現実:歴史 『秦』の起源 「造父」-趙氏- 、「大駱」-「非子」、「秦仲」-「荘公」-「襄公」 「伯益」よりの「嬴」姓の血統
▼「秦」:周代-初代より
国姓の本姓は嬴、氏は趙。統一時の首都は咸陽。
西周時代の萌芽を紹介しよう。
● 「趙氏」の始まり:
ことわざ:
『六馬和せざれば造父も以て遠きを致す能わず』
意味:
車を引く六頭の馬の気持ちがうまく合っていなければ、
ぐれた御者の造父であっても、遠くまで馬車を走らせることは不可能であることから、
どんなことでも、人々の気持ちが一つにならなければ、
最後までやりとげることはできないことのたとえの由来である。
*「六馬」とは、天帝の息子が乗る六頭の馬車を引く馬のこと。
周王朝5代目の王である穆王の時代(紀元前10世紀ごろ)。
繆王は驥・温驪・驊駵・騄耳という四頭の名馬を得、西に巡狩し楽しんで帰りを忘れた。
その間に徐の偃王が叛乱を起こした。
そこで彼に御者として仕えた「造父」はすぐれた御者であったため、
一日に千里を走って国に帰り、乱を伐たせた。
こうして周の「繆王」に寵愛され趙城を領地として与えられた。
以後、造父の一族は趙氏を名乗った。
このように周の穆王に仕えた名御者・造父が趙城に封ぜられたのが趙氏の始まりと言われている。
● 「趙」の起源:
趙は、戦国時代に存在した国(紀元前403年 - 紀元前228年)。
国姓は趙、または嬴(秦の王室と同祖とされる)。首府は邯鄲。
「造父」より14代後に趙衰(趙成子)が現れ、
晋の文公(重耳)に仕えて隆盛した。
これが後の戦国七雄の一つに数えられる趙の起源である。
もともとは、晋の臣下(卿)であったが
春秋時代末期には晋を実質的に取り仕切る大臣の家系六卿の一つになる。
だが、専制を疎まれ粛清を受け、趙盾の孫の趙武(趙文子)が再興するまで一時没落する。
趙氏の当主趙無恤(趙襄子)は、
韓氏の韓虎(韓康子)・魏氏の魏駒(魏桓子)に
「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ。」
と寝返りを示唆し、これに成功する。
三家に攻められた智氏は滅亡し、
晋の領土を趙、韓、魏の三者が分け合い、それぞれ独立した。
その後紀元前403年に趙、韓、魏は正式に諸侯となるも
紀元前228年に秦に滅ぼされた。
● 「秦」の起源:
さて時代は戻り紀元前9世紀、
周朝のチート持ちで無様な末路をさらした第4代王「昭王の子」、
かの第5代王「穆王」よりさらに3代後の「孝王」の時代。
趙氏の一人に大駱と言う男がおり、
彼は犬丘(後の咸陽や周都鎬京のおよそ50km西方)を領していた。
西戎(中華から見て西方の異民族)と関係のある申侯から妻をめとり嫡子としていた。
おそらく、犬丘は西戎との最前線に近かったのであろう。
大駱には別に、非子という子がおり、彼は牧畜に馬の繁殖に長けていた。
(如何にも非嫡子な漢字だが)
遠祖は、嬴姓であったが、秦朝の直接の祖であるこの非子は趙氏を名乗っていた。
その評判は周の都にまで聞こえて
噂を聞いた孝王が非子に馬の飼育をさせたところ、大いに繁殖したため、
馬の生産で功績を挙げたので孝王は大駱の嫡子を非子に変えさせようと考えたが、
申侯及び西戎との関係維持のため、嫡子は交代させず、
代わりに非子には秦の地:秦邑(現在の張家川回族自治県一帯)をわざわざ与えて
嬴姓を名乗らせ大夫となった。
また伝説上では元々の嬴姓は帝舜の臣
「禹」や「后稷」の同僚
「柏益-大費とも」が賜ったとされ、
それ以前の嬴氏は魯に居住していたとされる。
『史記』秦本紀によれば、
帝顓頊の苗裔である女脩と言う者が
玄鳥の卵を飲んで身ごもり、大業を生んだ。
大業は少典の女の女華を妻とし、大費(費)を生んだ。
費は禹の治水をよく助け、
舜が禹に玄圭という赤黒い圭(四角錐のような玉)を賜ったとき、
「私でなくよく費が助けてくれたのです。」と言上した。
そこで舜はと皁游(黒い旗)を賜った。その後もよく舜を助けた。
舜は姚姓の女を与え妻とさせ、鳥獣を司らせた。
鳥獣は皆順服した。この時費(伯益)は嬴姓を授かった。
子供には大廉若木がおり、
いずれも鳥と縁のある一族であると伝えられている。
また、伯益の末裔にあたる子孫たちが秦王朝の王族になった、とも伝説では語られている。
その子孫らは殷に仕え諸侯となり、
周の穆王の頃、造父が馬をよく御するので寵幸された。
造父は四疋の珍しい色の馬を献したり御者として乱が起こった地に馬を馳せ、乱を鎮めた。
そこで穆王は趙城に造父を封じた。
ここから造父の一族は趙氏となった。戦国の趙はこの子孫である。
また、それとは別系に非子という者がいた。
この非子の一族も造父の功により趙氏を名乗れていた。
この時、非子の異母弟、成が嫡嗣で、その母は西戎の女だった。
周の孝王は馬をよく馴らし功のある非子を嫡嗣にしてやりたかったが、
そうすれば戎がどう出るか分からない。
そこで諸侯に付属する小国(これを附庸と言う。)、秦邑に封じた。
非子は秦嬴と号した。
その後その子孫、襄公の時になって周が犬戎に侵された。
この時よく周を助け、爵を賜った。これが始皇帝の家系の直系であるとする。
とある。
これが秦の起源である。
なお、本家の方はと言うとその後、
上記の通り厲王の時代に周に背いた西戎によって
せっかく縁戚を結んでいたのに結局大駱の一族は攻め滅ぼされてしまい、
父の敵の西戎討伐でちょうど犬丘を奪回した非子の子孫「荘公」は、
その功労により、元々父が持っていた元の非子に与えらえた領地に加えて
本家に伝わる先祖伝来の犬丘の地をも領有した。
結局非子の子孫が犬丘の地を相続することとなったのだ。
こうして周が追われた地に秦が封ぜられた。
秦の穆公は度々戎を討って覇者となった。
●異民族 遊牧民の末裔:
そもそも農耕民である漢民族にとって、馬は農作業に使うもの。
乗り回して、機動力に使うのは異民族である遊牧民族の習俗だ。
大量の馬を飼いならした手腕は、もともと非子が遊牧民族であったことを暗示している。
一説によると、秦の祖先は、かつて馬の放牧で生活していた部族であるというのだ。
よって、秦始皇帝とは、いや秦は戎(チベット系)の出身の遊牧民とも
或いはもともとは西域のペルシャ系の民族であったとも考えられます。
秦王家の人々は元々の漢民族ではなかった。
この地の住人は異民族である西戎、とりわけ羌族に近い民族であった。
(故に羌族と親交があり馬曳き戦車を有していた周もその疑いがあるのだが)
そう言えば同族の趙の「武霊王」は紀元前307年、胡服騎射を取り入れている。
胡服とは当時北方の遊牧民族が着ていたズボンのような服のことである。
当時の中国では士大夫はゆったりした裾の長い服を着ており、
戦時には戦車に乗って戦う戦士となったが、
馬に乗るためにはこの服は甚だ不便であった。
武霊王は北方の騎馬兵の強さに目をつけ自国にもこれを取り入れたいと考えた。
その為には文明を象徴する戦車に乗る戦士であることを誇りとする部下達に、
胡服を着させ、馬に直接またがる訓練を施す事が必要である。
趙の国人達は強くこれに反発するが武霊王は強権的に実行させ、
趙の騎馬兵は大きな威力を発揮し趙の勢力は拡大したが、これも関係あるのだろうか。
非漢民族でありながら諸侯と肩を並べ、春秋時代を通して頭角を現し、
戦国時代を経てついに中国全土を統一した秦には、
もうひとつミステリアスな顔がある。それが最も顕著に現れたのが秦始皇帝の時代である。
広大な領土と人民を支配するにあたって、
秦始皇帝は郡県制や度量衡、貨幣、言語、文字の統一を行った。
秦帝国以後の中国王朝は、これを踏襲することによって君臨したにすぎない。
秦国は中国において最も西に位置した。西域に接し、
その先にはインドやオリエントが広がっていた。
実は、そこに秦帝国とそっくり同じ支配体制をもった帝国がかつてあった。
「アケメネス朝ぺルシア」である。
驚くことに、それはまさに秦始皇帝が行った統治形態とそっくりである。
しかし、支配方法の影響関係を証明する史料はないのです。
地理的に中間の資料がないことと、
時代的にアケメネス朝ペルシアが滅んだのが紀元前4世紀と、
秦帝国とは200年ほど差があることなどから、
本格的な検証は行われてこなかった……残念。
- 閑話休題 -
紀元前822年に非子の曾孫 「秦仲」が西戎討伐で戦死すると
秦仲の長子 「荘公」がふたたびの西戎討伐で見事破ったためこの功績により
父 秦仲の旧封と秦の創始者である非子の父 大駱が領有していた
周王朝および秦の発祥の地にある犬丘の地を与えられ、
西垂(現眉県)の大夫になった。
この後一大事件が起こる。
紀元前771年 春、周の「幽王」は褒姒を寵愛したため現太子を廃して
褒姒の子を嫡子とし、また、しばしば諸侯を欺いたので、諸侯は幽王に叛き、
西戎・犬戎・申侯とともに周を撃ち、幽王を酈山の麓で殺した。
この時、秦の当主となった「荘公」の次男「襄公」は
兵を率いて周を救うために戦い、
これにより諸侯に封じられ岐山以西の地を賜り、伯爵となった。
ここにおいて襄公は秦国を創始し、諸侯と聘享の礼を通じたのだ。
紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、
周の雒邑(洛邑)東徙でも襄公は周の平王を護衛した功で
平王から周の旧地である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。
もっとも平王は襄公を岐山
(犬丘の西北約20kmにある周の古都: 岐山は周王朝の発祥の地)
の以西の領有権を認め諸侯としが、
状況から見て岐山以西はもはや西戎の領域だったと思われるので、
犬丘同様、自ら切り取れということであろう。
紀元前766年、襄公は西戎と戦い岐山のふもとで戦死した。
襄公の跡を継いだ文公は、紀元前750年、西戎を破り、領地を西方に広げ、
かつての周の民衆を収めた。岐山以東の地を周に献上した。
文公の孫の跡を継いだ憲公は紀元前714年に岐山の西方の雍に遷都した。
また、西戎の一国である蕩を滅ぼした。
次の代の武公の時代には西戎に対する優位が確立し、
岐山から150km程度西方の天水や、さらに100kmほど西北西の隴西までを領地とした。
武公の次は弟の徳公が継ぎ、その後徳公の長子である宣公が即位した。
斯くして紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、
この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。
こうして春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、
中原諸国からは未だ野蛮であるとして蔑まれていた。
それが、やがて……