表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
80/167

現実:歴史 『周』(西周)<鎬京(長安/西安)> - 中国文明の成立 - 「厲王」-「宣王」-「幽王」-(「平王」) + 妖獣伝説:玉藻前「襃姒」

▼西周:「武王」「成王」「康王」親子3代 周の繁栄



●「武王ぶおう」:


 鎬京こうけいに都をおいた時代が西周である。


 初代「武王ぶおう」は、商(殷)朝を滅ぼし周朝を建国しその治世下より、

西の関中(渭水地方)の鎬京(後の長安、現:西安市一帯)は

東の洛邑(洛陽)と並んで中国王朝の首都となった。


 後に中国王朝の中心地とされ、中原と呼ばれるようになる。

(狭義では春秋戦国時代に周の王都があった現在の河南省一帯を指していたが、

 後に漢民族の勢力拡大によって広く黄河中下流域を指すようになり、

 河南省を中心として山東省の西部から、

 河北省・山西省の南部、陝西省の東部にわたる華北平原を指すようにもなった)



 そもそも文王は都を陝西省宝鶏市の岐山県と扶風県にまたがる地域、

周人発祥の地「 周原しゅうげん」から東の下流

豊京ほうけい」(鄷は渭水の支流の灃水の西岸)に移したが、

息子の武王は父 文王の営んだこの豊京より更に移って

「鎬京(鎬は渭水の支流の灃水の東岸)」を都とし,

(当時「宗周」といわれたのが,これを指すと考えられる。

 -鎬京を宗周、洛邑を成周という-)

これが西周の東遷まで続いた。

 

 この「豊・鎬」の地は現在の陝西省西安市の西南近郊に相当する。

この二つの城は澄. 河を隔てて相臨み、親密な関係にあり、実質的には一つの城であった。

(豊京と鎬京の2都市を総称して豊鎬の地と呼ばれた)

謂わば豊京の都市拡張に伴い旧市街の豊京に対して、

新市街として対岸に鎬京を建設したのだ。


 ただ都跡は未確認である。

なぜなら宮殿の跡そのものは漢の武帝の時代に土木工事のために破壊されたらしい。

後にこの鎬京の地の東方に、秦の咸陽、漢の長安、隋の大興城が建設される。

なお、現在の西安は隋の大興城以来の長安の位置にあたり

その後300年間 近くも、ここを西周王朝の政治、経済、文化の中心地とし続けた。


 しかし武王は建国まもなくして死去する。

後を継いだ成王は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。

ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。



●「成王せいおう」:


 2代「成王せいおう」は、わずか2年で崩御してしまった父の武王の後を継いで即位。

成王誦は即位した時はまだ幼少であったので、

実際の政務は母の「邑姜」、叔父の「周公旦」、太公望「呂尚」(斉の始祖)、

*「召公奭」(燕の開祖)らが後見。

 太公望と召公奭の双璧だったとも、周公旦と召公奭との二枚岩政治体制であるとも言われる。

(*元は召の国 -洛陽近辺に在り、商に服属していた。西史召とも沼方(蔑称)とも言われる-

 の国主でそれ故「召公奭」である。姫姓は後に功績により周王から国姓を賜った物である。

 故に本姓は姞姓。文王、武王、成王、康王の四代に仕えた。


 殷の時代、西方の祭祀官(西の地方の祭祀権を商より委託されていた)だった為、

 後に周王をのぞいて周王朝最高の司祭者となる。


 はじめ、山東半島の「奄」(魯の近隣)に封じられたが、成王の時(禄父の乱の鎮圧後?)、

 本拠地の沼を失い、補填の為なのか現在の北京近辺に移った。後の「北燕」である。

 当時は燕ではなく「匽」と書いていた。故に「奄」=「匽」=「燕」、これらはすべてエンと読む)


 周公旦と殷の支配域を陝邑(現在の河南省三門峡市陝州区(旧陝県)一帯)で二分して、

陝東を周公旦の管理とし、陝西を召公奭の管理とした。



・甘棠の愛

立派な為政者に対し深い愛情と敬意を捧げること。

召公は国内をくまなく歩いて、甘棠の下で人々の争いごとを裁き、訴えを聞いた。

人々は召公の仁徳と善政を思い、甘棠を惜しんでその木を切らなかったという故事から。



 当時はまだ周の政治体制は安定しておらず心配されたとおり、

周公旦が政権を握ることに不満を持つ、「周公旦」の兄弟である「管叔鮮」と「蔡叔度」

(*「成王」の叔父、つまり「武王」の兄弟たちでもある)が

殷の遺民たちを治めさせていた殷の帝辛(紂王)の子の武庚(禄父)を担ぎ上げ、

共謀して乱を起こすなど謀反などが相次ぎ、国情は極めて不安定であった。(三監の乱)


 この時召公奭の元の本拠地、殷と周の間にある「召」方は、

戦場で戦力を空けたときに荊蛮の地域からの侵略に会い滅んだ。



 成王が成長すると、自ら政務を執るも、

『史記』周本紀によると、彼も若くして崩御したと記されている。


 この時代に、東都 洛邑(らくゆう(河南省洛陽付近) を建設。

(武王の弟の周公旦が、殷の遺民を抑えるために建設した、周の第二の都)


 - 晋の成立 -

周の「成王」が弟の「虞」と庭の木の枝を使って

「これを以てお前を封じよう」と封建の儀式の真似事をして遊んでいた。

成王が宮殿に帰ると宰相の「尹佚」から「虞殿下をどこへ封じましょうか?」と問われた。

成王は驚いて、「私はあれと遊んでいただけだ」と答えるが宰相は「『天子に戯言無し』です。

王の発した言葉は覆す事はできないのです」と答えた。

周公旦が反乱を起こした唐を征伐して、これを滅ぼしたので、

かわって虞を唐に封じ、唐叔虞とした。

虞の子「燮」のときに汾水の支流である晋水にちなんで国名を晋とした。



●「康王こうおう」:


 3代「康王こうおう」にかけようやく天下は安定した。

その治世は「天下安寧で刑錯が四十余年用いられない」と称されたというが、

実際は召公奭や畢公高の補佐を受けながら、外征を繰り返した。


 彼の代までが周が各諸侯への威信を確立する周の確立期であった。

こうjして国家体制が安定を創出した(成康の治)。



●「昭王しょうおう」:


 なお、余談であるが

 4代「昭王しょうおう」は楚への遠征を実施するが、

遠征途中に行方不明となり、後にその死が判明した。


 その死は諸侯にも知らされなかったのだが、

遥か後の斉の桓公が諸侯を率いて楚を破ったときの楚の成王への問責の一つに、

300年前昭王が南方の巡狩から帰ってこなかったことをあげている。

昭王が楚王の先祖との戦いで戦死したことは、諸侯のあいだで周知であったとみえる。

いい恥さらしである。



●「穆王ぼくおう」:


 5代「穆王ぼくおう」は昭王の子であり、

昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、

その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。


 父の汚名を払拭しようとしたのか

彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。

すなわち、土を踏まないほど速い「絶地」、鳥を追い越す「翻羽」、

一夜で5,000km走る「奔霄」、自分の影を追い越す「越影」、

光よりも速い「踰輝」と「超光」、雲に乗って走る「騰霧」、

翼のある「挟翼」の8頭である。穆王はこの馬を駆って犬戎ら異民族を討った。

異世界転生チート持ちも斯やのチートっぷりである。

しかし早いと言う能力を言い換えている打げでどれも似たり寄ったりの能力であるが……


 また、調子に乗って司寇(司法官の長)である呂侯に命じて

『呂刑』と呼ばれる刑法を定めて社会の安定を図ろうとしたが、

その3千と言われる罪状の多さに却って諸侯や民衆の反感を買った。


 またそれでも足りないのか

彼は西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り西王母に会い、

西王母が後に入朝したと言う。立派な狼少年である。

このことは穆天子伝としてまとめられている。神話、伝説の要素を多く含む中国最古の旅行記である。


 その後、共王きょうおう懿王いおう孝王こうおう夷王いおうと無難に続くのだが……



▼「厲王」:終わりの始まり


 だが、やがて盛者必衰の理により周は衰退していった。なぜならば……


 10代「厲王 (れいおう)」 は、周りに分け与えられるべき財を

全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、

その失政により最終的には国人暴動が発生、大反乱が起き、

紀元前842年に厲王は辺境に逃げ出したため一時王統が絶え、

以後十数年は王が不在のまま

2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行う共和制が敷かれていた。

(現代で共和制というのは、この別説が由来

:なお古典中国語に用例があっても、天皇陛下を称える万歳三唱と同様

 新たに日本人が近代的概念・意味を加えて使用した和製漢語である)


 紀元前828年に厲王が崩御した後、ようやく厲王の子である静が

11代「宣王」が王として立てられた。



▼「宣王」:アステュアゲスに先駆ける夢見の先駆者(暗君)


 11代「宣王せんおう」は治世前期は周定公、召穆公を輔政とし国勢が中興し、

宣王中興と称される一時期を築いた。


 他にも、新興諸侯として弟の王子友(桓公)を

鄭に封じたことが事蹟として挙げられる。


 他方、軍事面では後の秦の「襄公」の祖父「秦仲」や「杜伯」といった大夫たちに命じて

積極的な異民族征伐に乗り出したが、こちらは徐々に劣勢となり、

紀元前822年に逆に「秦仲」は西戎に殺されてしまい、

紀元前789年の千畝(せんぽ)の役で「宣王」も姜戎に大敗した。


 治世後期には政治面でも君主独裁化が進み、

魯の継嗣問題介入、無実の罪で杜伯を処刑するなど諸侯への圧迫を強めていったため、

周王朝の求心力は徐々に低下へと向かう。


 「宣王」のその末路は定かではないが、「杜伯」の死は

『墨子』明鬼篇や『東周列国志』などでは春秋時代の発端の事件のように書かれています。


 - 宣王の時代、「月将昇、日将没、桑弓箕袋、几亡周国」という童謡が流行りました。

「女が政治を乱し、桑の弓、箕の袋(矢を入れる袋)を持った者が周を滅ぼす」という意味です。

動揺し童謡を信じた宣王は弓矢を持つことを禁止する命令を出しました。

この命令の責任者が杜伯です。

命令が出された頃、ちょうど山野から出てきて都で弓矢を売っている女を見つけました。

宣王はこの女を処刑し、一件落着と思い安心します。

しかしある日、

美女が西方から現れて太廟に入り、太廟の主を連れて去っていく、という夢を見ました。

恐慌した宣王は驚き、怒って責任者の杜伯を死刑にします。

杜伯の友人の左儒は王に逆らいその裁きを争って九回も訴えたが、

宣王は耳を貸さず、左儒も自殺しました。


 杜伯は、(死の直前)次のように復讐を誓った。

『わが主君は、私を処刑しようとしているが、私は無実である。

もし、死者には知覚する霊魂がないのであれば、(復讐も)やめる他はない。

だが、もし、死後も知覚があるのならば、

三年以内に、必ずや、わが君に死者の怨念を思い知らせてやろう』


 その後、無実の「杜伯」を処刑した三年後に、

宣王が狩に出た時、杜伯の亡霊が現れ、

鬼神の力を借り蘇った杜伯によって宣王は射殺されている。

(……これらはきっと最初に理不尽に殺された女の呪いに違いない)


 このように賛否両論の分かれる王ではあるが、

結果から言えば父の厲王や子の幽王と同じく、

周王朝の滅亡を早めた暴君・暗君と言わざるをえない。

メディアのハルパゴスで有名なメディアの王アステュアゲス(在位:紀元前585〜550年)ばりに

不吉な夢や迷信を信じ結果国を滅ぼした暴君・暗君である。


 そしてこの宣王の子である

12代「幽王」が後の世で、亡国の美女として有名な「褒姒ほうじ」におぼれて暴政を行い

西周(……ってまだこの時はまだ単に周なのだが)を破滅に導くことになる。



▼「幽王」:周の衰退


 12代幽王(ゆうおう)の時代、褒じ (ほうじ) を寵愛し,

申侯の娘である正夫人の申后とその子太子宜臼 (ぎきゅう) を廃して,

褒じを正夫人とし,その子伯服を太子とした。


 幽王は敵襲を知らせるためののろしを上げては諸侯を集めて褒じを笑わせたりしたため,

申侯がそむいて犬戎とともに攻めたとき,諸侯は集らず,

ついに幽王と伯服は驪 (り) 山のふもとにおいて殺害され、

褒姒も犬戎により連れ去られ、ここに西周は滅亡

後世,愚王の典型とされる。


 さて、前記の通り「宜臼」(後の13代平王)は元来「幽王」の太子であった。

だが幽王が褒姒との子 伯服を儲けると廃太子され、

母の郷里、外祖父である申侯の治める申へ逃れた。

母の実家に母子共々泣きついたのである。


 すると異民族犬戎けんじゅう出身の申皇后の冷遇に反感を持った父申侯は

外祖父として権勢を振るおうと企んでいたもののアテの外れたこともあり申侯はこれに怒り、

同じく西方の異民族である「犬戎」を手引して幽王を攻撃。

その犬戎と共に軍を率いて周都鎬京を攻めた。


 褒姒の美貌によって惑わされて腑抜けていた幽王は、あっけなく戎狄の侵入を受けたため

逃げに逃げ出したが、やがて捕まって殺される。

申侯は娘婿の幽王をこうして敗死させたのだ。



●「平王」:西周の終わり、東周の始まり


 13代「平王へいおう」が申の地にて勝手に即位した。

そして都を洛邑(らくゆう)(洛陽)に遷都した。


 なぜなら犬戎が思ったより獰猛で、首都・鎬京を荒らし尽くしたので、

平王は祖父の申侯ともども逃げ出さなければならなくなったからだ。

ケダモノをけしかけたら、想像以上に獰猛だったでござる。


 なお、東周の時代に戦禍の果てに荒廃し遂には消滅してしまった旧都の鎬京の地の東方に、

秦の咸陽、漢の長安、隋の大興城が建設される。

現在の西安は隋の大興城以来の長安の位置にあたる。



 以後、秦の都になるまでしばらくこの地は表舞台から去ることとなり、

周の政治の舞台は東の洛邑となるも、

実は以降もしばらくは鎬京には兄弟である携王一派が存在しており、

周は東西に分かれて争い、そして十数年の政争の下 紀元前759年、

多くの有力諸侯が与する平王は圧倒的な戦力で携王勢力を打倒していた。


 こうして東西分裂していた周は再統一をなすも

都城である鎬京は戦乱で荒廃したため、民草を見捨て

紀元前770年に首都を東の洛邑(現在の洛陽)の王城に遷都し、

ここから東周が始まったわけだが、

再統一は周朝自身の力によるものではなく、

配下の諸侯によるものだと内外に露見した格好となった。


 もはや王には天子としての権威がなく、

中国は諸侯がそれぞれに治める時代となったのだ。


 故にコレ以降、それ以前の鎬京に在った周を西周 (前 1050~770)、

以後を洛邑に在る周を東周 (前 770~256) と呼ぶ事となる。



●「襃姒」:傾国の美女、亡国の笑い(オオカミ少年の逸話か?)


 「襃姒」は、笑ったことがなかった。

幽王はなんとか彼女を笑わせようと手を尽くした。

ある日、幽王は(緊急事態の知らせの)烽火を上げさせ、太鼓を打ち鳴らした。


 諸将はさっそく駆けつけたが、来てみると何ごとも無い。

右往左往する諸将を見た襃姒は、そのときはじめて晴れやかに笑った。


 喜んだ幽王は、そののちたびたび烽火を上げさせたので、次第に諸将は烽火の合図を信用しなくなった。

また王は佞臣の虢石父を登用して政治をまかせたので、人民は悪政に苦しみ、王を怨むようになった。


 王はとうとう当時の太后だった申氏と太子を廃し、襃姒を太后にして伯服を太子にした。

これに怒った申氏の父の申侯は反乱して、蛮族の犬戎の軍勢と連合して幽王を攻めた。

王は烽火を上げさせたが、応じて集まる兵はなかった。


 こうして反乱軍は驪山で幽王を殺し、襃姒を捕え、周の財宝をことごとく略奪して去った。

この乱で、西周は滅びたのである。



 襃姒をはじめ、殷の妲己や、夏王朝の末喜、春秋時代の越の西施など、

古代中国史には美貌によって王君を破滅させ、国を滅亡に追いこむ魔性の女性がしばしば現れる。


 漢書から、国が傾く原因になるほどの美女を「傾国傾城」と呼ぶようになった

(巻九十七上,孝武李夫人伝)。

なお、のちに「傾城」は江戸時代の日本で花魁の別称になったと言う。



●「玉藻前」:妖獣伝説


 そもそも「襃姒」の出自に関する記録は奇怪で神話的なうえ、

年代を計算すると50歳を過ぎてから王の寵を得たことになり史実性が怪しい。


 襃姒の実体が曖昧なことから、後世に数多くの伝説が生まれた。

平家物語では、襃姒は野干という魔獣の化身であったという。

玉藻前の伝説では襃姒は玉藻前の数ある前歴の一つとして挙げられている。


 峰不二子のような女である。


 即ち玉藻前の経歴は中国古代王朝「殷」にまで遡る。

殷の最後の王である紂の后、妲己の正体は齢千年を経た九尾の狐であり、

王の妾であった寿羊という娘を食い殺し、

その身体を乗っ取って王を惑わせたとされるのが「妲己娘々」である。


 殷滅亡の際に、太公望により九尾の体は三つに飛散したといわれているが、

しかしその後も、天竺の耶竭陀まがだ国の王子、斑足太子はんぞくたいしの妃華陽夫人として再び現れ、

また周の第十二代の幽王の后「褒姒」としても現れるも、申后の一族が周を攻めたとき

褒姒は捕虜にされたが、いつの間にか行方知れずとなっていたという。


 斯くして大陸から追われた彼女は、後に若藻という16歳ばかりの少女に化け、

吉備真備の乗る遣唐使船に同乗し、来日を果たしたとされる。

.SP


ちなみに、話を聞くだけでは褒似は、悪女そのものです。

しかし、彼女が幽王の寵妃になったのは、褒の国が周に負けたときに、

献上品として差し出されたと言うことです。

彼女が笑わなかったのは、今までの生活を全て壊され、

親や恋人とも別れさせられたであろうとも思われます。


まあ、この辺のお話自体も、果たしてどこまで本当か怪しいところですが。


 そもそもなんで、褒の国と周は戦争をしたのかというえば、

褒の国というのは周の本拠地のすぐ近くにあったそうです。

それで、この褒の国の家臣が、やりたい放題で放漫な政治を行う幽王を諫めたところ、

逆に恨まれ、攻め込まれたそうです。


どうももともと幽王は暴君だったらしく、褒似がいてもいなくても、西周は滅んだことだろう。

(親と祖父を見るに……しかも息子も息子であった。)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ