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現実:歴史 『周』<岐山→豊邑→鎬京> - 建国 - 「季歴」-「文王」-「伯邑考」、「武王」、「管叔鮮」、「周公旦」、「蔡叔度」、「霍叔処」、「衛康叔」 - 周の封建制 -

第107部分現実:歴史 「商」の語源 

第109部分 現実:歴史 『周』 建国前 

第110部分 現実:歴史、文化 大きい『羊』は美しい(羌族)「呂尚」

第111部分 現実:歴史  殷周革命 「克殷」


追記編集済み

▼周(西周)の建国:(前1050年頃~前770年)


●「季歴」:文王の父


 「季歴」は「古公亶父」の跡を継ぎ、

その政治姿勢を受け継いで正義を行った。


 それ故、諸侯はこれに従い、

殷の帝辛(紂王)の祖父「文武丁」も、

この西の国である周の季歴を重用した。

だが後に文武丁に監禁され餓死した、とある。

恐ろしい……


 父である季歴の死後に文王「昌」は周の地を受け継ぎ、

三公(特に重要な三人の諸侯)の地位になり、

岐山のふもとより本拠地を灃河の西岸の豊邑

(正しくは豐邑。後の長安の近く)に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。



●「伯邑考」:文王の長男


 商(殷)王にあの伝説の帝「辛」 (紂王)であった。

そもそもの発端は文王「昌」と同じく三公の九侯と鄂侯が共に残酷な殺され方

(肉体を切り刻まれて塩漬け肉と干し肉にされたとのこと)をした事で

思わずため息をついたが、

これを辛のやり方に不満があると

崇侯虎に讒言された昌は羑里ゆうり〈監獄の意〉に幽閉された。


 なおこの際、文王「昌」はこれ幸いと主筆に耽り

周易しゅうえき(易経に記された、爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術)を書いた。


 同時に人質となっていた長男の伯邑考が、辛に煮殺されて、

その肉を刻まれてその汁を賜り、昌はそれを飲食したと伝わる。


 『史記集解』が引く『帝王世紀』によると、

文王の長子で武王の兄にあたる伯邑考は、

文王が殷の紂王によって羑里に捕らわれたとき、伯邑考は殷の人質であった。

後に紂王は伯邑考を醢尸の刑(身体を切り刻む刑)で誅殺して、

釜茹でにして食肉にされた後にその羹(肉汁)にして、文王に与えた。

 紂王は「聖人ならその子の羹を食わないだろう」と言った。

それを聞いた文王は羹を食べた。

 紂王は「誰が西伯(文王)を聖人などと言ったのだ?

その子の羹を食べてなお気づかないではないか」と言った、

とある。


 また、琴の名手として描かれている、明代の小説『封神演義』では、

姫昌が殷の紂王に罪を問われて幽閉されたとき、

父の釈放を願い財宝を持って王都朝歌に出向いた。

 しかし紂王に献上した猿が愛妾妲己を襲ったために隗肉刑に処せられ、

遺体は肉餅ハンバーグのようなものにされて姫昌に与えられた。

 姫昌は肉餅が何であるかを知っていたが、下賜を拒んだと思われることを避け、

肉餅を口にした。姫昌は調理された息子を食べたことで釈放された。

 姫昌が本拠地の西岐(周、洛陽の西潼関のさらに西にある)に帰還したのちに

肉餅を吐き出すと、肉餅は兎になった、

という。



●「文王」:姓は姫、諱は昌。「寧王」とも。


 その後、昌は財宝と領地や美女を辛に献上して釈放され、

西伯(西の統括をする諸侯の事)に任じられた。

この時、影で昌の救出に召公奭が尽力したとも言われる。


 国許に帰った昌は辛に目を付けられないようにしながら仁政を行った。


 昌は後を継ぐと古公亶父の期待通りに周の勢力を拡大させ、殷より西伯

に任ぜられる。


 文王が西伯の地位にあった時にすでに周は殷を上回る力を備えていたが、

文王はあくまで殷の臣下の地位に甘んじた。



・ある逸話がある。

ある時に虞と芮という小国が互いの間の紛争の調停を頼むために周にやってきたが、

周の人民はあぜを譲り合い、老人を敬する気風があったので、

自分たちが些細な事で争っている事に二つの国の君主は恥じてしまい、

文王に面会せずに国許に帰ったと言う。


 周はその後呂尚を軍師に迎え、領土を広げ、

また、北方遊牧民族の犬戎・密須や諸侯国の邗を征伐した。

晩年には政敵の崇侯虎を討伐して、その領土の豊(現在の陝西省西安市近郊)をも併呑したという。


 ただ、帝「辛」 (紂王)の無道に見切りを付けた諸侯は「昌」を頼るようになったが、

昌は最後まで商の臣下としてあり続けた。(ただし反乱の準備をしていないとは言っていない)


 こうして周は太公望が中心となって殷(商)包囲網を着々と築いていく。

しかも表向きは殷(商)に取り入りながら、

裏では殷(商)に気づかれないように密かに他の国々と同盟を結ぶという「強かさ」で。



 昌(紀元前11世紀)は早々に亡くなってしまったため同様の仕打ちを受けた

メディア王国およびアケメネス朝ペルシア王国の将軍ハルパゴス(紀元前6世紀)のように

紂王に「ば~~~~~~っかじゃねぇの!?」とは言えなかった。

 ただ表面上は同じく「私は王のなさることに対して何の異存もございません。」

と言ってはいたが。



●「武王」:文王の次子。姓は姫、諱は発。


 同母兄に伯邑考、同母弟に管叔鮮、周公旦、蔡叔度、霍叔処、康叔封らがいる。

 子は成王、唐叔虞(晋の開祖)、邘叔、応叔、韓叔ら。



 牧野の戦いの勝利の後、

殷を滅ぼし新たに天子となった「武王」は「昌」に対しこの時に「文王」と追号した。


 また帝辛によって誅殺された「比干(帝辛の叔父)」の墓を改葬し、

幽閉されていた「箕子(帝辛の叔父)」を解放し,

「武庚(帝辛の子)」には殷の旧領を与えたが、それを監視する為に

三監(文王の三子の管叔鮮と五子の蔡叔度、さらに八弟の霍叔処ら)を定めた。


さらに古代の聖王達の子孫を探し出し、

・「神農の子孫」を【焦】に

・「黄帝の子孫」を【祝】に

・夏の「堯の子孫」を【薊】に

・夏の「舜の子孫」を【陳】に

・夏の「禹の子孫」を【杞】に

それぞれ封じた。


その後、功臣たちの論功行賞を行い、次のように封じた。

・「呂尚」を【斉】に

・「周公旦」を【魯】に

・「召公奭」を【燕】に

武王は首都の鎬京(現在の西安<旧長安>の近郊)以外に洛邑を副都とし、

天下の武器を廃して兵士を故郷に返す事でもう戦いはしないと言う意思表示をした。


 こうして後世、特に儒家からは武王と並んで聖王として崇められ、為政者の手本となった。

だがその後、ほどなくして武王は病にかかった。

後継者である子の「成王」はまだ年少であったため、

周の行く末を功臣たる呂尚と同母弟の周公旦に托し、病没した。


 だが三監となっていた管叔ら他の兄弟は武王が死に子の成王の治世になると、

兄弟の周公旦(管叔は周公の兄、蔡叔・霍叔は弟)が摂政として、

甥の姫誦を補佐する立場をいい事に朝政を専断しているのに不満を持ったため、

霍叔処を除く二人は旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、

管叔、蔡叔の二人は霍叔を引き込み、前王朝の遺児である禄父を擁立して

殷と繋がりがあった東部の淮夷と連合し謀反「三監の乱」を起こしたが、結果 敗北した。


 反乱を鎮圧した周公旦(文王の四男)は

紂王の子「武庚」と同母兄の「管叔鮮」を共に誅殺し、

同母弟の「蔡叔度」は流罪、「霍叔処」は庶人に落とした。


 三監の乱の後、残党の力を削ぐため殷の故地は東西に分断され、

西側【衛】を周公旦の弟「康叔」(文王の九男)に支配させる。


 なおこの時、周公旦は康叔がまだ若いのを危惧して、

「康誥」・「酒誥」・「梓材」の3つを教え込み、為政者の法則とさせた。


 このため残った東側【宋】に、殷の祭祀を続けさせる為

殷の帝辛(紂王)の長兄(異母兄)「微子啓」を封じた。


 また、前王朝の王統に繋がる国ということで最高位の公爵が与えられていた。

ただ、結局後の戦国時代 (紀元前286年)に斉,楚,魏の連合軍に敗北し、

更に土地を3分されて滅亡するのだが。


 その後、成王も成人したので旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻り

雒邑(洛陽)を営築し、ここが周の副都となった。


 なお中国では【楚】は前史時代から文明を持っており異民族の国とされていて、

殷の時代には既に存在していて周同様「殷」に属していたらしい。


 この長江文明の地にあった楚は、

王に続く、文王ぶんおう成王せいおうの時代には、

周辺の小さな国を併合して、国土を拡大させていった。


 これに対し【呉】は中国の周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、

次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。



 斯くして紀元前1045年 - 周王朝の御代において焦, 祝, 薊, 陳, 杞,

魯、燕、衛、晋、曹、蔡、呉、陳、宋、斉、楚の諸侯が成立したのだ。


 西周は武王の時代に多数の諸侯を分封し、

その後も王族や功績がある臣下を各地に封爵してきました。


 春秋時代初期には百以上の国があったといわれています。

しかし小国の多くは記録が残されておらず、

全ての国の詳細な歴史を述べることは不可能です。


 『史記』には周と秦の「本紀」と、

呉・斉・魯・燕・蔡・曹・陳・杞・衛・宋・晋・楚・越・鄭の「世家」があります。

また、『史記・十二諸侯年表』は

呉・斉・魯・燕・蔡・曹・陳・周・衛・宋・晋・楚・秦・鄭の年表となっています

(十四国ありますが、周と秦は『本紀』に書かれる国なので、

諸侯には数えません。よって十二諸侯になります)。

歴代の史書が主要国として扱っているのはほぼ共通しています。


 なお、周と同盟を結び「牧野の戦い」に集った八つの国

周国、蜀国、羌国、髳国、微国、卢国、彭国、濮国からなる

「牧誓八国」というものがあるのだが。


 牧誓八国の一国古蜀は、武王の帝辛(紂王)討伐にも参加し、

周王室を奉っていたが、中原から遠いこともあって

斉の桓公が死んだ後に諸侯を集めて会盟した「春秋の会盟」には参加できなかった。

周王室が衰退すると蜀がまず王を称し、蜀王杜宇の時代には帝と称した。

その後は開明氏が代々蜀王となって隣国の巴と争った。

蜀は、桀王、紂王の騒乱の時からあり、その国は富んでいてた。

古代には長江文明や巴蜀文化などが繁栄し、

秦に滅ぼされるまで東部の重慶付近に巴国が、西部の成都付近に蜀国が成立した。

それ故現在に至るまで独自の生活習慣や食文化(四川料理)などを育んでいる。

盆地の西部にある山岳地帯では漢民族が支配する前から先住民族が茶を栽培しており、

世界の茶文化の発祥の地である。

そもそも四川は地形的に他の地域と途絶しており、

そこで発見された文明は黄河・長江とも異質な文明を発展させていた。

そこで四川文明と分類されることもある。



 また成王の時代に造られた「何尊(宝鶏市博物館蔵)」には

「中国」の名が含まれた最古の銘文が刻まれている。

この周代において中国文明が成立したと言われる。


 ただこの時代、領土は点と点とを結んだもので面領域ではない。

よって周王朝の勢力領域を確定するのは困難であるので領域は出来ない。



●「神の政治(神権政治)」から「人の政治(封建政治)」に:


 殷(商)は「文字」を発明した。

それはいまでもつかわれている「漢字」だ。

3,000年以上使われている文字は漢字しかない。

殷(商)は文字(甲骨文字)を卜占につかっていた。

卜占は王のみが行える神聖なものだった。


 それに対し、次の王朝「周」では文字は国と国の「契約」につかわれた。

つまり、殷(商)から周への王朝交代は「神の政治」から「人の政治」に、

「神権政治」から「封建政治」に転換したのだった。


 こうして周は殷時代の卜占による神権政治を脱し、封建制を作り上げ、

諸侯を各地に封じて長期にわたって華中地方に支配秩序を維持した。


 つまり周は文化史的には殷の青銅器文化や甲骨文字を引き継いだだけで

新たな文化的な展開にはとぼしかったが、

周王室と血縁関係にある諸侯を各地に封じ、

国を建てて統治させるという封建制の体制を作りあげた。


 後の孔子ら儒家の思想家は

この周の時代を「礼」の理念で統治された理想的な時代ととらえている。

周の時代に、青銅製の貨幣が作られ、商業が発達していった。



▼周の封建制:【宗法】血縁関係 - 宗族(本家:周王と分家:諸侯)


 周王朝には、封建制ほうけんせいが用いられていました。

周王は、自身の一族に爵位を与えて地方の君主とし配置し、

彼らに貢納や従軍の義務を負わせるという仕組みです。


 ですが実は周の封建制は日本や西欧の封建制とは違うのです。

西欧も日本の中世でも同じですが、

本来は領主は領土を与えてくれた君主に恩義を感じて忠誠を誓う、

というのが封建制。


 つまり領地を与える代わりに私はおまえの主人となるのだから逆らうな、

という契約関係、所謂「御恩と奉公」であり、

領地と忠誠を交換しているわけですが

周の封建制を支えているのはそういう契約関係ではないのです。

何かというと、【血縁関係】です。


 これは【宗族】という共通の祖先から枝わかれしたと信じている集団です。

同じ宗族なんだから協力しなくてはいけないというルールを作って

それによってピラミッドの統制を保ちます。


 こうして周王は、血族に加えた配下の有力氏族の首長に(ゆう)を与えます。

まだまだ未開の土地はたくさんありますから

新たな邑を建設させてそこの統治をまかせている。


 こういう新しい邑が周の支配下の土地にたくさん建設されるわけです、所謂開拓村です。

従来の邑の中には殷と近い関係にあったものもたくさんあるでしょうから、

こんなふうに【周王は自身の配下の(ゆう)をつくることで全土ににらみを利かす】ことができたのです。


 このように周王から邑の支配をまかされた者を【諸侯】といいます。

諸侯は公・侯・伯・子・男の五等があった。


 諸侯は周王に対しては軍役と貢納の義務を負いますが、

それ以外は自分の領地をどう支配してもかまいません。


 更にこの諸侯も自分の邑の周辺に配下の有力者を配置します。

この小さな邑を支配するかれらのことをけい大夫たいふ)という。


 要するにピラミッド型に上から、

周王>諸侯>卿・大夫・士とあってみんなそれぞれのランクに合わせて邑を支配している。

これが周の封建制です。士以上が貴族身分、支配者階級と考えてよい。



 このような仕組み、【宗族の規範】のことを【宗法】といいます。

宗法では、周の王様は御本家となり、諸侯は分家。

卿・大夫・士はさらに分家となり、分家は本家に逆らっていけない。


 そう、なぜかというと本家だけが、祖先の霊を祭ることができるからです。

分家の者が祖先神を祭っても良いけど、

本家がお祭りすることで御先祖様は一番喜ぶわけなのです。


 だから、その御本家の周の王様に逆らうわけにはいかないのです。

これが宗法で、この秩序を以て周王は諸侯を統率したのです。


 だから、周の支配の仕組みはまだまだ宗教的ですが、

しかし祖先神のたたりは恐ろしいので誰も逆らえないのです。

貴方は祖先の供養が足りていますか?



 このため、逆に周は殷を滅ぼしたときにその王家の者を全て殺せなかった。

なぜかというと、殺してしまうと、殷王家の祖先神を祭る者がいなくなるので、

そうすれば殷の祖先神が災いをなすかもしれない。

それはそれは恐ろしいので王家の者は生かしておく。これはそういう時代です。



 この周の封建制により北方からの異民族の攻撃にも対抗しうる軍事力を集結することができ、

また周王を頂点とすることにより仲間内での土地をめぐる争いを防止する役目も果たしました。


 しかし、この制度にも時が経つにつれ問題がでてきます。

当初は、周王と地方の君主の間には血縁関係という強いつながりがあったものの、

時が経つにつれ血縁関係が薄れてきます。

そうなってくると、各地方で自立の動きが見えてきます。


 時代は繰り返されるのです。

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