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現実:歴史、文化 - 大きい『羊』は美しい(羌族)- 太公望 「呂尚」

▼「羊」:


 日本語で使われる「美」の文字は漢字であり、

中国において3000年以上前に発明されたものである。



 この「美」という漢字は、「義」や「善」と同様に、

一種の要素合成によって造られており、

それぞれの上半分の部分は「ひつじ」という文字である。


 「優美」「正義」「最善」などの熟語を並べてみれば、

「羊」をふくんだ漢字には

特別な価値観がひそんでいることが理解できると思います。


 そう、漢字の美は形の良い大きな羊を表しており

これは中国古代王朝の人々が羊が

もっとも大切な家畜としていたことからと考えられており、

実際その後も長年羊は貴重な動物であった。


 毛も肉も人間が生きるために欠かせないもので、

それゆえに「大きな羊」が「美」となったのだ。

「羊」と「大」の合成が「美」であり、

「羊」と「我」の合成が「義」であるように

羊は当時の中国人の生存に密着した動物だったのだ。


 そして「羊+食」を合わせて養という字ができた。

ヨウヨウは、発音までひとしい同系語である。

つまり羊肉は古代から最もたいせつな栄養食であったのである。


 この他中国では昔からあか犬の肉も食用にしたが(黒や白の犬は食べない)、

それは羊肉の旨さには及びもつかない。

そこで「いかさま商売」を諷刺して「羊頭をかかげて狗(犬)肉を売る」という。

だからこそ、十二支の動物の名にヒツジが登場したのであった。

(日本の昔話でも似たような話しがあり、フタの上にキジを乗せてるけど中身はカラスであるが、

 キジの肉とは言ってない。と言うのがある)


 また「善」にも「羊」が使われており、

「善」の元の字形「譱」は

「羊」と「言+言」の合成で、

これは「ひつじの首の象形」と「2つの取っ手のある刃物の象形と口の象形」を表し

古代中国で争い事を裁く為

争い事の当事者である原告と被告の双方が「羊」を神の前に差し出して、

それぞれの主張を述べる「羊神判」というものが行われるほどの動物だったからなのです。

故に羊を神の生贄として、両者がよい結論を求める事を意味し、


 そこから、「よい」を意味する「善」という漢字が成り立ちました。



 孔子の『論語』の中にも記されていますが、

中国において「羊」とは神への生けにえとして最高のものであり、

宗教的祭式において献物として利用された動物で、

「犠牲の動物」の意味があります。


 そこから「羊」を要素とする合成漢字には、

「犠牲」の意味が含まれているのです。


 あるいは、この「犠牲」の意味を持つ概念を表現するためだけに、

これらの漢字は合成され造られたとも言えるのではないでしょうか。


 「善」は、「儀式の祭具に盛る限りの犠牲」という意味があり、

「義」とは「我の責任の限りの犠牲」という意味があるが、

「美」とは「大いなる犠牲」なのである。


 この場合の犠牲とは、「自己犠牲」であり、

共同体の命運などに対し、人間として行える最大限の犠牲、

つまり己が命を献げて対象を高めるという含意があり、

言い換えれば、人の倫理の道において、

最も崇高な行いが「美」であったのであった。


 また羊神判の際には、原告・被告の主張する言葉をくわしく調べました。

そこから生まれた漢字が「しょう」で、「くわしい」の意味となりました。


 「しょう」という字は、その羊神判の吉凶きっきょうの予兆のことです。

「さいわい」など、よい吉祥の意味で使われることが多いのですが、

わるい妖祥ようしょうの意味にも使われました。



 一方、白川説では

「美」について『説文解字』に、「羊に従ひ、大に従ふ。」とあり、

会意としているが、白川静は「美」全体を象形とし、

「羊の全形」と解釈している。

以下、白川の字説である。


 羊は羊の上半身を前から見た形で、

羊の後ろ足まで加えて上から見た形が「美」である。

母羊の後ろから小羊が生まれ落ちるさまを「羍」というが、

その上部の大と、「美」の下部の大は同じであり、

母羊を後ろから見た形である。羊は犠牲として神に供えられ、

その羊は美しく完全であることが求められたことから、

成熟した羊の美しさを美といい、のちすべての「うつくしい」の意味に用いられた。

「義」は、羊と我に従う会意であるが

我は鋸の象形であり、羊を鋸で截り、犠牲とする意味である。

その犠牲として神に供えるのに欠陥がないことを「ただしい」という。

このように、我はもと鋸を意味する字であったが、

一人称の代名詞「われ」として使うようになり、

我に代えて、のこぎりを意味する字として形声のキョが作られた。



 さて中国において宗教的祭式において献物として利用された至高の神への生贄「犠牲の動物:羊」だが、

更に歴史上その究極とも言えるのが『両脚羊:二本脚の羊』であるチベット・ビルマ系言語を話す諸民族の総称:羌族である。


 羌族は古代から中国史に名を残す異民族であり、古くは殷代の甲骨文字の中に、羌人に関する記載がある。

その内容とは…… 商(殷)王朝に襲撃されて捕らえられた西の方の羌族の人々は人身御供、つまり祭祀の生贄とされたのである。

「羌は、西戎の牧羊人で、人と羊からなる」とあり、羌の字は人と羊の組み合わせと説く。


 羌族はチベット系民族ですが、その呼称文字の「羊」から知られるように、西アジア地域の遊牧民族で、牧羊を行い

やがて、中国西部に広く勢力を伸ばしてきます。三皇五帝以前より、度々中原に進出し、葛藤と同化を繰り返します。

やがて同化し、漢民族とし漢水の上流にいる羌族を南羌族、青海周辺に居る羌族を西羌族と呼ばれます。


南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となります。


 なお、羌族はおもに農業に従事し、牧畜業も兼ねる。特に井戸掘りと石造建築物の構造技術に長じ、

古代の羌人は分布が広く、中国の西北,西南,中原の一部の地方にもその活動が見られた。

その後、時代を経て古代羌人の一部は現在のチベット・ビルマ語族の中の各族に発展変化し、

別の一部はその他の民族、とくに漢族と融合した。



▼牧羊:


 ただ疑問なのは、

本当に古代の中国では牧羊が盛んに行われていたのかということです。


 遊牧民より農耕民族が圧倒的に多かったはずで、

ならば米や麦の方が「善」「美」の漢字使われたふさわしいし

また「牛」「馬」も同様に貴重だと想うのですが

どうして生贄の犠牲は「羊」になってしまったのでしょうか?


 中国は多民族国家だと言うことは、あまり有名なことではないのですが、

実は漢民族以外にもたくさんの民族がいます。合衆国中国!


 例えばその中でも有名なものに

チンギス・ハンで有名な騎馬民族の蒙古民族などがいますが、

騎馬民族は中国東部に住む農耕民族とたびたび争いを起こします。


 農耕という考えを持たない民族からすれば、

羊のえさが無くなったら、移動してそこにあるものを食べさせるという、

至極当然な考え方も、農耕民族にとっては非常に困ることになり、

その結果として争いになります。


 よく思い返してみれば中国では、

自称漢民族が作った王朝が何回も、騎馬民族によって攻め滅ぼされたり、

都を移す必要に迫られたりします。


 その騎馬民族の恐ろしさ故に、あの「万里の長城」が作られることともなるのですが。

もっとも殷周時代は未だ乗馬がおこなわれていないのですが。(それ故の馬曳き戦車)


 もっとも遊牧民族と定住民の関係はというと……

オアシスから生まれた家畜の放牧は、やがてその勢力(家畜と人口)の増加により

当時の人類がそのオアシスで養える容量を超えたため、

増えすぎた人員と家畜を近場の草原にやり、やがて放牧を周遊させるようになって既に幾世紀。

 次第に周遊の範囲と期間は広がっていき

遂には集団は部族となって、ほぼ一定の地域(夏営地と冬営地)を一定のサイクル(季節ごと)で

移動を繰り返すようになった。


 草原の周りにはこうした巨大な回遊部族が数百となり、人々はその大地で遊牧と交易に励み

その人類の第二の故郷で、人々は子を産み、育て、そして死んでいった。

 だがやがて、交易で得たその高い技術力を持って河川に住む定住の農耕民族と定住による融和同化、

或いは侵略して支配者を名乗り、支配に挑んできた。



 そういったわけで、中国文明は必ずしも農耕民族というわけではありません。

中国料理を注文なさるときに少しメニューをごらんになってください。

「回鍋肉」これは「回族」

(古代に中東からやってきた中国最大のムスリム:イスラム教徒)の

様式の鍋で作った肉料理という意味です。

元々は羊の肉で作られました。しゃぶしゃぶも羊の肉です。


 そもそも中国人は飛ぶものは飛行機以外、泳ぐものは潜水艦以外、

四つ足は机と椅子以外、二本足(両脚羊:二本脚の羊)は親以外なんでも食べる」などと言われ、

古く「禮記」にも三つの生け贄「三牲」としてあげているのが「牛・羊・豚」だったのです。



 また、漢字の起源は「殷王朝」時代(紀元前1700年頃~紀元前1100年頃)

の黄河の下流地域で発見された亀甲獣骨文字(省略して、甲骨文字)ですし、

伝説や史記に寄りますと農業を人間に伝えた神農は、

殷王朝の前の夏王朝の更にその前の三皇五帝の時代(神話の時代)とされています。


 こうなりますと紀元前二千年を遥にさかのぼることとなり、まさに神話の時代となります。


 現在、資料として残っている亀甲獣骨文字の時代は、

甲骨文字の資料と史記の記載とが一致したため、

その資料の正確さが確認されています。


 また、史記の記載の正確さも改めて確認され、

殷王朝の一つ前の「夏王朝」の場所探しも始まっているところです。


 しかし、農業が伝わったのはそれより遥か前の三皇五帝の時代ですので、

やはり神話の時代といわざるを得ません。


 農耕民族は、早くから麦の耕作を始めました。

麦とは「上の方から歩いてくる」という会意文字です。


 これは元々は遠い地方からもたらされたことを意味すると考えられ

おそらく遠く現在のアフガンあたりから麦がやってきて、

これにより麦を耕作することをおぼえたのでしょう。


 それ以降、中国全土の割合からすると非常に少ない、

平坦な肥沃な土地での農耕文化が始まります。

(これが現在の漢民族の始まりとされるのです。)


 しかし、先祖から受け継いだ習慣や伝統は、

そう簡単に変わるものでは無く、

「羊」は「豊かなものの象徴の意味」

として使われ続けたもの、と思われます。


 こんなところからや、他の資料からも、

遊牧民族が流入していたことは、明らかだと思いますが

まだまだ、この時代の事は神話の領域を抜けません。


 なにしろ、殷王朝の遺跡、殷虚が発見されて亀甲獣骨文字の研究が始まりって、

まだ数十年しか経っていないのですから。



 このように殷の甲骨文に人身供犠として見え、

(羌族が、殷に破れた夏王朝と同じ古代西域のチベット系なのは関係があるのか?)

また周の成立に貢献し、

古くから周王室の姓と通婚関係にあった姜族の出であろう男が

太公望 「呂尚」である。



▼(羌族)太公望 「呂尚」:婼羌


 中国史において羌族は氐族とともに最も古くみえる部族の一つである。

しかしながら『漢書』に氐羌の列伝は設けられておらず、

西域伝に婼羌などが記されているのみであった。



 そもそも、当時「周」のあった場所は中国文明の辺境でした。

故に周王朝を建てた部族は元々は西方地方の異民族系統だった可能性が強く

これは夏王朝(チベット族)の生き残りor夏に服属していたチベット族の一派などを含むと思われる。



 さて、中国古代。西周建国の際の功臣。(師尚父と尊称される。)

姓はきよう、氏は呂、名は尚(望)、字は子牙。


『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、

祖先は四嶽の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。


 一族の本姓は姜氏だったが、

支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、

これにより土地名にちなんだ呂姓を称したという。


 元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する。

また呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある。


 彼は貧窮の中に年老いて,渭水で釣をするところを周の文王に見いだされ,

周の先公の太公が望んでいた人物だということで太公望と呼ばれたという。


 この逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。


 彼は軍師として武王の殷王朝討伐に力を尽くし,

元は同族のチベット族をはじめとする周辺部族(南方系やモンゴル族等の北方部族も含む)

と同盟を結んで殷(商)を滅ぼし新たな王朝を打ち建てた。


 これが周であり、その際に主力部族となったのが周の王族と度々婚姻を結んでいた(きょう)族だったと言う。

そう、周は羌族をも由来とするのです。


 その周の主力部族たる(きょう)族であるが

「羌」はチベット・ビルマ系言語を話す諸民族の総称である。


 『後漢書』西羌伝では「羌の源流は三苗、姜氏の別種」とあり、

とても古い時代から中国の人に知られていたようであるが、

その呼称文字の「羊」から知られるように、西アジア地域の遊牧民族である。


 この羌族の歴史はとても長く、甲骨文の時代には、羌族地域は黄河の北岸、

殷帝国の西に位置していた。

今の山西省、陜西省、甘粛省、青海省のあたりである。


 殷(商)の儀式では⼈や⽜の⽣贄を捧げていた。

殷(商)の神は⼈の頭を⾷べるとされていた。(蛇王ザッハークか?)

そして「羌」とは⼈の⽣贄を指すこととなる。

そう、「羌」はあるひとつの遊牧部族の名(むしろ一方的な烙印か?)であった。

殷(商)の⼈々はこの遊牧部族を捕まえ⾸を切り、⽣贄として神に捧げていたのだ


 殷(商)時代、この殷(商)からの奴隷狩り(マンハント)から逃れるため、

羌族は次第に山西省の大部分の地域を放棄して、更に西へと移住していった。


 羌族の「羌」という字は「生贄」という意味をもつといい、

また羌は「姜」とも書きますが、

「 羊+人」「羊+女」で「羊を飼う遊牧民」の意味であるという。



 後に姫発(武王)に「商を滅ぼした後、商の人民はどうすればよいか」と尋ねられたとき

太公望は答えて曰く「皆殺しにすればよいでしょう」 (出典:「説苑」)




 実は羌族は周の時代には、

歴代周王は羌族を后としており、周族と羌族とは同盟関係にあった為

周王朝と密接な関係を持っている。


 そもそも周は姓であり、

キョウ姓とは古くから通婚の関係にあったとされる。


 姜姓の諸国は、羌族が土着して中原諸族の一つとなったもので、

羌の字形からみて牧羊人であり、辮髪をしており、チベット系の種族である。


 羌族は牧畜族ではあるが、あまり戦闘的な性格をもたなかったようである。

(しかしこの温順な種族も、かつては苗族とその地を接していて、

 激しい闘争を繰り返したことが神話として伝えられている。

 まるで戦時になると戦闘用に相転移する日本人みたいである。-Y染色体D系統繋がり-)


 周は飾りを施した楯のかたちで、この特殊な楯を種族のしるしとしていた。

かれらは、通婚関係にある姜姓の諸族からみても、好戦的な種族であったらしい。



 さて、かの太公望 呂尚も、姜尚と呼ばれるように、

姜(羌)族の出身である。

そう、太公望 姜尚は羌であり異民族だ。


 そもそも孔子は名前に畜生(犬とか牛とか羊とか)

を入れてはいけないとしている。


 故に「美」には羊が入っているため名前には使ってはいけないことになる。

また「姜」にも羊が入っており、これは異民族の姓の特徴だ。


 羌は遊牧民であり、農耕をしないため、鄯善国と且末国の穀物にたよっていた。

山からは鉄が産出する。武器には弓,矛,服刀,剣,甲がある。




▼まとめ:


 そもそも後に漢民族と呼ばれるようになる中国文明を作った民族というのは、

こんなふうにどんどん周辺の民族が中国文明化して形作られ

この様に中華の歴史では侵略してきた異民族が中央政権になって、

「自分たちは異民族ではなくなった」と言う訳だ。


 そう、実は中国大陸にとっての「異民族」というものは、

その時の政権にとって、「自分たちとは異なる民族」だ!

という程度の意味しかないことが、これからわかる。


 差別された側が、差別した側を打倒していくのが中華の歴史である。

謂わば、原液にドンドン異物が混入して原型を留めなくなっているようなものだ……

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