現実:歴史 殷周革命 「克殷」 - 牧野の戦い - 或いは「戈」は「國」の礎
▼殷周易姓革命:紀元前1046年
●エジプト・西アジアの崩壊
・エジプトの古代王朝がまだ最後の繁栄をむかえていた頃地中海東部に
青銅器時代の崩壊『前1200年のカタストロフ(古代ギリシアの暗黒時代)』
という大規模な社会変動が既に起こっていた……
この事件は同時期に東地中海沿岸に向けて大規模な移動と襲撃を開始した
「海の民」と大きな関係があると考えられている。
この突如勃興した海の民によって、ミケーネ、ティリンスが破壊され、ミケーネ文明は崩壊した。
・ヒッタイト帝国に伝わる製鉄技術は、あらゆる国家にとって憧れの的・栄光のシンボルであった。
そしてまた、その製鉄技術には莫大な文明発展の技術が秘められているのだ。
しかしこの鉄の精錬を行うための大量の燃料の消費の為、世界に異変が現われた。
局地的な生態系の破壊である……
一方海の民が既に侵攻を始めており、地中海の海岸沿いの交易路をヒッタイトから切り離しはじめた。
・ミュケナイ文明圏の滅亡を知ったラムセス3世は、エジプトよりアジア駐屯軍を集めて海の民を防いだ。
しかし、やがてエジプトでは全ての保護領が失われ王権は失墜しはじめた。
王権の回復を願うファラオの願いもむなしく軍事的、経済的に著しく衰退し、
前11世紀末には対抗し王権を急速に衰退させた神殿でさえもがその崩壊を呼んだ………
・アナトリアでヒッタイト帝国が崩壊した頃、
海を渡ってきた奇怪な侵入者の群れが都市の富を求めてさらに各地を襲撃していった。
やはり海の民の仕業である……
一方この頃、ユーラシア大陸の反対側に位置する東の中国大陸ではと言うと……
●「克殷」 - 牧野の戦い -:(古代中国の紀元前11世紀)
父の西伯「姫 昌」(文王)が死んだあと、
次子の「姫 発」(武王)は文王の積み上げた反乱の準備を基盤として
商を倒し周王朝を立てる為
「姜 呂尚」(太公望)や「姫 旦」(周公旦)(文王の四男、武王の弟)を左右に
召公奭らの助力を借りて父の事業の継承に励んだ。
・そしてついに殷の紂王は暴虐な振る舞いが多いとして、これを討つために、
一度兵を挙げて盟津まで兵を進めた。
この際、武王は文王の位牌を掲げ、自らを太子「発」と呼び、
この遠征が父の意思によるものであると宣言した。
するとこの時、周軍に瑞兆がいくつも現れたため、
諸侯が武王の元に馳せ参じ、その数は800に達した。
これを見た諸侯達は「今こそ殷を倒す時です」と意気込んだが、
武王はコレではダメだ時期尚早だ、と見て兵を引き上げた。
・2年後の、紂王の暴虐はますます酷くなったので再び兵を挙げた。
この時の周の兵力は戦車300乗、士官3,000人、武装兵45,000人であった。
一方、殷軍は70万を超える大軍を繰り出し
(ただし精鋭部隊が紂王の命令で別方面東方の反乱軍を制圧するために出陣して既に出払っていたとも)
かくして牧野の戦い(ぼくやのたたかい)は始まった。
この殷の帝辛(紂王)と周の姫発を中心とした勢力の両軍が
牧野の地で激突し争った戦いは周軍が勝利し、
こうして約600年続いた殷王朝は倒れ(克殷)、
周王朝が天下を治めることになった。
・その敗因と言うのは、
この時の殷軍は数の上では遥かに優勢であったが、
その数は戦場にて不吉を祓うための神官を含んでいるうえに、
殷に服属している小諸国の軍や、奴隷兵から成り立っていたからであった。
そう、彼らも暴虐な帝辛の支配に嫌気がさしていたので、
呂尚のもとで先進化された周軍の攻勢をみるや矛先を変えて襲い掛かり、
殷軍は壊滅したと言われている。
そもそも殷王朝の軍隊は氏族で構成され、
殷王による徴集を受けると普段は農耕に従事していた氏族の構成員たちが武器をとり、
出征する軍隊を編成し、この軍隊を指揮するのは各氏族の貴族だったのだ。
・ただ、殷には機密兵器「馬曳き戦車」なるものがあった。
そう、強大な軍事力を誇った殷王朝は、
度重なる戦争に勝利を収めるために、
兵種、戦法、軍備などを発展させていたのだ。
⽊と⻘銅でつくられた⼆輪の戦⾞は⾼さ1.5m、横幅3m。
それを⼆頭の⾺で轢かれていた。
殷(商)以前に中国で戦⾞は発⾒されていない。
つまり殷(商)がはじめて戦⾞をつくったことになる。
なぜ殷(商)は突然戦⾞をつくれたのか︖
それは、殷(商)が⻄アジアとつながっていたことに起因すると考えられている。
そもそも中国の歴代の王朝が⻩河のほとりに都を構えたが、
殷墟は⻩河から北に離れたところにあるのは⻄アジアとの貿易のためと考えられている。
例えば殷墟で紅玉髄という石が発見されています。
これは、遠くインド西部やトルキスタンでしか取れませんでした。
インダス、オクサス(バクトリア・マルギアナ複合)文明と繋がっていたと言えます。
なお、バクトリアとはヒマラヤ山脈の西の端っこの
ヒンドゥークシュ山脈さらに西の地、(後のヘレニズム国家グレコ・バクトリア王国の地)で
川とオアシスを利用して古くから農業が行われた。
また同時期の北側では紀元前2300年から1000年頃の青銅器時代に、アンドロノヴォ文化と呼ばれ
中央アジアステップ地帯からシベリア南部の広い範囲の類似する複数の文化から
初期のスポーク型車輪つきチャリオットを生み出した
遊牧民のアンドロノヴォ文化が栄えており、その関係性にも深い関心が持たれる。
また、殷(商)は戦⾞に独⾃に改良を加え、
当時の世界の戦⾞のなかでも最も優れていたものを造った。
たとえば⾞輪に使うスポークの数だが、
紀元前1500年頃にヒクソスよってエジプトに馬曳き戦車がもたらされたが
同時代(紀元前1046年)のエジプトでは未だ6本だったのに対し
殷(商)の⾞輪には20本以上のスポークがあった。それにより
強度が増し、三⼈乗りが可能になった。
だが、その中で特筆すべきは、
「三師戦法」という大量の戦車を活用した戦術が編み出されたことである。
殷王朝が歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍制に変化するのは、
殷の支配域が拡大して黄河中下流域や中原など、
戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場になっていったからと考えられる。
戦車部隊は5輌が最小単位で、戦車兵15人と付随する歩兵15人からなっていた。
100輌の戦車と戦車兵と歩兵がそれぞれ300人、
25輌の戦車と戦車兵と歩兵が75人というふうに、
戦車が5の倍数で、戦車兵と歩兵は15の倍数で編成されていた。
この戦車の運用法「三師戦法」だが、
これは軍隊を左、右、中の3つの部隊に分け、
互いに連携して敵に対処するというものだった。
『呂氏春秋』によると殷の湯王が夏の桀王を討ったとき、
「良車七十乗(輌)、必死(決死隊)六千人」があったといい、
「令三百射」「到三百射」と記載された甲骨文があることから、
一度に戦役に出撃した戦車は300輌にも達していたことが伺える。
ちなみに戦車は歩兵と共同して戦いを行った。
二頭の馬で轢かれた一輌の戦車には3人の兵が乗り、
中央に兵士「御者」が立ち、
左側では戦闘単位の指揮官である「車左」が、
戦闘指揮と弓矢による遠方からの射撃戦を担当し
右側では矛や戈を携えた戦士「車右」が、接近戦/白兵戦に備える。
この戦車が車左の指揮を受けながら御者の操作により戦場を疾駆し、
車左自ら弓射による射撃戦を行いつつ、
白兵戦にもつれ込んだ時点で、二台がすれ違って車右どうしが戈で斬り結び合う、
あるいは敵の戦車に追いすがり、車左や御者に戈の斬撃を加える。
さらに殷(商)の戦車は独自に改良を加え、
当時の世界の戦車のなかでも最も優れていたと言う。
たとえば車輪に使うスポークの数が、
同時代のエジプトでは6本だったのに対し殷(商)の車輪には
20本以上のスポークがあった。
それにより強度が増し、三人乗りが可能になったのだ。
軍備については戦車戦に適した戈や矛、弓矢、木製の盾、刀などが使われた。
その他でも殷王朝では戈と矛を合体させた戟が発明されている。
戈や矛の材質は青銅製で、弓矢の鏃の材質は石器や骨器なども使われた。
防具については戦車兵が立ったままの状態で戦車に乗っていたため標的にされやすく、
そのため重装化が進んだ。
殷代の鎧は皮革から、兜は青銅で作られている。
また、敵の弓矢から身を守るために盾も戦車には用意されていた。
ただ古代中国の「牧野の戦い」では、
殷の二頭立ての戦車に対して、
周連合軍は四頭立ての新型戦車で戦ったと伝えられている。
また、牧野の戦いは文献によれば大規模な大軍同士の戦闘とされるが、
青銅器銘文や甲骨文においては「大邑商に克つ」と記されたものがあり、
戦闘は殷の邑を先制して周が襲撃したものであるとも考えられている。
なお、戦車が力や権力の象徴だった証明が漢字に残されている。
長い棒の先にピッケルのようなものがついた武具である「戈」は、
殷の人々にとって国家の礎であった。
それは「國」という字が物語る。
國は、領土を示す「口」を「戈」で守り、
さらに領土(当時は村)を示す「口」で囲んでいる。
もう一つのポールウェポンである「斧」も権力の根源であった。
斧を象形したものが「戉」であり、そこに飾りがついたものが「成」、
それでもって女性を守る様を示したものが「威」である。
また、斧で特に刃が大きいものが「王」であり、
殷の時代、王が正義(制裁)を取り行う道具と考えられいた。
それに玉の飾りがついがものが「皇」である。
戦争のことを「干戈を交える」という表現があり、
戦、武という漢字にも戈が入っている等から、
古代における兵器としての重要性がうかがえる。
・結末
殷(商)の東側で反乱が多発しており殷(商)の精鋭部隊がそちらに
⾏っているとき「牧野の戦い」が起こった。
そしてたった⼀⽇の「牧野の戦い」で殷軍を破った周軍は
帝辛を追って朝歌まで攻め入り、
その際、帝辛は王宮に火を放ってナンカ死んだ。
発は帝辛の遺体に三本の矢を放ってから鉞で首を落としたという。
斯くして、500年以上続いた殷(商)王朝はあっけなく滅んだ。
『尚書』牧誓によれば、この日の干支は甲子であると記され、
出土した青銅器銘文でも確認されている。
こうして発は周王朝を開いて武王として即位した。