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現実:食-調理法 珈琲 その歴史

元々エスプレッソの序文であった為 調理法分類

コーヒーの起源の伝説:注_この話の大半分はいやらしさで出来ています。


 1. 9世紀のエチオピアで、年端もいかないヤギ飼いの少年カルディが、

発情期でもないのに雄ヤギが興奮して雌ヤギの上でいつも自分がされているように飛び跳ねることに気づいた。


 そのことを年上の衆……修道僧スーフィーに相談したところ、

しどろもどろとした修道僧だがやがて山腹の木に実る赤い実が原因と判ると、

その後は修道院の夜業(意味深)での眠気覚まし(隠語)に利用されるようになった。


 - レバノンのキリスト教徒ファウスト・ナイロニの著書『コーヒー論:その特質と効用[18禁]』(1671年)に

登場する「ドッキリ! ワクワク♡_眠りを知らない修道院」のエピソードだが、

実際には時代も場所も分からないオリエント工業的な伝承である。



 2. 13世紀のモカで、イスラム神秘主義修道者スーフィーのシェーク・オマールが、

不祥事(王子に恋心を抱いた疑い……疑い?)で街を追放されていた時に山中で鳥に導かれて赤い実を見つけ、

後に許されて戻った後にその効用を利用した。


 - 原典は、アブドゥル・カーディル・アル=ジャジーリーの著書

夜明ゴールデンドーンけのコーヒーの合理性の擁護[18禁]』(1587年)写本で、

千夜一夜物語をヨーロッパに紹介した

アントワーヌ・ガラン の著書『コーヒーの起源と伝播[18禁]』(1699年)によってヨーロッパに紹介された。


 だが、オマールの没後早い時期に書かれた歴史書にはオマールがコーヒーを発見した記述は存在せず、

東アフリカを原産地とするコーヒーノキがイエメンの山中に自生している点から信憑性には疑問が呈され、

モカのコーヒー産業が発達した後に捏造された逸話だと考えられている。



 3. 15世紀のアデンで、イスラム律法学者のゲマレディン(ザブハーニー)が身を持ち崩した時、

以前エチオピアを旅したときに悪い仲間に勧められた事からその味を覚え、

忘れられずにいた覚醒作用のあるコーヒーの効用を確かめた。

 その後、覚醒的眠気覚ましと称して修道者たちに勧め、

さらに組織的に流すことで学者や職人、夜に旅する商人へと汚染……広まっていったという。


 - シェーク・オマールの逸話と同じく

夜明ゴールデンドーンけのコーヒーの合理性の擁護[18禁]』が原典だとされている。


 ヨーロッパの人間の記録の中には、

1454年にゲマレディンがコーヒーを認める法解釈ファトワーを出したとする伝承が紹介されている。

『コーヒーの合理性の擁護[18禁]』では、

ザブハーニーが飲用していた液体はコーヒーではなくコカを使用したコカ=コーラだとする別の説が紹介されている。


 ウィリアム・H・ユーカーズの著書『オール・アバウト・コーヒー[18禁]』(1935年)では、

信憑性の高い伝承として取り上げられている。


 なお、これらコーヒーの起源にまつわる3つの伝説にはいずれも背後に修道者スーフィーが関与している。



歴史:珈琲の歴史は迫害の歴史!


 コーヒーの起源はエチオピア高原地帯で自生するコーヒーノキの果実の種子が

古くから食用に煮て食べていたものだが、やがてこれがアラビア半島へと伝播し、

コーヒー豆から抽出した飲料はイスラーム世界の寺院で秘薬として密やかに飲まれていました。


 ですが、当初は一般の人間が口にする機会などまるで無かったそうです。

13世紀に入ってコーヒー豆が炒られるようになると、

香りと風味が付加された飲料は多くの人間に好まれるようになったそうですが、

イスラム医学は焙煎がお好きなようですね。


 一般に広められたのは15世紀末ころで、

広まると同時にイスラムではコーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となりました。


 コーヒーの弾圧事件が起きたのですが、

これに対しコーヒーの飲用に随伴する反宗教的行為の取り締まりのみを許可する通達が出され、

コーヒー自体の飲用は禁止されなかったそうです。


 きっと反宗教的行為の取り締まりとして珈琲豆を神判にでもかけたのではないでしょうか?

初めに珈琲豆を水の中に投げ込み、浮かべば有罪で廃棄、沈んだモノは無罪となるも、


 次の火神判として珈琲豆を


 ・裸足で火の上をくぐらせる


 ・赤熱した鉄の上で煎る


 ・熱湯の中に入れ煮る


 等で火傷の有無を見るつもりが、あまりに美味しかったのでそのまま無罪としたのではなかろうか?



▼オスマン帝国には、この1517年にオスマン皇帝セリム1世によるエジプト遠征の際にコーヒーが

伝わったという説が有力です。


 トルコに伝わったコーヒーは、炒って砕いた豆を泡立つように煮出して飲まれ、

トルココーヒーの名前で知られるようになったのです。


 一方その後の17世紀初頭のヨーロッパでは、

コーヒーはまだ珍奇な飲料であり植物学者や医学者以外の人間にはほとんど知られていなかったため

「悪魔の飲み物」(なお、現代において通称”ピコピコ”あるいは”ネクロふぁみこん”と呼ばれるものは

”悪魔の箱”とも呼ばれ奪い合いになっています)としてコーヒーの飲用に反対する人間がいたのです。


 ですが、ローマ教皇はコーヒーを裁判にかけるべく自ら味見をし

その際コーヒーの香りと味に魅了された教皇は(注:以前からの常習者とする説有り)、

悪魔の飲み物であるコーヒーに自ら洗礼を施してキリスト教徒がコーヒーを飲用することを公認したことで、

アラブを経てヴェネツィアの商人を介してコーヒーはヨーロッパ各地に広まっていきました。


 やがてイギリスに入ってロンドンにコーヒーハウスができるなど徐々に流行しますが、

当時は飲酒に代わる刺激の強い嗜好品という扱いでした。

故にエスプレッソは歴史をさかのぼるとトルココーヒーにたどりつくのです。



▼イギリスでは1650年/51年にオックスフォードでコーヒー・ハウスが営業を始め、

1652年には初めてロンドンにコーヒー・ハウスが開業したそうです。


 ですが、最初はイギリスの人間にとってもコーヒーは馴染みのない飲み物であり、

コーヒー・ハウスの近隣の住民が、コーヒーの「悪魔の匂い」の対処を訴え出た記録が残っているそうです。


 ……しかし悪魔の匂いを知っているという事は、連中は今までに悪魔にあった事でもあるのでしょうか?



 初期の反発にもかかわらずコーヒー・ハウスは順調に数を増やしていき、

1666年に起きたロンドン大火で多くのコーヒーハウスが焼失したものの、17世紀末には数100軒から3,000軒にコーヒーハウスが拡大しました。


 ですが1674年には夫がコーヒーハウスに入り浸っていることを非難し、

自らを鑑みる事なくコーヒーが性的不能の原因となったとを主張する、

自称『ロンドンの家庭の主婦』による声明文が発表される。


 そして、コーヒーの有害性を非難するこの『ロンドンの家庭の主婦』に対して、

男性たちのコーヒーへの弁護も公開された。「てめーじゃ起たねーんだよ! 鏡見ろよ!」


 ですが、長らくコーヒー・ハウスはロンドンにおける社交・商取引の場として多くの客に利用されていましたが、

インドの植民地化による安価な茶葉の輸入によって、

遂に18世紀半ばからロンドンのコーヒー・ハウスの数は減少していきました。


 とうとうコーヒー・ハウスに代わる社交場としてクラブ、ティーハウスが台頭し、

イギリスの家庭には紅茶が定着したのでした。



▼フランスでは、1669年にオスマン皇帝メフメト4世によって派遣された

使節スレイマン・アガ(ソリマン・アガ)がルイ14世にコーヒーを献上したことをきっかけに

上流階級にコーヒーが広まりました。


 1671年にマルセイユにフランス最初のコーヒー・ハウスが開業した時、

強い反発を受けた商売敵のワイン商たちからの要求を受けた悪徳医師によって

コーヒーが健康に及ぼす悪影響を偽証したにもかかわらず、

コーヒーはフランスで人気を得ていったのでした。


 1672年にパリ最初のコーヒー・ハウスが開かれ、

劇場に集まる俳優や批評家を対象としたコーヒー・ハウスを開いて成功を収めるました。


 1686年にはカフェ・プロコープが開店し、文人や政治家などの多くの人間が議論を交わした。

また、かつてのフランスではコーヒーが心身に悪影響を及ぼすという迷信が広く知られており、

「コーヒーの毒性」を消すためにコーヒーに牛乳を入れるカフェ・オ・レが考案されたのです。



▼ドイツには1670年頃にコーヒーが伝わり、当初は上流階級に贅沢品として愛飲されていた。


 1679年/80年頃にハンブルク、1721年にベルリンにコーヒー・ハウスが開業、

18世紀後半にはビールに代わる飲み物として一般家庭に普及し、

ライプツィヒではコーヒーが大流行し、

町で最初のコーヒー・ハウス「カフェー・ボーム」には

ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世も訪れたと言われています。


▼北アメリカには1640年頃にオランダによって、

あるいは1670年頃にイギリスによってコーヒーが持ち込まれたと考えられています。


 初期のアメリカでは民衆の飲み物は紅茶であり、

コーヒーは贅沢品でしかなかったのですが、

1683年頃にニューヨークはコーヒー豆の国際的な取引場となり、

イギリスと同様にニューヨーク、ボストンでも続々とコーヒー・ハウスが開店するのでした。


 アメリカ独立の機運が高まる中で起きるべくして起きたボストン茶会事件が、

アメリカ国民の茶への関心を薄れさせるきっかけとなりました。


 反対に1812年〜1814年にかけての米英戦争により紅茶の供給量が一気に減少したことで

コーヒーへの関心が高り、独立後のアメリカへと多量のコーヒーが流入し価格が下落します。


 更には1832年に関税が廃止されたこともコーヒーの普及の一因となり、

結果本国だった英国とは逆に次第にコーヒーが茶に取って代わっていったのでしたのでした。

(注:それでも1830年代の時点ではまだコーヒーは贅沢な嗜好品であり、

一般の人間に日常的に飲用されるまでには至っていなかったのですが)


 なお、輸送手段と包装技術が発達していなかった時代、

シンシナティやオマハで荷揚げされた豆の品質は悪く、

劣化した豆で淹れたコーヒーにはサビ、インディゴ、牛の血などが着色料として添加され、

風味を補うために豆と一緒にシナモン、チョウジ、ココア、タマネギが焙煎されていました。


 19世紀初頭の北アメリカでは、

コーヒーは煮出した苦いコーヒーに牛乳と砂糖を入れて飲まれ、

カップに浮かぶ豆の滓を沈めるために卵、ウナギの皮などが混ぜられる場合まであった。

 ……コレが真のアメリカン珈琲なのか!


 やがて鉄道の発達、蒸気船の導入によって、

鮮度を保ったまま豆を輸送することができるようになると、

1870年代にラテンアメリカからの大量のコーヒーが世界中に過剰に出荷され、

輸送・焙煎・包装の技術革新によってコストが削減されるとコーヒーの市場価格は下がり、

ようやくコーヒーの大衆化が進んだのでした。


もっとも1920年から禁酒法が施行によって、

酒の代用品としてようやくコーヒーの需要が高まったのでしたが。




飲料方:


 初期のコーヒーは抽出器具がなかったので、細かく挽いた豆を手鍋で煮詰め、

出来た上澄みを飲んでいました。


 この方法は現在でもおこなわれているトルココーヒーの淹れ方とよく似ています。

当時のイギリスでのコーヒーは豆を砕いて煮出すというトルコ式の飲み方で、

カップの底にはカスがどうしても残りました。

(それ故初期のコーヒーカップは底の深いものでした)故にこの飲み方では

煮出したコーヒーに豆の粉が混ざってしまい沈殿するまでに長い時間を要する“トルコ風コーヒー”は、

コーヒー好きの人々にとっては悩みのタネでもあったのでしょう。


 後に粉を取り除くため、

紅茶のパックと同様に粉末にした豆を麻の袋に入れて煮出す方法が考案されました。

この方法は、袋が次第に短くされてるかたちで発達し“布ドリップ”が生まれたのです。


 そこでヨーロッパに広まったコーヒーは、

多くの人に飲まれるようになるにつれ、

イブリックと呼ばれるポットのような容器で煮るトルコ風の楽しみ方から、

次第に水差し型の容器に豆を入れて煮出す抽出方法に切り替わっていきました。


 その後、上澄みだけを美味しく抽出する方法が

さらに研究されフランスで1763年に発明された“ネル付きドリップ・ポット”が1800年前後に改良され、

現在私達が使っている「ドリップポット」の原型にまで進化をとげたのです。


 またドイツでは1908年にメリタ・ベンツの手によって

まるで尻軽な恋人のように使い捨てができる“ペーパードリップ”が発明されました。

手軽に楽しめるペーパードリップは、

ドイツ国内のみならずヨーロッパ中で好評を得るとともに大成功を収めたのです。

主婦によるアイディア商品化、発明主婦の先駆けだったのですね。


 更に19世紀の頭には濾過ドリップ式のコーヒー器具発達とは別のルートで、

トルコ式コーヒーのポットを原型とした“浸潰法”の器具=サイフォン式の器具が発明され、

独自の進化を遂げていきました。


 1830年代にはドイツで既に使われていたともいいます。

他方フランスやイギリスでも独自の改良が行われたサイフォンの特許が取得されていました。


 そんな中でも、1841年にフランスのヴァシュー夫人が特許を取得したガラス風船型のサイフォンは、

現在使われているものとほぼ同じ形にまで発展を遂げたとのことです。


 そして水蒸気を応用したエスプレッソ方式はイタリアで改良が進められ、

フランス、ドイツなどにも伝えられていき各地に広まったエスプレッソコーヒーは、

それぞれの土地で独自の淹れ方が追求されていきました。


 なお、コーヒーが紅茶の国イギリスで盛んに飲まれるようになったのは19世紀半ば、

日本で言えば明治維新の少し前頃のおしゃれなサイフォン式の抽出機が発明されてからです。


 これによって、コーヒーは上澄みの液体だけをきれいに取り出すことができ、

そこそこ手軽にその味わいを楽しむことができるようになりさまざまな飲み方のコーヒーが生まれます。


 そのひとつがエスプレッソです。

そして、後にイタリアで発明されたエスプレッソマシンにより、エスプレッソは広く普及します。



 また現在のドリップ用のコーヒーカップは、飲み口の部分が少しすぼんでいまが、

これはコーヒーを抽出するのに時間がかかるため、温度が下がってしまうからです。

口の部分がすぼんでいるのは、コーヒーが少しでも冷めないようにするためだそうです。




逸話:オーストリアのオスマン帝国との戦争にまつわるコーヒーとコーヒー・ハウス伝播


▼1683年にオスマン帝国は第二次ウィーン包囲を行うも無惨にも失敗に終わり、

その際ヨーロッパ諸国側のスパイとして活躍したフランツ・ゲオルグ・コルシツキーが

オスマン軍が放棄した物資の中から発見されたコーヒー豆を密かに自らの懐へとひっそりとしまい込み、

戦後ウィーンにコーヒー・ハウスを開いたのがオーストリアにおけるコーヒーの始まりだと言われています。


 余程懐のでかい男だったのでしょうね! 

また、コルシツキーをメランジュ(ミルクコーヒー)の考案者とする伝承も存在しますが、

しかしそもそもヨーロッパ側が獲得した戦利品にコーヒーが含まれていないなどの理由によって、

逸話の信憑性は疑問視されています。

(注:そりゃ彼が全て隠匿したため公式記録に記載されていないのでは?)


 なおウィーン包囲から20年近く前の1665年には

ウィーン駐在のオスマン大使カラ・マフムト・パシャによって町にコーヒーが紹介されおり、

1666年にカラ・マフムトが帰国した後にコーヒーが販売されるようになったことが記録に残されています。

1683年のウィーン包囲より前に町にはすでに2つのコーヒー・ハウスが存在していたとも考えられています。


 また、客が牛乳/生クリームなどの量を調節して自分好みのコーヒーを注文できる点が

ウィーンのカフェの特徴であり、アインシュペナー(ウィンナ・コーヒー)などの飲み方が知られています。



▼一方かつてオスマン帝国の支配下に置かれていたハンガリーでは、16世紀末からコーヒーが知られていました。


 1541年のブダ陥落の直前、

オスマン軍の陣営に会談に赴いたハンガリーの使者が「黒いスープ」として

コーヒーを出された逸話はよく知られており、

以来「黒いスープ」という言葉は不吉な意味合いを持つようになったとも。




インスタントコーヒーの来歴:


▼1901年にアメリカで開催された博覧会において、

1899年に日本人科学者の加藤サトリによって製造に成功した

世界最初とされる真空乾燥法によるインスタントコーヒー

(水に溶けるコーヒーという意味で「ソリュブル・コーヒー 英語: soluble coffee」と名付けられた)

が出展される。


 このソリュブル・コーヒーはツィーグラーの北極探検隊によって買い取られましたが、

いかんせんインスタントコーヒーは当時の彼らには早すぎた発明であり

消費者の関心を惹きつけるには至らなかったのでした。


 もっとも、このインスタントコーヒーは第一次世界大戦と第二次世界大戦中のアメリカ軍兵士に歓迎され、

第二次世界大戦後に世界中に広まっていったのですが。


 さらに1960年代までに手間を要さないインスタントコーヒーの消費量は増加していき、

家庭調理用コーヒーの約3分の1を占めるまでになったのでした。



▼一方ソビエト連邦時代のロシアではトルコ風の煮出しコーヒーが飲まれ、

ドリップやフィルターはあまり普及しなかった……寒すぎたんだ!

 もっとも、良質なコーヒーの入手が困難なこともありロシアでは「泥臭い」コーヒーよりも

まだ輸入品のインスタントコーヒーの方が好まれていた。



栽培史:

 最初に栽培されたコーヒーノキはエチオピア高原が原産で、

アラビカ種発祥の地であるエチオピア、ケニア、タンザニア、マダガスカルなどには

コーヒーノキの自然林が繁茂している。


 16世紀以前にコーヒーの栽培の考古学的資料は確認されていない。


 16世紀にオスマン帝国でコーヒーが普及するとイエメンの山岳地帯でコーヒーが栽培されるようになる。

「コーヒー」の語源について、「カッファ」の地名が転訛したものとする説が存在する。


 17世紀に入り、ヨーロッパ各国にコーヒーが普及し始めると、

イギリス・フランス・オランダの東インド会社がこぞってイエメンからの輸入取引を始め、

彼らはコーヒー貿易を独占するためイエメンの港モカから出荷される豆には加熱して発芽力を無くす加工が施され、

豆の密輸を企てた商人には罰金刑が科されるのでした。



 もっとも、1610年頃にイスラム教徒ババ・ブーダンによってインドのマイソールに

コーヒーの生豆が持ち出されて栽培がはじまるのでしたが。


 さらに1696年、インドのマラバールの司令官アドリアン・フォン・オメンもまた

マラバール海岸のカンヌール港からジャワ港までコーヒーの苗木を運び、

バダビア(現ジャカルタ)近郊のカダワン農園に植えられと、

生産量が少なく高価なモカコーヒーはヨーロッパの植民地で生産された安価なコーヒーに駆逐されるのです。


 ですが、逆にこれをピンチをチャンスに変えて東アフリカで生産されて

イエメンのアデンから出荷されたドイツのコーヒーは「モカ」

(注:コーヒーの積み出しが行われたイエメンの小さな港の「モカ」の名が

コーヒーブランド:モカコーヒーの由来になった)のブランドを冠して売られたのでした。


 17世紀、エジプトで購入したコーヒー豆をヨーロッパの商人たちは

ヨーロッパで転売して多額の利益を得ていましたが、

オランダの商人はそれに空き足らず大胆にも自分たちで栽培した豆を売って利益を得ようと考え、

1658年にオランダ東インド会社がスラウェシ島、セイロン島へコーヒーの苗木を持ち込んで栽培を試みました。


 さらに1680年にオランダの植民地であるジャワ島にモカから取り寄せられた

コーヒーノキの苗木が植えられ、

1696年にバタヴィア(ジャカルタ)に強制労働施設プランテーションが設置されました。


 1706年ジャワからアムステルダム植物園にコーヒーの木が届き、

この木の種子が1715年頃スリナムで育てられ、フランス領ギアナへ伝わったのでした。

これが1726年にはブラジルへ持ち込まれ大規模栽培へと繋がり奴隷達が酷使されることとなりました。


 1711年/12年にヨーロッパに初めてジャワコーヒーがもたらされ、

アムステルダムの種子はパリの王立植物園にも届き、

1727年にはそこからモーリシャスに伝えられたのです。


 1714年にジャワのコーヒーノキがフランスに寄贈され、

パリの王立植物園の温室に植えられることとなり、

1723年には西インド諸島のマルティニーク島からの嘆願により、このパリのコーヒーノキの1本がマルティニーク島に移植されることになるのです。


 コーヒーノキはガラスケースに入れられて慎重に移送され、

海賊の襲撃や暴風雨、凪などの危機に遭いながら、

コーヒーノキは無事にマルティニーク島に辿り着いたのでした。


 1730年に西インド産のコーヒーがフランスに輸出され、

余剰分は地中海東部に出荷されました。

ヨーロッパ・アラブ世界に逆輸入された西インド産の安価なコーヒーは、

高価なイエメン産のコーヒーに取って代わって市場で中心的な位置を占めるようになったのです。


 インド洋に浮かぶフランス領のブルボン島(レユニオン島)は、

ブルボン種(ボルボン種)のコーヒーで知られているが、

1711年に島に自生するコーヒーノキ(マロン・コーヒー)が発見されるも、

苦味が強く2年ごとにしか収穫できないため、

並行して1715年からモカの苗木が栽培が開始されたのでした。


 マロン・コーヒーは南アメリカにも伝播するが、

イギリス東インド会社が出荷するコーヒーや、

ヨーロッパに近い位置にあるフランス領西インド諸島で生産されたコーヒーに押し出されていくのでした。

1805年のサイクロンで島のコーヒー・プランテーションが壊滅した後、

1810年にルロイ種が島に持ち込まれました。


 1830年にセイロン島総督によって実施された強制栽培制度の一つに指定され、

オランダは一時的に停止していたセイロン島でのコーヒー栽培を再開するが、

1880年頃にセイロン島のコーヒーはさび病で壊滅し、これ以降島では茶の栽培が始められました。


 ジャワ島のコーヒーも同じくさび病で壊滅しましたが、

こちらは従来植えられていたアラビカ種に代えて病虫害に強いロブスタ種が栽培されるようになるのでした。


 オランダからの独立を達成した後のインドネシアでは、

小規模農家によるコーヒー栽培が主流になり、

スマトラ島、スラウェシ島に残ったアラビカ種のコーヒーは、

それぞれマンデリン、トラジャとして知られています。

また、アチェ、バリ島、ティモール島も良質なコーヒーの産地となっています。


 マルティニーク島からラテンアメリカ各地に広がり、

スリナム、ハイチ、キューバ、コスタリカ、ベネズエラでもコーヒーの栽培が始められ、

中でもハイチは18世紀後半までコーヒーの一大産地となっていたが、

18世紀後半から19世紀初頭にかけてのハイチ革命を経て、

ハイチでのコーヒーの産出量は激減しました。


1732年にマルティニーク島からイギリス領のジャマイカに移植され、

「ブルーマウンテン」の起源となったのです。


 低価格のアラビカ種のコーヒーが多量に生産されるブラジルは、

国際社会におけるコーヒーの流通や価格設定に強い影響力を有することになりました。

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