現実:歴史/地理 東京開封府(北宋)
▼東京開封府:現在の地名は河南省開封市。
「東京」は、中原においては「1.洛陽」または「2.開封」を指す場合が多い。
「1.洛陽」が東京という言葉の起源は後漢(東漢)である。
後漢は、前漢(西漢)の都である「西の長安」から「東の洛陽」に遷都したため、
洛陽は「東京」あるいは「東都」と呼ばれた。
なお、この遷都のために、主に中国で、後漢のことを東漢と呼ぶ。
隋と唐は都を長安に置き、洛陽を陪都として「東京」あるいは「東都」と呼んだ。
「2.開封」と言う、もうひとつの東京とは
古くは汴州といわれた汴京=現在の開封のことで、
これは「西京=洛陽」に対しての呼び方で、
現在でも雅称として開封を「東京」と呼ぶことがあるのです。
よって北宋の汴京を「東京開封府」と呼称した。
……しかし、これではむしろ東東京ではなかろうか?
(西京=西の長安) ⇔ (東京=東の洛陽)=(西京=洛陽) ⇔ (東京=汴京)
この他に北京、南京が各時代に時折存在する。
●開封市は
中華人民共和国河南省東部に位置する地級市。
中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、
北宋(960年 - 1127年)の首都であった。
11世紀から12世紀にかけて世界最大級の都市であった。
(日本では平安時代中期から後期の初めにあたる。)
この地「開封」は、戦国魏の首都「大梁」であり、その後衰退し、
北魏時代は「梁州」、北周時代には「汴州」と呼ばれた。
そして後梁を建国した朱全忠が汴を首都と定め東都開封府として以来、
五代(後唐を除く)の各王朝の都であり続け
引き続き宋(北宋)の都ともなり東京開封府と言われたのだ。
なお、この地は古く汴州といわれたので汴京(べんけい、べんきょう)とも言われる。
こうして北宋は、都を汴京に置き
ここを
・「東京開封府(汴京=開封)」
と称し、そのほかに、
・「西京河南府(洛陽)」
・「南京応天府(商丘)」
・「北京大名府(河北省邯鄲)」
と、「四京制」をとっていました。
なおこの時期 北宋(1119年 - 1125年 )の徽宗皇帝の宣和年間、
様々な事情で世間からはじき出された宋江ら好漢(英雄)108人が
義侠心で結びついて梁山泊に集結。
やがて官吏の不正がはびこる世情に義憤を覚え官吏を打倒し国を救うことを目指すようになる。
(原典は『大宋宣和遺事』だが、やがて講談や小説の『水滸伝』に発展)。
なお後周の柴氏が宋代でも前皇帝の家系として優遇されたという話は
『水滸伝』に出てくる。
梁山泊の英雄の一人、柴進はその血筋だったという。
柴進は梁山泊第十位の好漢で、あだ名は小旋風。
以下は『水滸伝』の一節。
「ご存じないかもしれないが、この村に、姓は柴、名は進、
土地のものは柴大官人といい、世間では小旋風という名でとおっている大金持ちがおられる。
この方は、大周(後周のこと)の柴世宗さまのご子孫で、
柴世宗さまが陳橋(開封の城門付近)で位を(宋の太祖趙匡胤に)お譲りなさったとき、
太祖武徳皇帝さまから賜ったお墨付が伝わっていて、
みな畏れたてまつっているのだが、
この柴進さまは天下往来の好漢をお世話することがなによりお好きで、
家には四五十人も置いておられ、・・・面倒をみてやるといっておられる。(第一冊 第9回)」
宋朝廷からもらったお墨付は「丹書鉄拳」といったが、
あるとき佞臣の高廉の権力をかさにした知府(地方長官)によって強奪されてしまう。
憤った柴進は梁山泊に入り、好漢の仲間となって活躍する。
○開封:名の由来
そもそも開封(宋の名で東京)の名の由来は春秋時代に遡り、
当時この地方を支配していた鄭の荘公が現在の開封の近くに城を築き、
そこに「啓封」と名づけた事から始まる。
後に前漢(紀元前206年 - 8年)の景帝(劉「啓」)を避諱して、
同義の「開」の字に改められた。
戦国時代には魏の領域であり、「大梁」と名づけられて首都となった。
しかし秦の攻撃で落城した際に、都市も荒廃した。
前漢の時代に武帝の弟・梁王・劉武が封じられたこともあったが、
後漢(25年 - 220年)から三国時代の魏にかけての時期には
郊外の陳留が陳留郡の郡治と位置づけられるなど、
さほど重要視される都市ではなかった。
隋代(581年 - 618年)に入ってから隋の煬帝により大運河が築かれ開通すると
大運河の拠点の一つであり、黄河と大運河の交差する
(黄河中流域の華北と長江流域の江南地方を結ぶ)交通の要地として
また物資の集散地となって大いに繁栄した。
なおこの煬帝の治世で、
「日出處天子致書日沒處天子無恙」
(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや)
の有名な書き出しで始まる国書が
倭王から小野妹子によって送られている。「ギャグマンガ日和」
こうして一気にこの都市の重要性は高まり、
南からやってくる物資の大集積地として栄え興隆し
商業上も繁栄した都市となった。
その後の唐(618年 - 907年)末期に首都長安は荒廃した為、
それに代わってこの都市が全中国の中心地となり、
唐から簒奪した朱全忠はここを首都として後梁(907年 - 923年)を建てた。
後梁の後の五代政権も後唐を除いて全てこの地を首都とし、
後周により汴州と改称された。
このように、五代の最初の王朝「後梁」以降の五代と
「北宋」の首都となり繁栄したのだが、
次第に黄河のルート変化と洪水に悩まされていき衰退した。
実は黄河は開封の北を流れていたが一時は南を流れたこともあり、
最悪の時期には40Mもの堤防に守られ
都市が黄河の水面下になったこともあったとのことです。
後漢を乗っ取った後に建国された後周(951年 - 960年)の
父に先立たれ残された幼き7才の皇帝
(水滸伝の柴進も彼の末裔のひとりという設定となっている。)
より禅譲を受けた(「陳橋の変」)「趙匡胤」により建てられた宋は
『東京開封府』と称して、ここを首都とし
開封府は拡張され、外城以外に内城と宮城の三層の城壁が張り巡らされた。
なお、後周世宗が開封を建設する際に部下であった太祖「趙匡胤」を馬で走らせ、
馬が力尽きた地点を開封の外城としたという。
出土した遺跡は南北が約7600m・東西が約7000mで、
歴代王朝の伝統であるほぼ正確な方形ではなく城壁が一部で湾曲した長方形となっている。
全体的な規模は長安より一回り小さい。
大運河の一部も引き込まれ、
水運によって米を始めとした大量の物資が江南地方より運び込まれ、
開封には国中の物資が集まるようになり、
ここにおいて開封は空前の繁栄期を迎えることとなる。
なおその治世は「建隆の治」と称えられ50歳で急死した趙匡胤の死に
唯一立ち会った弟の趙匡義の暗殺説が有力であり
「千載不決の議(千年たっても結論は出ない)」との言葉が生まれた。
○開封の繁栄
唐の長安や洛陽などの都市は、官営の「市」だけで取引が行われ、
それに参加できる商人も「行」という同業組合に属していなければならず、
また市での営業は昼間しか認められなかったが、
宋代の都市では同業組合の支配力は衰え、
市以外にも自由に商店を開くことが出来るようになり、
また盛んに夜市も開かれるようになった。
ある種の規制緩和であろうか? 楽市楽座か?
結果そのような都市には人口が集中し、貨幣経済が発展した。
その代表的な都市が開封なのである。
宋政府は歴代王朝の伝統を継承せず銅などの生産を厳格に把握・監理し貨幣鋳造を行った。
しかし、銅銭を鋳潰して銅器を作製する利益は10倍以上になったため、
刑死する者が続出しても鋳潰す者は後を絶たず、
士大夫や官吏までもが鎔銭に手を染めたため、
政府は市場の需要に見合わない多量の銅銭を発行し続けた。
北宋末期に蔡京集団による交子の野放図な発行や極めて質の悪い私鋳銭の大量濫造が行われ、
また遼・金地域でも広く銅銭が使用されたため銅銭が流出し、
南宋では銅銭のみを主軸貨幣とする事を止めた。
よって宋の通貨は基本的に銅銭と鉄銭で、次いで銀錠や大型決済用の金が用いられ、
紙幣の交子も登場する。
銅銭・鉄銭は重く嵩張り、金銀は高価なため、どちらも持ち運ぶには不便な点がある。
それを補うために便銭(飛銭)という為替制度があった。
唐代長安の便銭務という役所では、銭を預けて預り証を受け取り地方の役所で換金出来たが、
この制度は宋にもあった。
民間の堰坊では、銅銭・金銀・布帛などを預かって交子(会子・関子)と呼ばれる預り証を発行していた。
交子は世界最初の紙幣とされる。
交子は始め四川や陝西でのみ流通していたが、やがて全国へと広がり、
兌換の対象も鉄銭から銅銭へと替わった。
交子には界と呼ばれる期限があり、その間に使用ないし兌換しなければ紙切れとなった。
唐代までの農村は宋代と比較すると内部での自給自足体制が整っていた。
また唐代までの商業は、都市や郷里などの特定の場所で行うか、
それ以外の場合は官吏への事前通告が必要で、それ以外の取引は制限されていた。
南北朝代から五代にかけて、生産の拡大・貨幣経済の浸透・交通の整備などに後押しされ、
地域ごとに承認された商人と農民とが取引を行う市場が開かれる様になり、これを草市と呼ぶ。
草市は定期市であり、2kmから4.5kmの間隔で存在した。
客商などを当て込んだ茶館・酒館・食堂・宿屋などが作られ、
定住民が増加し一定規模を超えたのが鎮市である。
客商は「他の地域の商人」の意で、対して地元の商人は「座商」という。
隋・唐代の首都・長安は人口100万人に達した巨大な都市であったが、
条坊ごとに周囲を牆壁に囲まれ、条坊間の夜間通行が制限されるなど閉鎖的で、
都市文化も貴族中心であった。
これに対し、北宋代の開封には通行の制限はなく、
(宋初、下詔により城門は夜の三更から朝の五更までは出入り禁止とされたが、
短期間で済し崩しとなり廃止された。)
交通の障害となる区画同士の壁は取り払われ、庶民の夜間通行も許可された。
(夜間は都市の各所を見回り、外出者には注意をしていた。
つまり見つからなければ夜間外出は可能であったのだ。)
門の付近には多数の商人や旅人が開門を待っており、
それを当て込んで食べ物を売る屋台が開かれていたという。
宋代の輸送においては、陸路よりも水路の重要性が大きい。
開封では内部を三本の運河が通り、それを通じて江南からの物資が運び込まれた。
江南の都市では水路の重要性は更に高く、
現在の杭州市や蘇州市のように都市への出入りも都市内での移動も運河が主となる。
主要な運河の脇には店が立ち並び、接岸して売買が行われた。
また開封では相国寺の在る旧城の東南部一帯が、
大運河から直接接舷し荷降し出来るため、
周囲には客商や商人、やって来た官吏や兵士で大変賑わった。
臨安では宮城から北に伸びる大通りの中間部分が最も栄えており、
街路は幅80m,50m,40mの3種類があり、
暑熱と湿気対策として両側には5m,8m間隔で様々な植樹がされた。
また街路が瓦や石の埋め込みにより舗装され、
四川の眉州では石畳で舗装されていたという。
宋代の街路には店屋が並び、その前には商品が並べられ、
空いている土地には必ず屋台が立ち並び
宋代の都市には瓦市という芸人の集まる場所があり、
大道芸、切紙・影絵・動物の芸など様々な芸があり
この時代に『三国志演義』の元となるような講談(説三分)が既に演じられてるなど、
様々な芸で人々を楽しませ、多くの住民が都市生活を謳歌し、
人と物に溢れその活気は空前で繁栄を極めていた。
街路の両側や路上にも酒家や商店が並ぶなど活気に溢れ
ここに食器店・貴金属店・薬剤店などのが集中的に立ち並んだ。
首都・開封の大通りにも酒楼・飯館・茶肆・点心舗が多数軒を連ね、
その数は酒店だけで3000を超え、合わせると万を超えたという。
人の集まる商業区にはそれを目当てに飲食店・娯楽・風俗店などが集まり、
一食数十銭で済む安い食堂から何十貫と掛かる高級料亭まで、
好みと懐具合に応じて様々な店を選べた。
店に入ると行菜と呼ばれる給仕が箸と紙を持って注文を聞きに来る。
この時、熱い・冷たい・脂の多少など好みを細かく注文することも出来る。
注文を間違った場合には店主の叱責を受け、減俸や酷い場合には首になったという。
また店で出す料理以外にも、
碗などに料理を入れて持ってくる物売りが出入りし売ることもあったようで、
当時の家庭では、脚店から出前を取って自宅で料理しないことも多かったという。
現代の中華料理は非常に油っこい印象があるが、
これは元代にモンゴルの影響を受けたもので、
宋代の料理はむしろあっさりとして日本料理を髣髴とさせるという。
食材は新大陸原産の物を除き、
現代の中華料理で使われる材料がこの時代にほぼ出尽くしている。
特筆すべきは魚肉を生で食べる膾である。
この時代の膾は南方の料理であり、華北ではあまり無かった。
唐代まではニンニクだれが主流であったが、
宋代にはユズだれが好まれるようになった。
肉の生(膾)もニンニクだれが主流であった。
魚・肉共に生食は元代以降は急速に廃れ、明代になるとほとんど存在しなくなった。
また水晶膾という料理もあった。
これは魚皮から出るゼラチン質を固めて薄切りにする、
日本の煮固りのことで、テングサなどを使って固める料理もあった。
瓦子と呼ばれる盛り場では、
昼夜を問わず飲食店・商店・劇場といった店が開かれ、人々が集い、酒や茶を飲んだ。
茶も宋代には上は皇帝から下は貧民まで、毎日の茶は生活に必須不可欠なものとなり
契丹など諸外国にも飲茶の風習が広まるなど茶の需要は高かった。
町に出れば茶坊・茶肆と呼ばれる茶店が多数あり、
店では士大夫・市民・商人・妓女など職業・身分の関係なく、同じ席で茶を飲んでいて
王安石も「貧民であっても米・塩・茶は毎日欠かすことが出来ない」と述べている。
なお、宋代では茶は片茶と散茶に分かれ、
片茶は茶葉を磨り潰して固形にしたもの、散茶は現在一般的な葉で淹れる茶のことである。
上流階級や更にはペットにまで食事を配達する事業も存在した。
その繁栄振りを物語った書物が『東京夢華録』(とうけいむかろく)であり、
絵画が張択端の描いた『清明上河図』(夜を徹しての市が有名)
(清明とは3月3日のこと。市民たちが街に出て春を祝う日)である。
中国における印刷術は既に唐代に確立していたが、
印刷された書物に触れることの出来たのは貴族層だけであった。
これが唐宋変革の中で、版本による書物が大量に流通するようになり、
多くの人が書物を入手出来るようになった。
本格的な出版が始まり経書や『史記』『漢書』などの史書、
『荘子』・『文選』などの書が次々に刊行された。
出版事業の版元としては、まず国子監がありこれを監本、個人による出版を家刻本といい、
そして民間業者が行う物を坊刻本といった。
坊刻本の中で福建で発行された通称「建本」には字句の間違いが多く
あまり評判が良くなかった。
それにも関わらず廉価な建本は大量に出回り、普及を助けた。
製紙技術が進んだとはいえ紙は気軽に扱える価格ではなく、
宰相であっても反故紙を取って置き何かの時に使ったという逸話もある。
廉価な建本は大いに流行した。
これは多くの民衆が書物を欲したことを示している。
こうして出版業は盛んに営まれたが、
北宋代にはまだ書店(当時の書肆・書賈)が十分に形成されなかった。
多くの場合、士大夫が書物を販売したが、商売人ではないので店を構えず、
開封の相国寺には最も有名な書店があったが、
定期市のようなもので常設ではなかった。
南宋初期の首都・臨安に至って専門の書店が誕生したようで、
時間と共に盛んとなり、南宋末には出版業者や書店は盛況を迎えていた。
出版隆盛の反面、非難する士大夫も多かった。
欧陽脩は嫌いな書物・国家の検閲を経ない出版の禁止を強行している。
実際には、禁令にも関わらず出版熱は冷めなかったが、
宋政府は一貫して坊刻(民間製作の書物)に対しては規制をかけ続けた。
また印刷術の発達と共に
『太平聖恵方』・『聖済総録』・『和剤局方』など医書も多く刊行されており、
医療技術の発展を促した。
政府の医療行政部署として翰林医官院(後に医官局と改称。)が置かれ、
更にその下の公立医療機関および民間医療機関も数多く設立された。
例えば
・治療を受けられない貧民の為の「安済房」
・旅人の治療の為の「養済院」
・孤児や老人を救済する「福田院」などである。
医療学校も設けられた。
宋が建てられた年に太常寺の下に太医署(後に太医局と改称。)が置かれ、
「上舎」・「内舎」・「外舎」の三つのクラス分けで
上舎で成績の良いものが卒業し逆に外舎で成績の悪いものは退学などの厳しい処置が取られた。
更に太医局に倣って地方でも医療学校が設けられた。
また人体模型に鍼灸のツボの位置を記した鍼灸銅人や、
処刑された罪人を解剖して画いた『欧希範五臓図』、『存真図』もこの時代に誕生した。
そして、長さ・径・厚さ等による材料の規格化・接合部などの
加工方法の規格化(プレハブ?)や雇用による専業化など、
唐・五代の中で建築様式は規格化・工業化の道をたどり、北宋代にほぼ完成された。
最早現代社会の生活習慣と何ら遜色がないのではないだろうか?
○開封の衰退:
だが驕れる者久しからず 、一時、金の都となる。
やがて東北地方に興った女真の「金」(1115年 - 1234年)が開封を
「靖康の変(1126年~1127年)」で占領し「南宋」と対峙すると
北宋が滅亡してから開封の衰退が始まった。
北宋の残存勢力は南方に逃れて建国した南宋は、
1138年に長江下流の臨安(杭州)を都とし、
金は1153年に都を燕京(現在の北京)に移したので、
開封は政治的中心地ではなくなった。
金は華北を支配するに当たり、当初は二重統治体制をとっていたが、
次第に漢民族の制度を採り入れるようになり、
いわゆる漢化が進み、むしろ北方の遊牧民との対立を深めていった。
そのようなとき、北方の遊牧社会に登場したのがモンゴル人であった。
1211年、チンギス=ハンが金に対する攻撃を開始、
金はやむなく1214年に都を開封に移し
1230年、次のオゴタイ=ハンが大軍を率いて開封に迫り、激戦となった。
開封は多くの難民が餓死する惨状となり、
1232年についに落城し、逃れた金王朝は間もなく滅亡した。
こうして首都の座を失うとともに南北分断によって大運河も荒廃し、
3重の城壁のうち外の2つは放棄された。
モンゴル帝国により攻められて領土の大半を奪われた金は、
この地に遷都して抵抗を続けたが、程なく滅ぼされた。
金と元では首都は北京(中都・大都)に置かれ、
開封はあくまで河南の中心地に留まる。
また元(1271年 - 1368年)が中国を統一すると、
新たに江南の杭州と大都(現在の北京の地)を直接結び短絡する形で大運河が再建され、
開封は新たな大運河から外れ、経済の繁栄から取り残されていった。
明代(1368年 - 1644年)には周王府が置かれ
壮麗な建築物があったが、明末には黄河の大氾濫による大洪水で
泥土の下に埋もれてしまった。
現在の開封市は宋の時代のものではなく、
清代に建設されたものである。
その後の明・清でも変わらず河南省の省都とされたが、
中華人民共和国が誕生すると省都の地位を鄭州に奪われた。
現在の開封は観光地として栄えているが、
現在の都市の下には明代の都市が眠っており、
その下には宋代の都市があり、全部で6層が積み重なっていると2004年2月に発表された。
このようなことになっているのは、やはり黄河がたびたび氾濫したゆえである。
◆長安と開封の比較
唐の都長安と比較:
1.長安と同じく、城壁に囲まれた城壁都市である。
大内を中心として、内城、外城がある三重構造。
2.長安の碁盤の目のような区画がない。
長安は整然とした坊市制で区画されていたが、
開封ではより広い範囲を含む廂に区画されている。
3.商業区画は長安では東西の市だけであったが、
開封では市場や繁華街が広がっている。
なお、長安の市は昼しか営業できなかったが、
開封では図のように夜市や暁市が開かれた。
4.開封では汴河を通じ」外の商業網に通じていた。
水路は実際にはさらに多く張り巡らされていた。
5.開封の市内にある瓦市(瓦肆)とは、娯楽施設で、
戯曲、雑伎、武術、後段などが演じられていた。
このように東京と言われた開封は、人口が60~70万人で、世界でも有数な都市であった。




