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現実:歴史 『周』(東周)<洛邑⇒洛陽> -周の衰退- 「平王」 「桓王」 「赧王」(春秋・戦国時代)

▼東周:夕日落日(洛陽は落陽?)


●「平王」:もうちょっとだけ周は続くんじゃ


○洛陽:周の東遷


 地域で言えば周が都を渭水流域の鎬京においていた時期を西周というのに対して、

東方の洛邑に都を遷した周の東遷の以降を東周という。


 これ以降、周王室の実質的な支配権は失われていき、対して封建諸侯の自立が著しかった。

しかし、それとは裏腹うらはらに洛陽の地自体は、

中国古代史の主要な舞台となった中原ちゅうげん

関中平原とを結ぶ交通の要衝に位置し、

その起源となる西周時代の洛邑らくゆう以来、政治や文化の一中心として栄え続けた。


 この地は南は洛河に臨み、北は山を控えた小平野で、

山の北には黄河本流が西から東へ流れている。


 東に虎牢関、西に函谷関、北に邙山、南に伏牛山がある。

 

 そもそも黄河支流の洛水流域は黄河の中流にあり、

それまで黄土高原を流れてきた黄河が華北平原に出る位置にある。


 つまり、黄土高原において重要な勢力を養ってきた黄河支流の渭水(周・秦)、

汾水(晋)流域からの華北平原への出口に位置しており、

なおかつ邙山により黄河本流の氾濫からは遮られているのだ。



 周の成王の時代、殷を滅ぼしたことで周による東方経営の拠点の下都として

洛邑の都城が築かれて王城、成周、東都と呼ばれ、ここに洛陽の歴史が始まる。

平王の時代、戦乱により荒廃した渭水流域の宗周鎬京城(後世の長安)より都がこの地に移された。


 こうして初めてここを国都としたのが東周であり、

その後、後漢ごかん西晋せいしんもここに都を定めた。

北魏もまた大同から都をこの地に移し、

さらにずい・唐時代には西都:長安に対する東都として繁栄した。


 こうした経緯から、中国古代の王朝では

渭水流域の軍事力と結びついた長安と

華北平原の経済力と結びついた洛陽が

対になって首都機能を担う形が出来上がっていき、

後漢・曹魏・西晋・北魏・隋・後唐などにおいて都が置かれることになったのである。


 このあと、五代十国の後唐こうとうや後の中華民国も一時洛陽を都としたので、

九朝の都とよばれている。


 東周:洛陽城は、現市街地西方の一角に位置し、

漢魏洛陽城は東郊に、それぞれ遺跡を残している。


 なお紀元57年、の奴国なこく王は後漢に使者を送り、

光武帝から印綬いんじゅを賜ったという記録が『後漢書ごかんじょ』に記載されているが、

倭の使者が皇帝に閲見したのはこの漢魏洛陽城であり、

古代日中交流史にとって重要な遺跡である。


 また洛陽は、中国古代文化の中心地でもあり、

漢代には史家の班固はんこ、紙の発明者 蔡倫さいりん、名医 華陀かだなどが活躍し、

唐代には李白りはく杜甫とほ、白居易(白楽天)がここで多くの名詩を残した。


 洛陽には、中国最古の仏寺といわれる白馬寺や、南郊には北魏に始まる竜門石窟があり、

仏教の一中心地でもあった。


 なお後唐以後、洛陽は一地方都市として衰微の一途をたどったが、

新中国の建国によって再生し、近代都市として発展しつつある。



○春秋戦国時代:春秋時代はまだ悪夢じゃなかったなんてあとからしみじみ思うもの


 時代で言えば、周は紀元前771年 13代「平王」の洛陽遷都を境に、

それ以前の前半を西周、以後の後半を東周と2つの時期に区分され、

さらに時代区分では西周以後は春秋時代に移行し戦国時代へと至る春秋・戦国時代となる。


 そう、一時は東西に分裂していた周を「平王」が再統一したのだが、

最早都が東に移ってからの周王朝は既にかなり力を落としており、

ほぼ他の小国と同じような力しかなかったので

諸侯は既にまともに言うことを聞かずそれ故

東周時代とは後の春秋戦国時代と重なるのです。


 さらにこの春秋戦国時代は

紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を「春秋時代」、

それ以降を「戦国時代」と分けることが多いです。

(なお春秋の名称は、四書五経の一つ『春秋』に記述された時代、という意味を持つ。)



●「桓王かんおう」:


 前770年 〈東周の成立〉 から〈秦の始皇帝によって周王が滅ぼされる〉前256年までは

洛陽に周王室が存在した「東周」時代であるが、

その実態は、周の王権は衰え、地方に有力諸侯が自立してそれぞれ王を称して争う分裂期であった。

 

 だが、

14代「桓王」(周の平王の孫)は時代の流れを止めようと、

即位した後、諸侯の力を弱め、相対的に王権を強化する政策を実行していた。


 また周領と鄭の領地が接しており、

鄭が勝手に境界線を越えて黍(稷、キビ)を収奪……収穫したことから、

族祖父(祖父の又従弟)にあたる鄭の「荘公」を卿士の職位より罷免したため、

これに不満を持った荘公は一切朝見を行わなくなり、周と鄭の関係も悪化している。


 前707年、桓王は蔡、衛、陳と連合して

周の平王の又従兄弟であり、

かつて幽王を守り死んだ鄭の桓公の孫に当たる例の「荘公」相手に

軍事遠征をかけた(繻葛の戦い)が撃退されてしまい、

皮肉にもかつての懐刀にも見下されることで、

周王室の力の衰えを露呈する形になって

周朝衰微を止められず拍車をかける形となってしまった。


 この事件は、諸侯の淘汰・再編の流れ、

また周朝からの諸侯の更なる自立をもたらした、歴史的にも重要な意義をもつ。


 こうして桓王が王権の強化に努めたが、むしろ周王室の衰退はとどまらず、

諸侯間の紛争を阻止する影響力を失った。


 紀元前697年、桓王は崩御し、子の姫佗(荘王)が王位を継承した。

しかし、桓王は少子の儀叔克(姫克)を溺愛していたため、

太子の姫佗が即位すると、王族の周公黒肩が儀叔克を擁立し、

兄弟による相続争いに発展してしまった。


 このように周の分裂により、周室の権威失墜が明らかとなったと同時に、

西周以来の諸侯で没落する者も続出したが、

一方で平王を護衛した新興国の秦のように新たに生まれた諸侯もあった。


 こうして平王の東遷以降のその前半期は、

それでもまだ周王の権威はなんとか保持しており、

諸侯たちはその権威を利用して尊王攘夷を唱えて周王を立て、

あるいは諸侯の間の主導権を周王を利用し握ろうとした(春秋五覇)時代であったが、

更に平王の孫である桓王が繻葛の戦い(前707年)で

一諸侯に過ぎない鄭に敗れた事で、それまで辛うじて繋がっていたものが、

完全に諸侯に対する統制力を喪失し、やがてそのわずかな権威も完全に無くなると、

前5世紀末になると周王は全く有名無実化し、

ついに戦国時代に入り各諸侯がそれぞれ「王」を称するようになり

各国でも下克上が進んで中国は有力な七国(戦国の七雄)に分割されることとなるのだ。


 対して東周王朝内では、この残された小さな王朝の中でも未だ権力争いは続いており、

東西に分裂したり、何度となく王が殺されることが起きていた。



 まとめると周は前半の西周と後半の東周に分かれ、

さらにこの東周の前半を春秋時代と言い、

その後半は前221年の秦の始皇帝による中国統一までの期間を戦国時代とするのだ。


 つまり「春秋時代」には周王は政治の実権は握っていなかったが、

依然として精神面の中心であり、

諸侯は王に次ぐ2番目の地位たる覇者となろうとしていたのだが、

それに対して「戦国時代」は、

乱立する諸侯自らがそれぞれ「王」を称して争うようになり、

残っていた周王の権威などは殆ど無くなったのだ。



 また、この時代を

「周の統一時代が終わって分裂状態になり最後に秦によって再統一されるまでの期間」

とする解釈があるが、

秦が統一した領域とは、その昔周が影響力を及ぼしていた領域よりも実は広いのだ。


 なぜなら南の楚は元々は自ら王号を称える自立した国であったし、

また東・北についても斉や晋などの国を統合したためにより国土領域が拡大されたのだ。


 さらに周辺部だけではなく、内地に関しても大きな変化が起こった。

そもそも西周王朝の時代、領土は点と点とを結んだもので面領域ではなかった。

よって周王朝の勢力領域を確定するのは困難であるので明確な領域設定はせず、

各地に点在する(ゆう)だらけであったのだ。

ゆう:西周および春秋時代初期の城壁で囲まれた都市国家。

 また、諸侯の封土をさす。


 こうして春秋時代の半ば頃まではそれぞれの邑(村落)が国内に点在し、

その間の土地は必ずしもその国の領域に入っている訳ではなく、

周(もしくは周の諸侯)に服属しない異民族が多数存在していた。


 だがしかし時代が下るにつれ、そうした点と線の支配から面の支配へと移行していった。

政治制度においても、それまでの封建制から郡県制へと移行する段階にあり、

思想においても諸子百家と呼ばれる思想家たちが登場し、様々な新しい思想が形作られた。




▼滅亡:


●「赧王たんおう」:周のラストエンペラー 諡号の「赧」は、「顔を赤らめて恥じ入る」という意味


 最後の王である赧王の在位中は周王室の影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定され、

周王室もまたもや

貞定王の末子掲(桓公)を始祖とする西周公(武公)と

東周君(君傑)の勢力に分裂しており周は3分され、

赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都した。


 また、赧王の祖父の顕王の時代より秦の勢力が急速に拡大しており、

諸々の政策でも周の勢力挽回は成功しなかった。


 紀元前256年、

武公の西周は諸侯と通じて韓と交戦中の秦軍を妨害したため秦の将軍摎の攻撃を受けると

西周君は秦に降伏し、その領土を献上した。


 このため赧王は秦の保護下に入る事となるも、まもなく崩御した。

秦が九鼎を移し、王畿を占拠したことで西周は滅亡することとなった。


 こうして周はここに事実上滅亡したが、

赧王の死後も、昭文君の東周は7年間存続した。


 昭文君は楚の力を借りて六国の諸侯を連合させ、秦を討伐しようとしたが失敗し、

その統治する地域は秦に奪われた。

ただ、国として滅びたのみで王族はそのまま存続された。


第一次ポエニ戦争(紀元前264年 - 紀元前241年)の頃である。



 なお

平王(前770年 - 前720年)

桓王(前719年 - 前697年)

荘王(前696年 - 前682年)

釐王(前681年 - 前677年)

恵王(前676年 - 前652年)

襄王(前651年 - 前619年)

頃王(前618年 - 前613年)

匡王(前612年 - 前607年)

定王(前606年 - 前586年)

簡王(前585年 - 前572年)

霊王(前571年 - 前545年)

景王(前544年 - 前520年)

悼王(前520年)

敬王(前519年 - 前477年)

元王(前476年 - 前469年)

貞定王(前468年 - 前441年)

哀王(前441年)

思王(前441年)

考王(前440年 - 前426年)

威烈王(前425年 - 前402年)

安王(前401年 - 前376年)

烈王(前375年 - 前369年)

顕王(前368年 - 前321年)

慎靚王(前320年 - 前315年)

赧王(前314年 - 前256年)


と続くも誰も彼も似たり寄ったりの暗君であるもよう。




▼総論:周は衰退しました


 このように周は徐々に衰退する。

前9世紀頃から諸侯の反乱、

西北からの異民族の侵入が繰り返されるようになって、周王の権威は次第に弱まっていった。


10代厲王は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、

最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。


王が不在となった後、宰相の共伯和が太子静(11代宣王)を擁して政治を行った。

共伯和の伯をとって、のちにこの時代のことを共和と呼ぶようになった。


なお、これには別説があり、周定公と召穆公の2人の大臣が合議制で

「共に和して」政治を行ったので共和と言うという説もある。

現代で共和制というのは、この別説が由来となっている。


 宣王の治世でわずかに周の国勢は回復したが、

宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。


12代幽王の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため、

申の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。


幽王は殺され、褒姒の子の伯服(伯盤)も殺された。

そこで、携王が即位した。


これに反対する諸侯は、王子宜臼を擁し、

東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ移り、平王を立てた。

周は東西に分かれて争い、東の平王が打ち勝った。

ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行する。


前770年、北方の遊牧民犬戎が南下して周の都鎬京を占領し、

周の幽王は殺されていったん終わった。

周王室の一人が諸侯に助けられて都を東方の副都洛陽に逃れ、平王となって周を再建した。

これを周の東遷という。またそれ以前を「西周」、以後を「東周」として区別している。


 このようして、この東周期(春秋・戦国時代)に王の実権はなくなっていき、

こうして春秋時代の周は洛邑(王城・成周)周辺を支配する小国と成り果て、

往時と比するべくもない程まで没落し

周王室は戦国時代には一地方政権に過ぎない存在となっていましたが、

それでも辛うじて存続を続けるも最終的に37代赧王 (たんおう) のとき、

それも紀元前256年)に嘗ての臣下だった秦の昭王の秦に滅ぼされ、

周の時代は名実共に終わることになる。

(東周の滅亡年代は249年説もある。)


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