーや簡単な焼菓子などを用意します。
ショートブレッドなどはサクサクして甘い、ミルクティーと相性バッチリのお菓子で
日本でも大手のスーパーや輸入食材屋さんで売っています。通販でも購入できます。
◆アフタヌーンティー (貴族のおやつ)
午後4時頃にいただく紅茶。
ミッディ・ティーブレークと同じ4時に飲む紅茶ですが、
こちらは休日や来客時などの特別な時に飲む紅茶。
センス良くテーブルセッティングをして、
メニューもキュウリのサンドウィッチやスコーン、
クッキー、ケーキなど豪華にそろるのが伝統的で会話を楽しみます。
この習慣は19世紀中頃ヴィクトリア朝時代に
イギリスの7代目ベッドフォード公爵夫人アンナ・マリアが始めました。
彼女が夕食までの間の空腹に耐えかねて午後の5時頃に
紅茶を飲み軽食を取るティータイムに友人を誘ったことが
はじまりとされています。
こうしてアフタヌーンティーは貴族社会に広まり
更に後には富裕層の間に、20世紀になると庶民にまで広まりました。
ただイギリスの上流階級においてこのような慣習が始まったのは、
女性向けの社交の場としての他もうひとつ、
本来の夕食の時間帯(19~21時)は、観劇やオペラ鑑賞や夜の社交などにあてられ
夕食を摂るのが21時以降になるため、事前の腹ごしらえとしての意味があります。
◆ハイティー (庶民の夕食)
午後5時頃から夕食と一緒にいただく紅茶。
スコットランドやアイルランドなど地方の労働者階級から始まった習慣です。
肉類と一緒に楽しむ 夕方から夜にかけてのティータイムで
別名ミートティーとも呼ばれる夕食のようなティータイムです。
スコーンやケーキなどの甘いもののほかに、
其の名の通り肉や魚・卵などの食事も出されました。
夕食とアフタヌーンティーを一緒にしたようなもので、
かなりボリュームがあったそうです。
もともとは労働者階級の子供や仕事を終えた男達の為のもので
現在では劇場等へ出かける前の軽い夕食を兼ねたティータイムを指します。
◆ファイブオクロック (夕食前の軽食)
午後5時頃に軽食と共にいただく紅茶。
ハイティーと同じ時間帯に飲むお茶ですが、
食べ物が軽めの時はファイブオクロックと呼ばれているようです。
庶民が仕事が終わった後、観劇などにいく時は観劇が終わってからディナーになるので、
観劇をする前に、ちょっとのおつまみと一緒に紅茶を飲んで、腹ごしらえをしておくのです。
◆アフターディナーティー (夕食後)
夕食の後にいただく紅茶。
夕食後のくつろぎの時間にいただく紅茶で家庭だけの場合はもちろん、
お客様とのディナーが終わった後にお茶の時間の場合もあります。
やや薄目のミルクティーなどで体を温め、緊張を解きほぐし
チョコレートなど甘みの強いお菓子を少量添えます。
19世紀には夕食会の後半に男女が別々の部屋で
アフターディナーティーを楽しんでいたそうです。
男性はそのままダイニングに残って、お茶やお酒を楽しみ、
女性はドローイングルームでお茶を楽しんだそうです。
◆ナイトキャップティー (寝紅茶)
就寝前にいただく紅茶。
ナイトティーとも言います。
寝る前に紅茶を飲むと、体が温まるのでよく眠れるそうです。